朝日新聞愛読者企画・備後国分寺住職と巡る日本の古寺巡りシリーズ第3回晩秋の防州をゆく周防国分寺・東大寺別院阿弥陀寺という企画で、今月14日と26日に両寺を参拝する。
これまで室生寺、三千院など東に向けてバスを走らせたが、今回は西に向かって歩を進めていく。周防国分寺は、創建時の金堂の位置に現在の本堂が建つ誠に貴重な国分寺であり、多くの古い仏像を蔵している。阿弥陀寺は、鎌倉期の東大寺再建に奔走した重源上人ゆかりの大寺だ。
早速、国分寺の歴史から紐解くが、國分寺はわがことでもあるので、少々細かく歴史を解明していこう。まず、国分寺の建立は、天平13年に国分寺建立の詔が発せられて建立されたわけではあるが、その30年ばかり前のこと、仏教の興隆によって国家の安寧を願う護国思想に基づき、天武天皇14年に、諸国の家毎に仏舎を作り仏像、経を置き礼拝供養すべきことが詔せられている。
これにより、諸国への仏教の流通が計られ、ついで持統天皇8年、国分寺の詔に遡ること20年の頃に諸国に金光明経を送り置き、毎年正月に読むべきことが命ぜられた。これにより、諸国において護国の法会が営まれることとなる。
そして、国分寺の建立は、天平9年3月の詔で国毎に釈迦仏像の造立が命ぜられたときに実質的には開始され、天平13年2月に僧寺、尼寺からなる体系的な国分寺建立の詔の発布にいたる。
続日本紀巻14にある「国分僧寺・尼寺建立の詔」の和訳を大学教授鈴木渉氏によるHP「国分寺・全国の国分寺を巡る」より転載させていただく。http://members.at.infoseek.co.jp/bamosa/
『詔曰く、私は徳は薄い身であるが、忝なくもこの重任(天皇に即位)を承けた。しかし、未だその成果を得ていないので、寝ても醒めても恥ずかしい思いをしている。いにしえの為政者は皆、国を泰平に導いて災難を除き楽しく暮らしていたのだが、どうすれば良いのだろうか。
近年、稔りも少なく疫病も流行している。そのため先年諸国の神々を祀り、また国々に一丈六尺の釈迦三尊像の造立と、さらには大般若経の写経を命じたのだ。そのためか、この春から秋の収穫まで風雨は順調で五穀が豊かに実った。このように誠を願えば霊を賜わることができるものである。
【金光明最勝王経】には『もしもこの経を読誦すれば、我が四天王が常に擁護くださって、一切の災難を消し去り、病気も取り除き、常に歓喜に満ちあふれた生活を送ることができる』と書いてある。
そこで諸国に七重塔を建てて、金光明最勝王経と妙法蓮華経を十部ずつ写すようにするものとしたい。私は別に、金字の金光明最勝王経を書き写して、各国の塔ごとに納めることにしよう。こうして仏教を盛んにさせて、天地のごとく永く伝えられるようにし、擁護の恩寵が死者、生者ともにあることを願うようにするものである。
これらの塔を造る寺は国の華でもあり、建立にあたっては必ず好い場所を選ぶようにすること。あまり人家の近くで生活臭のするような所ではいけない。また、あまり遠くで人の労をかけるような所でもよくない。国司どもはよろしく私の意志を国内に知らしめるとともに、これらを執り行って寺を清潔にきれいに飾るようにすること。
また国分僧寺には封戸五十戸と水田十町を、尼寺には水田十町を施すこと。僧寺には僧侶20人を入れ、寺の名を金光明四天王護国之寺とすること。尼寺には尼を10人を入れ、寺の名を法華滅罪之寺とすること。両寺は適当な距離をおき戒に順うこと。僧・尼にもしも欠員が出たらすぐに補うように。
毎月8日には金光明最勝王経を読経すること。また、月の半ばに至るごとに羯磨(こんま)を暗誦し、毎月六斎日には行事を執り行い、公私ともに漁・猟などの殺生をしないように。国司らはこれらをよろしく監督するものとする。』
こうした国分寺の制に影響を与えた中国の制度としては、則天武后が690年に天下に大雲寺経を頒ち諸州に設置した大雲寺、中宗が705年に諸州に一観一寺の設置を令した竜興寺観、玄宗が738年に州毎に設置を命じた開元寺等があるという。
天平13年2月のこの詔によって、諸国国分寺の造営が開始されるが、天平19年11月には国司の怠慢を戒め、七道に使いを遣わして進捗状況を観察させ、向こう3年のうちに造営を終えるよう督励するなど、造営の進捗は必ずしも順調ではなかったようだ。が、その後宝亀年間ころ、つまりその後30年ほどの間には国分寺の多くが完成していたと見られている。
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日記@BlogRanking
これまで室生寺、三千院など東に向けてバスを走らせたが、今回は西に向かって歩を進めていく。周防国分寺は、創建時の金堂の位置に現在の本堂が建つ誠に貴重な国分寺であり、多くの古い仏像を蔵している。阿弥陀寺は、鎌倉期の東大寺再建に奔走した重源上人ゆかりの大寺だ。
早速、国分寺の歴史から紐解くが、國分寺はわがことでもあるので、少々細かく歴史を解明していこう。まず、国分寺の建立は、天平13年に国分寺建立の詔が発せられて建立されたわけではあるが、その30年ばかり前のこと、仏教の興隆によって国家の安寧を願う護国思想に基づき、天武天皇14年に、諸国の家毎に仏舎を作り仏像、経を置き礼拝供養すべきことが詔せられている。
これにより、諸国への仏教の流通が計られ、ついで持統天皇8年、国分寺の詔に遡ること20年の頃に諸国に金光明経を送り置き、毎年正月に読むべきことが命ぜられた。これにより、諸国において護国の法会が営まれることとなる。
そして、国分寺の建立は、天平9年3月の詔で国毎に釈迦仏像の造立が命ぜられたときに実質的には開始され、天平13年2月に僧寺、尼寺からなる体系的な国分寺建立の詔の発布にいたる。
続日本紀巻14にある「国分僧寺・尼寺建立の詔」の和訳を大学教授鈴木渉氏によるHP「国分寺・全国の国分寺を巡る」より転載させていただく。http://members.at.infoseek.co.jp/bamosa/
『詔曰く、私は徳は薄い身であるが、忝なくもこの重任(天皇に即位)を承けた。しかし、未だその成果を得ていないので、寝ても醒めても恥ずかしい思いをしている。いにしえの為政者は皆、国を泰平に導いて災難を除き楽しく暮らしていたのだが、どうすれば良いのだろうか。
近年、稔りも少なく疫病も流行している。そのため先年諸国の神々を祀り、また国々に一丈六尺の釈迦三尊像の造立と、さらには大般若経の写経を命じたのだ。そのためか、この春から秋の収穫まで風雨は順調で五穀が豊かに実った。このように誠を願えば霊を賜わることができるものである。
【金光明最勝王経】には『もしもこの経を読誦すれば、我が四天王が常に擁護くださって、一切の災難を消し去り、病気も取り除き、常に歓喜に満ちあふれた生活を送ることができる』と書いてある。
そこで諸国に七重塔を建てて、金光明最勝王経と妙法蓮華経を十部ずつ写すようにするものとしたい。私は別に、金字の金光明最勝王経を書き写して、各国の塔ごとに納めることにしよう。こうして仏教を盛んにさせて、天地のごとく永く伝えられるようにし、擁護の恩寵が死者、生者ともにあることを願うようにするものである。
これらの塔を造る寺は国の華でもあり、建立にあたっては必ず好い場所を選ぶようにすること。あまり人家の近くで生活臭のするような所ではいけない。また、あまり遠くで人の労をかけるような所でもよくない。国司どもはよろしく私の意志を国内に知らしめるとともに、これらを執り行って寺を清潔にきれいに飾るようにすること。
また国分僧寺には封戸五十戸と水田十町を、尼寺には水田十町を施すこと。僧寺には僧侶20人を入れ、寺の名を金光明四天王護国之寺とすること。尼寺には尼を10人を入れ、寺の名を法華滅罪之寺とすること。両寺は適当な距離をおき戒に順うこと。僧・尼にもしも欠員が出たらすぐに補うように。
毎月8日には金光明最勝王経を読経すること。また、月の半ばに至るごとに羯磨(こんま)を暗誦し、毎月六斎日には行事を執り行い、公私ともに漁・猟などの殺生をしないように。国司らはこれらをよろしく監督するものとする。』
こうした国分寺の制に影響を与えた中国の制度としては、則天武后が690年に天下に大雲寺経を頒ち諸州に設置した大雲寺、中宗が705年に諸州に一観一寺の設置を令した竜興寺観、玄宗が738年に州毎に設置を命じた開元寺等があるという。
天平13年2月のこの詔によって、諸国国分寺の造営が開始されるが、天平19年11月には国司の怠慢を戒め、七道に使いを遣わして進捗状況を観察させ、向こう3年のうちに造営を終えるよう督励するなど、造営の進捗は必ずしも順調ではなかったようだ。が、その後宝亀年間ころ、つまりその後30年ほどの間には国分寺の多くが完成していたと見られている。
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