あー、書かなきゃダメかな~。
うー、あんまし書きたくないな~。
というか、姉歯氏の時は「1級建築士とってから偉そうなこと言えよ!」という
自分の中でジレンマがあったので、敢えて話題を反らして
誤魔化していたのですが・・・
今回は2級だから少し思ってることを書いてもいいかな?
(いいとも~!)ということで、ちょっと真面目に話します。
略してマジバナ。
------------------------------------
「本当にそのバスに乗っていいのか?」
------------------------------------
そうです、昨日から話題になってる札幌の構造計算偽造?問題。
率直に昨日のニュース見た感想は、同じ2級建築士として恥ずかしい。
やっぱ2級は2級なんだなーと、頭悪いよなーと。
出来ないことすんじゃねーっちゅー。
「信念」で人殺しの真似していいんか!っちゅー。
幕下が土俵下で、横綱の取り組みに何の物言いつけてんだ!っつー。
あの会見は本来、元請けの(おそらく名前だけの)1級建築士がするべきです。
責任は名前貸してるだけだとしても、当然その人の責任。
2級建築士ごときの弁明の余地なし。
無免許で車運転して当て逃げしてるのと同じだもん。
本人は、ブラックジャック気取りかもしれないけど・・・。
しかも、相当の飲酒運転・・・自分に酔ってる。
おそらく早急に出来る手立てとしては、
「構造計算士」及びそれをチェックする
「構造計算書監理士」という資格が必要なのではないか?
今の建築士の資格では、1級であろうが、2級であろうが、
原付免許しか持ってないのに、
(スクーターを運転する技術や知識しか持ってないのに)
大型観光バスをお客乗せて運転してもいいとなってるようなもので、
資格第一主義というか、資格持ってればあとは自己責任で!じゃ
・・何でもアリ・アリなんだもの。
あくまで、「構造計算」は「計算」でしかないのだけれど、
少なくとも計算の段階で改ざんされるべきではない。
今の構造計算には「無知と打算」という数字が差し引かれてる。
倒壊(逃げる時間なく建物が瞬時に倒れてしまう)と、
崩壊(壊れるんだけど、一定の逃げる時間が確保されてから建物が崩れる)
の違いとか、
実際の複雑な揺れ方をする地震に対して、計算との差はあるので、
本当に今の基準自体に問題はないのか?とか・・・
いくら構造計算書と設計が良くても、実際の施工に反映されなかったり、
コスト削減、利益優先に走り、施工段階で誤魔化しやミスが更に加わる
可能性の方が大きいし、実際、工場生産でないので、あって然り。
耐震優先で過大なコストを費やして、過剰設計、過剰施工ばかり
してていいものか?とか・・・(=環境への配慮もあるし)
様々な疑問はあるにせよ。
せめて、計算書段階で誤魔化して「得=打算」があるようなことでは
身も蓋もない。そういうシステムになってるのが一番問題だと思う。
昔から「先生」と呼ばれる職業には、やっていいことと、悪いことというか、
自分の力量に見合っているか、見合ってないのかとか、
もちろん人命が最優先だという倫理というか、
常識ってのは本人に備わってる、若しくは「そうなろう」という志を
持った人に対して尊敬の念を込めて「先生」と呼んでいたし、
呼ばれた方にも、呼ばれるだけの知識や努力があったはず。
政治家も弁護士も教授も学校の先生も医者も・・・然り。
我々も一昔にくらべたら、非常に厳しい競争の中で、
低予算、短工期の条件でしかも物件減少のため、過酷な条件の物件でも
利潤追求を直接的にその現場で要求される。
ただ、先輩達から教えとして、どんなに苦しくても、
見栄えのする内装などはランク落としても、
「構造だけは勝手にランク落としてはいけない!」と言われてきた。
それは施工者として、絶対に手を染めてはいけない
聖域のような部分だったのです。
「自由競争」という言葉は、「何しても勝てばいいんだ!」の理論でなく、
倫理観とか常識とは何かを問われている。
「自由」って、聞こえはいいけど、
「悪魔と天使の囁きの中で、自分を由(よし)とせねばならない」
だからこそ、「無知は罪」であり、勉強と努力し続ける必要がある。
「構造改革」と「自由競争」がイコールで繋がっている限り、
「水と安全はタダ」だと思っていた日本神話は崩壊してることに
早く気づかねばならない。
なんてカッコイイことは、
「一級建築士取得はライフワークです!」なんてふざけてないで、
少なくとも「一級建築士」をとってから言わなくちゃいけないんですけど・・・。
まずは、勉強しなきゃなー。
土俵に乗ってからじゃないとね・・・何言ってもダメダメ。説得力なし。
会見してる2級建築士の態度には、
自分自身の愚かさが映り込んでる鏡のように見えた。
(実際、顔とか・・ちょっと雰囲気似てるんだけどね
・・・そういうことじゃないでしょ?っつー。)
「人を見たら泥棒と思え!」みたいなのが、
先人達の望んだ日本の未来だったのだろうか?
>ユキちゃん カッコイイー!
カッコイイことは、誰でもいくらでも言えるんだよな。
もうすでに「行き先なら何処でもいい~♪」なんてNO天気な
バスに乗ってしまっていることに早く気づくべきだ。
うー、あんまし書きたくないな~。
というか、姉歯氏の時は「1級建築士とってから偉そうなこと言えよ!」という
自分の中でジレンマがあったので、敢えて話題を反らして
誤魔化していたのですが・・・
今回は2級だから少し思ってることを書いてもいいかな?
(いいとも~!)ということで、ちょっと真面目に話します。
略してマジバナ。
------------------------------------
「本当にそのバスに乗っていいのか?」
------------------------------------
そうです、昨日から話題になってる札幌の構造計算偽造?問題。
率直に昨日のニュース見た感想は、同じ2級建築士として恥ずかしい。
やっぱ2級は2級なんだなーと、頭悪いよなーと。
出来ないことすんじゃねーっちゅー。
「信念」で人殺しの真似していいんか!っちゅー。
幕下が土俵下で、横綱の取り組みに何の物言いつけてんだ!っつー。
あの会見は本来、元請けの(おそらく名前だけの)1級建築士がするべきです。
責任は名前貸してるだけだとしても、当然その人の責任。
2級建築士ごときの弁明の余地なし。
無免許で車運転して当て逃げしてるのと同じだもん。
本人は、ブラックジャック気取りかもしれないけど・・・。
しかも、相当の飲酒運転・・・自分に酔ってる。
おそらく早急に出来る手立てとしては、
「構造計算士」及びそれをチェックする
「構造計算書監理士」という資格が必要なのではないか?
今の建築士の資格では、1級であろうが、2級であろうが、
原付免許しか持ってないのに、
(スクーターを運転する技術や知識しか持ってないのに)
大型観光バスをお客乗せて運転してもいいとなってるようなもので、
資格第一主義というか、資格持ってればあとは自己責任で!じゃ
・・何でもアリ・アリなんだもの。
あくまで、「構造計算」は「計算」でしかないのだけれど、
少なくとも計算の段階で改ざんされるべきではない。
今の構造計算には「無知と打算」という数字が差し引かれてる。
倒壊(逃げる時間なく建物が瞬時に倒れてしまう)と、
崩壊(壊れるんだけど、一定の逃げる時間が確保されてから建物が崩れる)
の違いとか、
実際の複雑な揺れ方をする地震に対して、計算との差はあるので、
本当に今の基準自体に問題はないのか?とか・・・
いくら構造計算書と設計が良くても、実際の施工に反映されなかったり、
コスト削減、利益優先に走り、施工段階で誤魔化しやミスが更に加わる
可能性の方が大きいし、実際、工場生産でないので、あって然り。
耐震優先で過大なコストを費やして、過剰設計、過剰施工ばかり
してていいものか?とか・・・(=環境への配慮もあるし)
様々な疑問はあるにせよ。
せめて、計算書段階で誤魔化して「得=打算」があるようなことでは
身も蓋もない。そういうシステムになってるのが一番問題だと思う。
昔から「先生」と呼ばれる職業には、やっていいことと、悪いことというか、
自分の力量に見合っているか、見合ってないのかとか、
もちろん人命が最優先だという倫理というか、
常識ってのは本人に備わってる、若しくは「そうなろう」という志を
持った人に対して尊敬の念を込めて「先生」と呼んでいたし、
呼ばれた方にも、呼ばれるだけの知識や努力があったはず。
政治家も弁護士も教授も学校の先生も医者も・・・然り。
我々も一昔にくらべたら、非常に厳しい競争の中で、
低予算、短工期の条件でしかも物件減少のため、過酷な条件の物件でも
利潤追求を直接的にその現場で要求される。
ただ、先輩達から教えとして、どんなに苦しくても、
見栄えのする内装などはランク落としても、
「構造だけは勝手にランク落としてはいけない!」と言われてきた。
それは施工者として、絶対に手を染めてはいけない
聖域のような部分だったのです。
「自由競争」という言葉は、「何しても勝てばいいんだ!」の理論でなく、
倫理観とか常識とは何かを問われている。
「自由」って、聞こえはいいけど、
「悪魔と天使の囁きの中で、自分を由(よし)とせねばならない」
だからこそ、「無知は罪」であり、勉強と努力し続ける必要がある。
「構造改革」と「自由競争」がイコールで繋がっている限り、
「水と安全はタダ」だと思っていた日本神話は崩壊してることに
早く気づかねばならない。
なんてカッコイイことは、
「一級建築士取得はライフワークです!」なんてふざけてないで、
少なくとも「一級建築士」をとってから言わなくちゃいけないんですけど・・・。
まずは、勉強しなきゃなー。
土俵に乗ってからじゃないとね・・・何言ってもダメダメ。説得力なし。
会見してる2級建築士の態度には、
自分自身の愚かさが映り込んでる鏡のように見えた。
(実際、顔とか・・ちょっと雰囲気似てるんだけどね
・・・そういうことじゃないでしょ?っつー。)
「人を見たら泥棒と思え!」みたいなのが、
先人達の望んだ日本の未来だったのだろうか?
>ユキちゃん カッコイイー!
カッコイイことは、誰でもいくらでも言えるんだよな。
もうすでに「行き先なら何処でもいい~♪」なんてNO天気な
バスに乗ってしまっていることに早く気づくべきだ。
あとは人として正しく生きればいい。
正しく生きるとは、真善美の追求だ。
金のためならなんでもするという現代の風潮は歴史的に見れば話にならない低次元の考え方だ。
人のために善行をしたときの清清しさ、国のために若い命を捧げた人への涙の感動、そういう自分の心に素直になったらいい。
という判断基準自体の崩壊というか、
疑念が問題なのではないかと最近思っています。
振りかざされた「正義」という名の拳が、
今の争いごとを助長しているような気がします。
「真善美」という言葉は初めて知りましたが、
今は「美しい」か「美しくないか」という考え方の方が判りやすいかもしれませんね。
いくら物的に豊かになっても
決して心は「豊か」な社会にはならなかった。
「清貧」って言葉も今また必要なのかも?
ただ嘆いてばかりいても仕方がない。
その気はなくとも、黙って見過ごすことは
肯定し加担していると同じというのも事実。
「善の研究」という本(文庫本で600円位)を18才で読み、30代でもまた買って読んでみた。西田幾多郎という明治の哲学者だ。自分の考え方と一致していて分かりやすかった。特に神について宗教については良く理解できた。
そのほか新渡戸稲造、内村鑑三、小林秀雄などちょっと難解だが代表的な本は読んでみた。江戸時代末期の哲学者も良いことを言っているようだが、読んだことはない。
日本の優秀な指導者は清貧を旨としている。山本五十六、土光さん(元経団連会長)もそうだった。
世の中の価値観というのは、人の手では止められない。大きな失敗(敗戦、経済恐慌)をして初めて変えられるものだ。行きつく所まで行くしかない。
次に時代の準備をしているものが5%くらいはいるらしい、いつの時代でも。
現代の価値観に迎合することはない。
和英だとtruth, goodness, and beauty
学はなくとも、
「美しいか 美しくないか?」
・・・なんとなく、的は、外してなかった・・・かな?
いつの時代でも「審美眼」を持っていたいものです。
え?!
審美眼を持ってたら、お前の醜い脂肪でできた
その体系なんとかしろ?
次の時代では、肥えてる人が流行りなんですよ~ん。(たぶん)
え~・・・準備は抜かりなく!です。(笑)
5%と言わずに、皆で一緒に太りましょう!
・・・これだから学のない者はダメね~♪
「真善美」教えていただきありがとうございました!
「先生」だと小馬鹿にしたみたいで誤解されると嫌なので、「教授」って呼ぼう。
教授!またいろいろ教えてください!
ビートルズもエルビスプレスリー(古い)も、初めはミーハーしか聞かなかった。
ミーハーに芸術の先端が見えていて、ニートに経済の先端が見えていたりする。
時代が大きく変わるとき多数派は滅びるが、アウトローは生き延びて新しい時代の主役となる。そうやって種は保存されてゆく。