住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

第五回兵庫浄土寺と丹波篠山・石龕寺1

2008年11月02日 19時28分03秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
早いもので古寺めぐりの時期を迎えた。今年は3月に山城の岩船寺と浄瑠璃寺を参り、6月には、国東冨貴寺・熊野磨崖仏、筑紫観世音寺に参詣している。さてどこに秋は参ろうか、思案のあげく、いつも素通りしている三木サービスエリアからほど近い、兵庫県小野市の浄土寺と石龕寺に参ることになった。

まず、浄土寺について述べよう。昨年のこの時期、周防國分寺と東大寺別院阿弥陀寺に参っているが、その阿弥陀寺が平安時代末期の東大寺再建に奔走された重源上人のいわゆる周防別所として東大寺再建用の材木を調達した砦であったのに対して、浄土寺は、やはり播磨別所として、荘園経営に当たりその収入によって、東大寺が再建されていった誠に重要な別所の一つであった。

重源が設けた別所は七カ所あり、その中で、当時の浄土堂と阿弥陀三尊が残る唯一の別所がこの浄土寺である。その意味で、当時の重源上人、ひいては当時の人々の信仰にかかるエネルギー、スケールを知る上で誠に貴重なお寺であると言えよう。

俊乗房重源上人は、保安2年(1121)に紀秀重の子として京都に生まれ、12歳で醍醐寺円明院で密教を学び、17歳からは寺を出て山伏となって四国大峰白山など諸国を放浪。その間法然上人から浄土教を学び、いわゆる念仏聖として高野山に念仏修行。その後、宋に行っている。

そこで、臨済宗を開く栄西と天台山に詣で、帰朝。三度入宋していると言いそれを重源のハッタリとする説もあるが、当時日宋貿易が盛んで、後には西大寺の西国國分寺復興も宋貿易によって支えられていたことを考えるとそうした系譜の中であり得た話ではないか。

その後、治承4年(1180)平重衡の兵火で焼けた東大寺の勧進職に法然の推挙で任命された。資金、資材調達、技術者の確保、寺内の調整など、平清盛の死後院政が復活していたため朝廷や鎌倉幕府への働きかけなどすべてを一手に引き受けた。時に重源61歳。しかし仕事師であり、請負師の気質のあった重源は、その2ヶ月後には大仏の螺髪を鋳造。宋人鋳造師陳和卿等を招いて四年後には大仏を再建した。その年は壇ノ浦の合戦の年でもあった。

その後大仏殿など堂塔の再建のため、4回も伊勢神宮に、60人もの僧を率いて参詣し大般若経の転読祈願をして、全国の貴賤から広く勧進。見事、この大プロジェクトを完遂した。この間のエピソードとして、大仏殿の建設のために大仏の後ろに聖武天皇が造った築山を重源は何の相談なしに崩してしまった。それに怒った後白河法皇は重源を捜索させるが、重源は高野聖に戻って各地を放浪。

困った重源は、室生寺にある仏舎利を法皇の丹後の局が熱望していることを知り、宋人を伴い室生寺を訪れ、大仏殿の資金繰りのためと偽って持ち去り、法皇に差し出した。しかしそのことが外聞に触れ、結局後に法皇は室生寺に仏舎利を返還。ただ、このとき二粒だけ数が減ったとされ、丹後の局が手放さなかったのではと言われている。

一昨年室生寺にこの日本の古寺巡りシリーズ第一回として参詣した。その折に、正にこの仏舎利が舎利塔に収められて灌頂堂に特別期間限定で祀られていた。その時の説明書きには、宋人が持ち出し、その後大師像下から発見されたと寺伝には記されているとあった。本当は、史実はここに記したようなことであったのだろう。まったく予期せぬ符号によって、こうして古寺巡りシリーズの中でことの真相が明らかになってくるのも誠に興味深い。

因みに、一昨年のこのブログの記事『室生寺散策1』の該当部分を転載しておこう。『この19日まで、弘法大師空海が室生寺に奉納したとされる仏舎利が宝筐印塔に入れられて祀られている。これは建久2年(1192)東大寺再建時に勧進職・重源の弟子宋の人空体がこの舎利を数十粒持ち出し、また文永9年(1272)には東大寺灌頂院の空智が室生寺弘法大師石塔下より舎利を発掘したとと言われ、永正6年(1511)に今の宝筐印塔に祀ったという。』

建久6年(1195)に大仏殿は完成。落慶法要には法然を導師に、後鳥羽天皇、将軍頼朝も列席した。貴紳文武僧俗2000人からの人が大仏殿を埋め尽くしたという。しかし、その時重源その人の席はなく、功労者としての嘉賞の品もなかったと言われる。

そのすべての総監督として差配する側だったからであろうか。それとも、その後も大仏の両脇侍や南大門、回廊の建設が残っていたからであろうか。それらすべての再建を終えたときには23年の歳月が流れ、重源は83歳になっていた。

そして、その国家的大プロジェクトの拠点として、重源は西日本七カ所に別所を設けた。それが、周防別所であり播磨別所、備中別所、東大寺別所、高野山新別所、摂津渡辺別所、伊賀別所だった。周防では国司の地位についている。数々の地元豪族からの邪魔もあったらしいが幕府の力でねじ伏せて税金を取り立てている。

周防、備中、伊賀からは用材を、播磨は大事な大部庄という荘園の収入の地であった。高野山は信仰上の拠点、摂津は荷揚げの港として、また東大寺別所は、丈六仏が10体も安置されていたと言うから、そうした造像の拠点であったのでないか。つづく

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