♪♪あなた知ってる?~広島~

HP「広島ぶらり散歩」編集&更新の履歴ブログです。
広島市は“平和都市”のほか“水の都ひろしま”も推進しています。

番外:あと4勝

2016年10月16日 08時57分19秒 | 雑関連
緒方孝市監督、高信二ヘッドコーチ以下コーチ陣の皆さん、
ベンチ入りした選手はもちろんカープの選手諸氏、
球団職員、球団を裏方として支えてくれた方々
ありがとうございました。

いよいよ日本一に挑戦できるときが来ましたね。
日本ハム、ソフトバンクどちらのチームになっても強いチーム、
挑戦者としてあと4勝をもぎ取ってください。


(裕編集の)「広島カープ関連」編

10月16日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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何処へ行っても:(鳴門競艇場)孝養の像

2016年10月15日 08時13分31秒 | 何処へ行っても
ここで取り上げた「孝養の像」は、全国の競艇場などに建立されているそうです。

像は笹川良一が59歳のとき、82歳の母親・テルを背負って金毘羅参りのため、785段の石段を登っている様子を表しているとされ、像の作者は加藤知彦です。

※宮島競艇場でこの孝養の像をみてから児島競艇場でも撮影しました。
この像の扱われ方に違いがあったように思いましたのでここ鳴門競艇場でも撮影したのです。


(裕編集の)〔鳴門競艇場の〕加藤和彦作:孝養の像

10月15日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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何処へ行っても:鳴門競艇場

2016年10月14日 07時49分20秒 | 何処へ行っても
徳島県鳴門市撫養町(むやちょう)大桑島字濘岩浜(あざ・すべりいわはま)の鳴門競艇場です。

※(一社)全国モーターボート競争施行者協議会の施設紹介に、
『ボートレース鳴門では、2016年4月28日に新スタンドがオープンいたしました。
スタンド棟、付属棟を合わせた規模は全国24ヶ所のボートレース場で最小となっています。
施設規模を旧施設の約4分の1に縮小するとともに、新たに住民の交流スペースなどを設けており、地域に開放された施設となっています。』と云っています。

9月にはじめて行った鳴門競艇場をみた時、小さい競艇場だなと思ったのです。
あとで知った全国24競艇場最小の施設だったことからでしょう。
しかし、この鳴門競艇場も分煙が徹底され明るく清潔で、(開場して半年にも満たないとはいえ)煙草の匂いがしないことにほっとしたわたしでした。
平日でしたので、家族連れを何組もみることはありませんでしたが、子どもを連れてきても安心できる施設になっているように思いました。

(裕編集の)鳴門競艇場

10月14日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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中区:新しくなった池田勇人像

2016年10月13日 07時56分03秒 | 野外彫刻等
中区基町の広島城お堀東側(中央公園内にあたります)に建立されている「池田勇人像」です。
作者は、森野圓象です。

現在の像は2015年7月に複製の池田勇人像に取り替えられましたので二代目の銅像です。


2011年撮影した画像です。(2004年はじめて撮影して以来サビが目立ってきていました)


(裕編集の)〔あたらしくなった〕池田勇人像

10月13日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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中区:(広島城跡)桜の池跡

2016年10月12日 07時59分40秒 | 公園・緑地等
中区基町の広島城跡の中に広島市に近代水道が引かれた記念として造られた「桜の池」でした。

東区牛田にある広島市水道資料館を見学した時、次のようなことを知りました。
『(旧広島市域では)太田川の水をそのまま飲用していたため、伝染病の流行の原因となっていました。
明治27年の日清戦争の勃発により、軍用水道の整備が急がれ、これに併せて市民水道も整備することになりました。
布設計画は、英国人技師W.K.バルトンが中心となって作成され、明治31年8月に、全国5番目の近代水道として完成しました。』


現在は遺構として整備され残されています(管理上の問題からか、現在水は溜められていません)。


(裕編集の)広島城跡桜の池跡

10月12日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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中区:(広島城跡)刻印がある石垣

2016年10月11日 07時53分14秒 | 雑関連
中区基町の広島城跡の石垣の積み石に刻まれた刻印です。

西側と北側の石垣には(見つけやすい処に)刻印があります。
(公財)広島市文化財団の資料によると
『福島正則(在任:1600-1619)が広島藩主の時代に築かれた石垣と考えられ、石垣には「刻印」という様々なマークが刻まれています。』とあります。

福島正則の時代に築かれた石垣というところで、
大竹市に残る亀居城跡を2011年訪ねた時に大竹市教育委員会設置の「亀居城の石垣の刻印」という説明板のことを思い出したのです。
その中に広島城と21種類の同型の刻印があるとありましたので。

(裕編集の)広島城跡刻印がある石垣

10月11日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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中区:(広島城跡)崩れかけた石垣

2016年10月10日 09時06分38秒 | 雑関連
中区基町の広島城跡の北東の石垣にいまも残る崩れかけた石垣です。

1945年8月6日米軍投下の原爆で天守閣(爆心地から≒980m)は倒壊しましたが、この石垣部分は爆心地方向からは逆方向にあたりますので石垣の倒壊は免れていますので、原爆によるものではありません。

(公財)広島市文化財団の資料によるとこの「崩れかけた石垣」は、
『広島藩主・福島正則(在任:1600-1619)が広島城の無断修復を幕府にとがめられ取り壊した石垣の跡と考えられています。
しかし幕府が指示したのは別の場所だったので、従わなかったとして改易となり広島を去ることになりました。・・・』との解説があります。


(裕編集の)広島城跡崩れかけた石垣

10月10日(安芸区のわが家付近)天候:はれ

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番外:原子力発電は安いと刷り込まれ・・

2016年10月09日 08時48分14秒 | 雑関連
『福島第一原発事故に伴う賠償と除染の費用が計画より計8兆円上回る。』国費の投入要望へ・・・とラジオのニュースで聞いたのですが、もともとの(計画していた費用)はいくらなのかと思ったのです。

中國新聞の10月7日内政・総合面に記事がありました。
 「賠償・除染 国費を(電気事業連合会が国へ)要望」
費用に関する内訳がありわかりました。

        見込み額   電気事業連合会の試算  
賠償費用  5兆4千億円  +2兆6千億円=8兆円
除染費用  2兆5千億円  +4兆5千億円=7兆円
  (total)(7兆9千億円)       (15兆円)

※(記事によると)増える理由として
 賠償対象者が想定より増える。
 除染対象地域が拡大している。
 さらに、東京電力の株価が低迷していて、売却益が1兆円下振れする見込み。
 以上のようなことで、8兆1千億円上回る可能性がある。と云うことのようです。

※この他に、廃炉費用も増えることが確実と云うことで
        計画    予想
 廃炉費用  約2兆円  +数兆円 
 数兆円とは?と思ったのですが、2、3兆円を数兆円と云うのか、5、6兆円を云うのかは(わたしには)わかりませんが。


*平成28年度一般会計予算は約96.7兆円
 一般会計予算における歳入のうち、税収でまかなわれているのは約6割弱で、4割弱は将来世代の負担となる借金に依存しているのが、いまの日本国ですよね。

10月9日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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番外:まな板のわが家のパイナップル

2016年10月08日 08時21分59秒 | Pineapple栽培
9月19日に収穫したわが家のパイナップル。
冷蔵庫の中にほったらかにしすぎましたが、月末に食べました。


クラウンを切り落とし立てたこところです。


外側の皮の部分を削ぎ落とした処です


縦に二つ割にしたところです。少しばかり熟れすぎた部分がありました。

しかし、白い芯の部分をとって食べました。
量としてはほんのわずかしかありませんでした。
それでもパイナップルそのものの味ではありました。

過去の栽培記録は、右欄のカテゴリー:パイナップル栽培を見ていただければと。

10月8日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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中区:(広島城跡)旧天守閣の礎石

2016年10月07日 07時35分17秒 | 雑関連
中区基町の広島城跡の中・(再建されている)広島城天守閣東側に再建時に発掘された築城当時の礎石が移設復元されています。


礎石を移せたのは、
1945年8月6日原子爆弾によって失われた天守閣(爆心地から≒980m)を1957~1958年に再建する際には、
木造天守にくらべてはるかに重い鉄筋コンクリート天守の重量が石垣にかからないよう、また、天守閣の重みで下の土が外に押し出されないよう、天守台内部をコンクリートで固め、その部分で全重量を支えるようになっていることからで、
旧天守閣の礎石が残され、いま(天守閣東側一角)の位置に再現されています。

(裕編集の)旧天守閣の礎石
(裕編集の)広島ぶらり散歩「広島城附近」編

10月7日(安芸区のわが家付近)天候:はれ(午後から)くもり

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中区:(平和記念資料館に展示)人影の石

2016年10月06日 08時00分26秒 | 被爆建造物等
現在、中区中島町の広島平和記念資料館・本館に展示されている「人影の石」です。
屋内展示ですが経年劣化が進んでいるようで説明板にある松重美人さん撮影の写真のように黒い影は、はっきりとわからなくなっています。

人影の石 
『この石は、1945年8月6日8時15分爆心地から≒260mの住友銀行広島支店の入口の(被爆した)階段の一部です。
強烈な熱線のため、石段の表面は白っぽく変化し、人が腰掛けていたと思われる中央の部分だけが影のように黒くなって残りました。
石段に座って、開店を待っていた人は、原爆の熱線を正面から受け、逃げることもできないまま、その場で亡くなったと考えられます。』

今年になりましたが、現在三井住友銀行広島支店に建立されている「住友銀行原爆物故者慰霊碑」を巡り頭を垂れているとき、
通称・原爆資料館に展示のこの被爆し亡くなった方の影が階段石に残った「人影の石」のことを思い出し、「住友銀行原爆物故者慰霊碑」を編集するときこの「人影の石」のことも記述しました。
しかし、それまで撮影し頁を編集していませんでしたので、改めて入館しフラッシュを焚かずに撮影し、頁を編集しました。

以前みた印象からこれほど薄くなっていたのかと思いましたが、(わたしの)記憶は写真の印象が強烈だったからかもしれないと思ったりしましたが。

(裕編集の)平和記念資料館展示:人影の石

10月6日(安芸区のわが家付近)天候:はれ(久しぶりのように思います)

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安佐北区:日浦村戦役紀念碑

2016年10月05日 07時41分20秒 | 軍都広島関連等
安佐北区安佐町後山(うしろやま)に建立されている「日浦村戦役紀念碑」です。

碑には日清日露戦役から日独戦役(第一次世界大戦)までの従軍者が刻まれています。
碑周りの玉垣のひとつに、「用地寄附者平田静雄」と刻まれていました。


日独戦役以降の戦役についてはこの碑の北側に「大正三年以降戦役事変従軍者」石碑が昭和46年に建立されています。
(裕編集の)日浦村戦役紀念碑

10月5日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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安佐北区:日浦地区戦没者慰霊碑

2016年10月04日 07時41分13秒 | 原爆慰霊碑等
安佐北区安佐町後山(うしろやま)に建立されている「日浦地区戦没者慰霊碑」です。
*広島市の資料によると
『旧日浦村の日中戦争から太平洋戦争までの戦没者と原爆犠牲者〔104人。うち確認されている原爆犠牲者は(動員)学徒の15人〕を慰霊するため、建立されました。・・・・』とあります。


大正8年建立された日浦村戦役記念碑の根際に戦後建立された「日浦地区戦没者慰霊碑」には原爆で亡くなった動員学徒の方々のお名前も刻まれています。

(裕編集の)日浦地区戦没者慰霊碑

※この「日浦地区戦没者慰霊碑」は、
広島市が被爆70周年記念事業のひとつとして公開した「原爆関係の慰霊碑等の概要」206基の内
わたしが過去に巡っていなかった原爆関連の慰霊碑の最後の慰霊碑でした。

広島市の公開資料の中で過去に巡っていなかった慰霊碑のうち
被爆70年の昨年に
佐伯区の4基を、交流ウォークの先輩・増田先生に案内していただき巡ることができました。
安佐北区の4基を、女房(運転の車で)と巡りました。
そして、今(2016)年になりましたが、
安佐北区の8基を、息子と巡り頭を垂れ、広島市が紹介する「原爆関係の慰霊碑等の概要」206基は巡ることができました。

ただ、広島市の資料には、(掲載を断られた)原爆関連の慰霊碑もありますし、
広島市の資料で原爆関連の慰霊碑として加えていますが、慰霊碑の範疇ではなく平和祈念の碑も含まれていますので、
広島市の資料が原爆関連の慰霊碑を網羅しているものではありません。

また、わたしが編集している「原爆関連慰霊碑・平和祈念関連碑等」(広島市以外の県内も含めていますが)384基もすべてではありませんので、
これからは期間はかかるでしょうが、少しでも巡り、紹介できたらとは思っています。
これで、2000年頃から巡りだした「原爆関連慰霊碑・平和祈念関連碑等」編集の一応の区切りにはなりました。
(裕編集の)「原爆関連慰霊碑・平和祈念碑等」編

10月4日(安芸区のわが家付近)天候:くもり

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安佐北区:壬辰橋

2016年10月03日 09時27分50秒 | 橋梁
安佐北区安佐町飯室と安佐町毛木を結ぶ太田川に架かる「壬辰(じんしん)橋」です。

※壬辰という橋名を知った時、(わたしは)干支でいう壬辰(みずのえたつ)を思ったのです。
そうです、壬辰の年に架橋されたことでこの名を橋名として採用されたのかと思ったのです。
この橋に関わるであろう明治期からこんにちに至る壬辰の年を調べてみると、
明治25年、昭和27年、平成24年でした。
飯室村には1912年37艘の川船があったと地名辞典にありましたので、明治期に橋が架かっていたとは考えにくく、(後に橋が架かったここには)渡し船があったのではと考えました。
また、2012年に架橋したとは考えにくいほど橋の手すり部分には錆が出ていました。
この様なことで、戦後1952年に架橋されたことでこの名が付けられたのではないかと(わたしは)推理しましたが、その時の橋が現在の橋とは考えにくく、後になって架け替えられたのが現在(2代目?の)壬辰橋ではないかと思ったのですが。


(裕編集の)壬辰橋

10月3日(安芸区のわが家付近)天候:くもり(あめ模様)

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番外:89-52-2 .631

2016年10月02日 11時15分01秒 | 雑関連
セ・リーグ優勝おめでとうございます。
よくやってくれました。ありがとうございました。

143試合89勝52敗2引分 勝率6割3分1厘
対讀賣: 13 - 12(0)
対DeNA: 13 - 12(0)
対阪神: 18 - 7(0)
対ヤクルト:17 - 8(0)
対中日: 17 - 7(1)
交流戦: 11 - 6(1)

これからCS、日本シリーズが待っていますので。

(裕編集)広島東洋カープ・年度別成績

10月2日(安芸区のわが家付近)天候:くもり(晴れてくる?)

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