鉾田市にある小さな城跡、徳宿城は、平安末期に平国香を祖とする常陸大掾庶流鹿島成幹の長子親幹が築城し徳宿氏を名乗ったといわれています。2代秀幹の長男・俊幹は安房と鉾田を含めた地域を譲渡され、安房氏の祖ともなり、また次男朝秀は、烟田村他三カ村を譲渡され烟田氏となり、この地に勢力を拡げていきました。
文明18年(1486)9代道幹の時、水戸城を本拠とする江戸氏から攻められ、江戸氏総勢2千余名に対し、徳宿氏は総勢3百余名、鹿行下総の大掾氏一族の援軍千五百名の到着が間に合わず、城主、重臣は討ち死にし落城、徳宿氏も滅亡してしまいます。間に合わなかった援軍は樅山において江戸氏と戦うも決着がつかず和睦、多数の死者を出した世にいう「徳宿合戦」「樅山合戦」の幕が閉じます。
なお、那珂西城(城里町)の南東角の杉林の中にこの戦いの134の首級を葬ったと伝わる「首塚」がありますが、当時の那珂西城主が江戸氏に加わって持ち帰ったものか?この地に逃れた一族が葬ったものか?空想はふくらみますが…?。
本丸の曲輪Ⅰ(写真右)の周りは北西部を除き幅の広い腰曲輪が取り巻いています。
曲輪Ⅰにある稲荷神社、その他に熊野三社権現など全部で七ツの社が石碑などで祀られています。
曲輪Ⅰの南端部には、徳宿氏事績考碑という石碑と慰霊の宝篋印塔が建っています。
曲輪Ⅱから本丸へ向かう土塁です。
曲輪Ⅰから曲輪Ⅱに向かう左手の空堀です。
徳宿氏滅亡のあとも戦国時代を生き抜いてこの地区を支配した大掾一族ですが、天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐が発生すると、大掾氏一族は参陣をしなかったため、参陣をした佐竹義重に常陸国が与えられます。すぐに佐竹義重は水戸城を攻めて江戸重通を追い出し、その勢いで府中城も攻め大掾清幹は自害、これにより400年続いた常陸大掾宗家は滅亡します。さらに翌天正19年(1591年)2月、義重は三十三館主と呼ばれた鹿島・行方郡の大掾氏一族の主を太田城に招いて謀殺し、すぐに鹿島、行方郡に軍を進め、大掾氏一族もほとんど滅亡してしまいます。