(
その1と、
その2の続き)
(古谷)一行(いっこう)は渋谷へ。「どんだけぇ~♪」(それ、IKKOやね)
いやはや、ひとりなら絶対に近寄らない街です。もっとも似つかわしくない街、、、それが渋谷。
渋谷駅前は、イメージ通り、ハチ公の前で待ち合わせの人の山。「これ、渡れんのか?」ってくらい、どっから集まってくるのかわからない
スクランブル交差点で動画を撮ってみたりしました。すくらんぶるろけんろー♪ ちょっとした棒倒しとか騎馬戦の勢いっすね。「いざ出陣じゃ!」ですな。
渋谷ってくらいですから、やはり「谷」だったんでしょうね。ちょっと調べてみますと、、、
何万年もの時をかけて渋谷川と宇田川が削ってできた谷を東西方向に横断しようと、いつの日か渋谷川に橋が架けられ、谷に二つの坂ができた。橋は宮益橋で、二つの坂とは現在の、東が宮益坂で西が道玄坂である。鎌倉時代には既に鎌倉街道としてこの谷越えルートはあったのでその歴史は長い。(
日経電子版より)
なので、坂道(のアポロン)をノッシノッシと上がって行きます。結構、足にキマてます、キテます。
日本放送協会(NHK)の真ん前にある渋谷税務署の一角に慰霊碑があります。慰霊碑と言うか、観音像が天に向かって指をさしてました。何かを意味してるんのかな?・・・とても印象的でした。
ここは東京陸軍刑務所の跡地でニ・ニ六事件を首謀した若い将校が処刑された場所です。
ニ・ニ六事件とは?
1936年2月26日早朝、東京は何十年ぶりの大雪だったと言う。陸軍の青年将校に率いられた約1500人の反乱部隊が決起して首相官邸などを襲撃した。日本列島を震撼させたクーデター未遂事件の模様を写真で振り返った。襲撃を受けた岡田啓介首相は無事だったが、高橋是清(これきよ)蔵相、斎藤実(まこと)内大臣らが殺害された。反乱部隊は陸軍省、参謀本部、警視庁などを占拠、永田町周辺を封鎖した。
部隊を指揮した青年将校らは、「昭和維新」を掲げて陸軍部内で国家革新を目指した「皇道派」グループに属し、クーデターによる天皇親政を目指していた。しかし、昭和天皇は「最も信頼する老臣を殺傷することは真綿にて我が首を絞めるに等しい行為」と激怒、鎮圧を命じた。
2月29日、戒厳司令部は約2万4000人の兵力で反乱軍を包囲して戦闘態勢をとった。そしてラジオや飛行機からのビラ、アドバルーンなどで「今からでも遅くないから原隊へ帰れ」「お前達の父母兄弟は国賊となるので皆泣いておるぞ」などと、下士官・兵に帰順を呼びかけた。このため大部分の下士官・兵は帰順し、青年将校も野中大尉が自決したほかは、憲兵隊に検挙され、東京陸軍刑務所だったこの渋谷の地で弁明の機会もない軍法会議ですぐに処刑された。
当時は、この事件の前に海軍青年将校らが起こした五・一五事件(1932年)があり、犬養毅総理を殺害ほか、各地を襲撃したが禁錮15年以下の刑しか受けなかったことも二・二六事件の動機の一つになったともいわれる。ただし五・一五事件は古賀清志海軍中尉らの独断によるテロであり、将校としての地位を利用して部下多数を動員したクーデターではないとされている。
皮肉にも、この事件の結果、皇道派は壊滅し、東條英機ら統制派の政治的発言力がますます強くなってしまい、5年後の太平洋戦争の開戦へと繋がっていくことになった。
前出の高橋是清もこの事件で殺害されました。(
その2 参照)
もしも、、、たらればの話をしても仕方ないのですが、この「昭和維新」を唱えたクーデターが成功していたら・・・もしかして、太平洋戦争は起こらなかったのかも知れないと思うと、大きなターニングポイントだったとも考えられますよね。「その時、歴史が動いた!」じゃないですかね?噂では、近くで軍靴の音がするとかNHKのスタジオでは将校の霊が出るとか言われてるらしいです。(^_^;)
確かに、やったことは殺戮であって人道的には決して良いことではなかったと思いますが、20代のまだ若い将校たちの「国をおもうんがばかり」の純粋な気持ちを考えるとあまりにも無念だったことと思います。
逆に、面白い話としては、実は5代目の「柳家 小さん」がこの事件で反乱兵士として参加していたと言うか、させられていたらしいのです。
前座時代の1936年、大日本帝国陸軍歩兵第3連隊に徴兵され二等兵となる。同年2月26日に起こった二・二六事件では、反乱部隊の機関銃兵として警視庁占拠に出動した。小さんや同僚兵士は事前にまったくクーデター計画を知らされず、当日出動命令を受けて支給された弾薬が実弾だったことから「あれ、今日は、演習じゃねえんだな」と思った。反乱部隊の屯所に畑和(後の埼玉県知事)らとともに詰めていたが、知らぬうちに自分たちが反乱軍に参加していると知って意気阻喪気味の兵士を見た指揮官に「士気高揚に一席やれ」と命令された。持ちネタの『子ほめ』を演じたが、「えらいことしちゃった」と悄然としている兵士たちは笑うわけがない。「面白くないぞッ!」のヤジに、「そりゃそうです。演っているほうだって、ちっとも面白くないんだから」と返した(本人の回顧談)。
どこまでがホントでどこまでがネタなのかわかりませんが、ほとんどの下級兵たちは何も知らずに参加していたと言うより、させられていたようです。事件のあった霞が関周辺でも通り一本違えば、一体何が起こっているのかよくわからなかったらしいです。
(タイムトラベル感出してみました。Amwayの本社ビル?のオブジェ)
その場所から徒歩でトホトホ・・・(もう、いいんじゃない、そのくだり)坂を下るように歩いて行くと、古い米屋さんがあります。
その隅の電信柱の影に隠れるようにして小さな小さな慰霊碑がありました。
渋谷暴動事件
昭和46.11.14 沖縄での沖縄返還協定批准阻止のゼネストに呼応し、渋谷、四ッ谷などで行われた沖縄返還協定批准阻止闘争。騒乱。中核派の学生ら約400人が渋谷で警戒中の機動隊や渋谷駅前派出所を襲撃。
この時、関東管区機動隊新潟中央小隊(新潟中央警察署)の中村恒雄巡査(当時21、2階級特進で警部補)を鉄パイプで殴り、大坂正明が火炎瓶を投げつけ殺害した。他に3名が重傷。その火炎瓶を投げたとされる指名手配だった大坂正明容疑者が2017年6月に逮捕された。過激派「中核派」は大坂容疑者の46年に及ぶ逃亡生活を組織ぐるみで支援していたとみられる。
今回の旅に誘っていただいた時に聞いたこの事件の話、被害に遭われた巡査が新潟の方と言うことで、とてもショックだったのですが、現場に行って・・・もっとショックでした。同僚の警察官がカンパを集めて、ここに慰霊碑を建立したと聞いていたのですが、地元のおばあちゃんから「え?何かあるの?」って聞かれたくらい、こんなところに?って感じの小さな小さな慰霊碑でした。黒御影の慰霊碑にはこんな句が記されております。
『星一つ 落ちて都の 寒椿』 新潟の女性の警官の句らしいですが、星一つとは亡くなられた巡査の階級とのこと。
・・・手を合せると、涙が出そうで切ない気持ちになりました。
この後、「
実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」って映画を観ました。警察側からの視点で撮られた「
突入せよ! あさま山荘事件」の映画を観た若松孝二監督が私費を投じて、赤軍派の視点から撮った映画の方です。なので、大学の学費値上げ反対から始まった学生運動が、どうして、あさま山荘に立てこもったのかと言う一連の流れがわかりました。
事件の流れがわかった上で、改めて思うのは、ニ・ニ六事件とは違って、全く共感できる余地がない虚しい事件で、被害者も加害者も、何でこんな事にならなければいけなかったのかわからない、わかりたくないと言う感想です。
ただただ、合掌。 お悔やみ申し上げます。
そしていよいよ、このタイムトラベルも本日最後のタイムリープ地点「九段下」で、「九段会館」の見学です。(
九段会館については、以前の記事をご参照ください。)
到着は、夕方5時前くらいだったと思います。まだ陽が沈む前でしっかり見ると事ができました。心配してた「工事中」とのことでしたが、外壁に足場など掛かってる訳でなく、内部の解体工事を進めてる感じでした。
ニ・二六事件の時には、この建物が戒厳司令部が置かれていたのは事前に知ってましたが、実は屋上には靖国神社の分神が祀られているほか、陸軍大将・乃木希典の歌碑も建てられていたのだそうです。。。ぎゃー!ここで繋がったー!凄い!
後ろに大きなビルが建つようですが、特徴的な「城郭風」の建築様式を一部残されると言うことなので、とりあえず一安心。工事前に見れて良かった。
さて、夜は打上げです。「たべものがかり」の出番ですが、下調べすればするほどどうして良いか、何処へ行ってよいかわからなくなります。私は息子のアパートに泊めてもらうので、東西線沿いが希望で、同行の先輩の宿は上野。互いに別々の方角だったので中間地点で同じ路線の駅=「日本橋」が良いのではないか?と思ってたのですが、あんまり魅力的なお店も見つからず、こうなったら出たとこ勝負!と言う掛けに出ました。
大手町周辺だったら?と思い降りてみたら、全くない・・・仕方がないので「神田」方面に、なんだ神田?歩いてくと、神田駅前で、ちょっと良さそうな焼き鳥屋さん発見。。。その名は・・・大衆酒場 五郎 神田西口店。
うむ、焼き鳥共の夢のあと。。。でござる。
まー、どれを食べてもごくごく普通。 ひとり2500円くらいだったと思うので、まー、お値段もごくごく普通。(^_^;)
ドリンク1杯無料券をもらったけど、もう行くことはないと思われます。(泣)
2軒目は、もっと駅に近い「テング酒場 神田店」。
オニオンスライスを頼んだけど、ライスが付いて来なかった件!!(笑)
椎名誠さんが、学生の頃だったか?サラリーマン時代だったかに、1番安くてお腹が膨れそうなメニューを探してたら「オニオンスライス」を「オニオン+ライス」だと思って頼んだ話を思い出します。
ここでは、日本酒をいっぱい呑んでしまって、西葛西まで帰れるか?危険信号が点りましたが・・・なんとか、東京駅まで行って、東西線に乗ることが出来ました。
酒のチカラを借りて、なんとか歩けましたが、もう「・・・体力の限界。」千代の富士の引退会見みたいな事を・・・私の足が申しております。私じゃないよ、私の足が申しておりまする。
東京タイムトラベル2日目は、、、その4に続きます。