住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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<周防國分寺と阿弥陀寺参拝>3 周防國分寺

2007年11月08日 10時37分39秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
国分寺の歴史についてはこのくらいにして、周防(すおう)国分寺について学んでいこう。ここまで見てきたとおり、どこの国分寺も栄枯盛衰を繰り返し、その過程で少しずつ境内が移動している。しかし、周防国分寺の伽藍は、いまでも奈良時代の創建時の位置に立っており、全国的にきわめて珍しい。

平成9年から16年にかけて行われた金堂の解体修理の過程での発掘調査で、金堂は奈良時代創建当初の金堂の上に再建され、創建当初から、その位置が動いてないことが判明した。現在の寺域は、東西に約1町、南北に2町の寺域を保持し、その中に、仁王門・金堂・聖天堂・二の門・持仏堂・庫裏・長屋・土蔵を現在に伝えている。

本尊は、室町時代の薬師如来坐像(重要文化財)で、その他に平安時代初期の日光・月光菩薩(重要文化財)、藤原時代初期の四天王(重要文化財)など、数多くの仏像を安置している。現在宗派は、高野山真言宗で、別格本山。

仁王門(県指定)は、重層入母屋造り、桁行3間(9.94m)、梁間2間(6.0m)、棟高(12.12m)本瓦葺き、建坪36坪。天平創建時の旧境内地に立っている。二手先(ふたてさき)で支える上層の縁・勾欄・尾垂木付二手先の組物二軒扇垂木の軒など、全体のバランスがよくとれた美しい門である。現在の仁王門は、文禄5年(1596年)に毛利輝元が再建。室町時代16世紀中後期の作の仁王像(3.5m)を安置。檜材寄木造り。

金堂(重要文化財)は、二層入母屋造り、桁行(けたゆき)7間(22.0m)、梁間(はりま)4間(15.8m)、棟高(18.0m)、本瓦葺き、建坪116坪。正面、背面ともに一間の唐破風造りの向拝を取り付けている。柱の上にある斗拱(ときょう)は上下で違い、上層は青海波支輪・尾垂木を伴った二手先、下層は蛇服支輪付の出組(でぐみ)で、軒も上層は扇垂木、下層は指垂木としてそれぞれ変化をつけている。

現在の金堂は、室町時代の大火の後に大内氏が再建し、江戸・安永8年(1779年)毛利重就(しげたか)によって奈良時代の大きさに再興された。平成9年から16年にわたり総事業費19億円をかけて重要文化財国分寺金堂保存修理事業として、財団法人文化財建造物保存技術協会の設計監理のもとで平成の大修理が行われた。大変な大事業をなされたご苦労が偲ばれる。

周防国分寺金堂の須弥壇上には、本尊藥師如来坐像[坐高218センチ・檜材・寄木造り](重要文化財)を中心に日光・月光菩薩立像、四天王像、十二神将などが安置されている。本尊藥師如来坐像は、室町時代制作の仏像としては極めて珍しい大型像で貴重な作例である。

国分寺の本尊は、創建当初は釈迦如来であったが、奈良時代の終わり頃から平安初期に藥師如来に替わっているが、周防国分寺も創建当初は釈迦如来であったが、国分寺の国家鎮護と、人々の慶福を祈願するという趣旨から、早い時期に藥師如来になったという。

室町時代、1417年の火災で焼失し、現在の本尊は室町時代1421年金堂再建時に大内盛見によって造られたもの。また、この1417年の火災のときに時の住職仙秀宝憲が藥師如来の左手を持ち出し、現在の本尊の胎内に収めたと寺伝で言い伝えられてきたというが、金堂の解体修理の為の仏像移動で、胎内から出てきた。

ところで、その百年ほど前、周防国司に西大寺流の律宗に属する鎌倉極楽寺善願が任国し、そのころから周防国分寺は奈良西大寺との関係が結ばれ、住持職の任命権を持ち、西大寺法会への出仕が義務づけられていたようである。

そして、正中2年(1325)には西大寺の僧が周防国分寺を再興しており、そのあと、興福寺南円堂から出現した仏舎利を西大寺の僧の手を経て周防国分寺五重塔に納められたというが、その金堂再興に際して造像された本尊薬師如来の左手が現本尊の胎内にあったものであろう。

さらにはこの後17世紀初頭には、奎玉房という周防国分寺住持から西大寺長老になる住持も現れる。周防国分寺は当時律戒清浄の道場、かつ密教の各種祈祷の他灌頂の儀礼を行う格式高い密道場としても西大寺流を踏襲していたが故に、持戒堅固な高僧が法灯を守り今日があるのだと思われる。

またこの度の金堂修理に関連して、本尊様の薬壷の蓋を開けたところ、中に、五穀(米・大麦・小麦・大豆・黒大豆)・丁子・菖蒲根・朝鮮人参など15種類の薬と、財宝として色ガラス、水晶のほか五輪塔が収めてあったという。

本尊藥師如来の両脇侍として日光・月光菩薩立像(重要文化財)が安置されている。本来は左右対称に作られるのが普通であるが、この両像は、左右同形で珍しい。日光菩薩が180センチ、月光菩薩が179センチ、檜の一木造りである。温和な相貌、腰が高く伸び伸びした体躯から平安初期の作と見られる。

四天王像(重要文化財)いずれも2メートルを超す巨大像。四天王は、須弥山(古代インドの神話や仏典に出てくる世界の中心にあるという山)の四方にいて、仏法を守っている四人の天王。東に持国天、南に増長天、西に広目天、北に多聞天が位置し、それぞれ剣・三鈷・杵・宝塔を手にして甲冑で身を固め、足元に邪鬼を踏みつけている。

国分寺は、正式には、『金光明四天王護国之寺』と称されるが、これは「金光明経」に『もし国王がこの経を崇拝すれば、われら四天王はこの国を常に守護せん』と書かれていることによる。檜の一木造。漆彩色像。持国天・増長天は本体と邪鬼が一木造である。平安時代後期、藤原時代初期の作。

持仏堂は、宝永4年(1707年)毛利吉広によって修築された客殿。堂内には、阿弥陀如来坐像(重要文化財)等の諸仏や位牌堂がある。半丈六阿弥陀如来像(坐高114センチ・国重要文化財)は、檜の寄木造りで漆箔、彫眼、上品下生印を結んだ姿である。藤原時代の作で、伏し目がちな慈眼、柔和な表情は、人々を救うにふさわしく、肩のはりのなだらかさ、衣文線の流麗さは、平明、優美、調和という定朝様の特色を表している。

このほか、快慶作・阿弥陀如来(県指定有形文化財)鎌倉時代・坐高96センチ。檜の寄木造り、玉眼入り。高麗からの渡来仏・金銅毘盧舎那如来(県指定有形文化財)。坐高51.6センチ、智拳印。 9世紀統一新羅時代の作・金銅誕生仏(県指定有形文化財)。坐高25.3センチ、左手を高く上げて右手は下げた逆手の形態は貴重なもの。

さらに堂内には、阿弥陀如来立像・十一面観音・十二神将・十二天・不動明王・愛染明王など、五十体以上の諸仏が安置されている。このほかも含め約百体の仏像、二百枚の絵画、周防国分寺文書など千五百の文書、8500点の典籍経文が現存している。まさに山口県下一、ないし全国の国分寺一の文化財の宝庫と言えるであろう。すばらしいの一語に尽きる。

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