住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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<周防国分寺と阿弥陀寺参拝>2 國分寺の研究②

2007年11月07日 11時21分15秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
国分寺は、聖武天皇の勅願によって諸国に68ケ寺建立された官立の寺院。『国泰らかに人楽しみ、災除き福至る』と聖武天皇が詔勅に述べられたように、国民の幸せを祈念され、当時流行っていた疫病や戦乱から国民を守り、五穀豊穣の世となるようにと諸国に建立された。

創建当初、国分寺は、寺域2町四方、その中に、南大門・中門・回廊・金堂・講堂・七重塔・食堂・経蔵・鐘楼・僧坊などの七堂伽藍があった。また、当初本尊は丈六の釈迦如来で、国分寺の正式名称は金光明四天王護国の寺と言った。

その後、平安中後期には、律令体制が衰退すると言われてはいるが、少なくとも3分の2強の国分寺は10世紀以降12世紀に至るまで存続していたことが確認されている。そして、国分寺の修理料や法会の布施供養料は原則として正税でまかなわれていたようで、国分寺僧・講師の任命手続きも律令制の枠内で行なわれていた。しかし、一方では東寺、法勝寺、成勝寺、観世音寺などの中央、地方の有力寺院の末寺あるいはそれらの強い影響下におかれたという。

鎌倉初期には、表面的には変化ないものの、講師の名誉職化と役割の交代、境内などが狭くなり規模が縮小して、次第に諸寺化していった。さらに武士特に地頭・守護による国分寺領などの掌握が促進されたが、そのことは、当時、国分寺の宗教活動が地域住民と密接な関係を有していたことを示している。

蒙古襲来期から建武の親政並びに南北朝の内乱期には国分寺の役割が見直され奈良・西大寺流律宗による国分寺再興が進む。西大寺自体は叡尊により暦仁元年(1238)から本格的に再興がはじめられる。

西大寺は聖武天皇の子称徳天皇(孝謙天皇重祚)が創建した大寺院であるが、当時は四王堂、食堂、東塔などを残すのみとなっており、一応はまがりなりにも奈良時代以来の鎮護国家寺院として機能し、南都七大寺の一つとして認識されていた。

叡尊は再興にあたって鎮護国家寺院としての性格を損なうことなくその機能を継承したといわれ、蒙古襲来期に叡尊は異国降伏の祈祷を盛んに行い効果をあげ、その名声を不動のものとする。こうした機能を発揮した西大寺に対し為政者が、当時再認識されてきた国分寺を掌握させるのが適当と考えたのであろう。

亀山院(1287~1298)が叡尊在世時代に19カ国の国分寺を西大寺に寄附。続いて、後宇多院(1301~1308)が信空(第2代長老)からの受戒に感激し、60余州の国分寺を西大寺の子院としたとされる。

また1391年9月28日付「西大寺諸国末寺帳」によると、周防、長門、丹後、因幡、讃岐、伊予、伯耆、但馬の8ヶ国が見える。さらに、尾張、加賀、越中、武蔵、陸奥の国分寺も末寺となっている。

西大寺は叡尊、忍性時代から国分寺と関係を持ち始め、13世紀末から14世紀のごく始めには形の上だけにはせよ国分寺を管掌するようになったと見てよいようだ。次第に、国分寺と西大寺の結びつきが希薄になりつつも中世後期まで西大寺との本末関係を維持していた国分寺の代表は、周防、長門であった。その関係は、本寺の重要法会への参加、本寺による住持職の補任といった近世の本末制さながらの関係が伺われる。

西大寺が国分寺にかかわりをもった早い例は1310年西大寺上人御坊(信空)宛の長門国分寺復興の院宣である。続いて周防国分寺再興、伊予国分寺復興、丹後国分寺再興などである。守護領国制の形成とも相俟って国分寺の地位の回復が図られるに至る。

平安末期から鎌倉初期にかけて国分寺に対する行基信仰や勧進聖のかかわりがあったからこそ西大寺系の僧侶が国分寺再興にかかわりやすかったことは疑いない。その点で西大寺流と国分寺との関係は国分寺史の中でも一つの画期であり、中世のあり方をよく示している。

ところで、何故かこの蒙古襲来期に東大寺が「総国分寺」であることが強調されるという(東大寺文書に5回見られる(1272~1292))。東大寺が総国分寺として各国国分寺とどのような関係を有していたかは明らかになっていない。

しかも東大寺が特定の国分寺と本末関係を結んだり、国分寺再興に東大寺の僧が関わった形跡もない。当時の国分寺の宗旨が真言宗であったことからそれは難しかったであろうし、逆に西大寺は真言系の律宗であったら、入り込みやすかったのであろう。

ともかくも、この時期に第3者ではなく東大寺側が自ら総国分寺であると主張している点が興味深い。そのことは東大寺が異国降伏の祈祷を行う第一の寺院であるという自覚の表れとみることもできようが、しかし、当時異国降伏祈祷に最も活躍したのは西大寺であった。

祈祷寺院としての西大寺は蒙古襲来を契機に再認識され西国国分寺進出の足がかりをつかむわけであるが、そうした西大寺の勢威に対する対抗意識から総国分寺であるというかつての位置を主張し、国家鎮護の祈祷に相応しいことを標榜したのであろう。

そして、中世後期、つまり戦国期には、ここ備後国分寺でも、いくさに出る軍勢を整える陣屋として使われたことが資料に残されている。そうした戦争への関わりから焼失衰退する国分寺が多く、時期的には天正年間に集中している。しかし、それまでの大名による保護政策があったためか焼失したまま放置されることはまれで、17世紀後半までにほぼ再興修理がなされ、全国国分寺の3分の2以上が存続機能している。

当時、国分寺で行われた祈祷は、大名などの個別の要請にこたえたものであったが、奈良時代以来の伝統をひく鎮護国家の祈祷を年中行事として行っていた。国分寺の教学や信仰面などを見ても、いわゆる鎌倉新仏教の影響は顕著でなく、天台、真言といった密教にかかわるものがほとんどであるという。

創立期の伽藍を維持していた国分寺は皆無に近かったであろうし、焼失のたびに規模を小さくしていったことは想像に難くない。しかし、現世利益の願いを満たす地方における中規模の一山寺院として、中世以降にも一定の役割を果たしつつ近世にも存続していくのである。

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