住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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第五回兵庫浄土寺と丹波篠山・石龕寺2

2008年11月04日 14時34分20秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
浄土寺の開創は、建久5年(1194)という。大仏殿の落慶法要が行われる前年に、重源が丈六の阿弥陀三尊を造立して浄土堂を建てた年を開創の年としている。しかしもちろん実際には、もっと前からここを拠点にして活動していたのだろう。大仏殿の目鼻が付いてやっと播磨別所にもお寺らしきものを造る段取りになったのがその年だったということだろう。だからそれまではもっと実務的な荘園経営の様々な取り締まりの手配所のような所だったのではないか。

重源が建永元年(1206)に亡くなると、甥にあたる弟子観阿弥陀仏が鎮守八幡や経蔵を建て伽藍を造営した。伽藍配置を見てみると、どこかで見たような配置になっている。そう、今年春に参詣した山城・浄瑠璃寺にそっくりである。浄瑠璃寺の創建は、永承2年(1047)ではあるが、今日見る伽藍に改装されたのは、治承2年(1178)である。浄土寺の開創は、その16年後である。当時の、つまり平安末期の浄土信仰が貴族の中で浸透し、阿弥陀信仰をもとにした寺院造りの典型だったのだろうと思われる。

浄瑠璃寺では、真東に薬師如来を本尊とする三重の塔があり、その前には大きな蓮池が広がり、真西に九体阿弥陀如来を本尊とする阿弥陀堂が位置する。前世から現世に送り出してくれる四十九日忌の仏・薬師如来によって私たちはこの世にいたり、そのご利益のもとに釈迦如来に教えを受けて修行の人生を送り、そして来世で迎えて下さっている阿弥陀如来に往生を頼む、そのような伽藍となっている。そして、この浄土寺もそれと同様な配置になっている。

浄土堂(阿弥陀堂)は、創建時のままで国宝。当時最新の宋様式を採り入れた天竺様(大仏様)の建物で、この様式の建物は日本では他に東大寺南大門だけといわれている。つまり、お堂としては唯一のものということになる。天竺様の特徴は天井を貼らない化粧屋根裏や軒では円柱から何本も突き出ている挿肘木などに見られるという。

浄土堂は昭和32年(1957)3月から2年半かけて解体修理が行われたが、建久年間からこの時まで一度も解体修理されたことがなかったといわれ、約770年もの間風雪に耐え持ちこたえてきたということになる。反りのない宝形の屋根が特徴。方三間で、柱間が約6メートル。

東は観音開きの扉、西は蔀戸で、西日が後方の池に反射して背後から差し込むような構造になっている。須弥壇を円形にし、周りの空間が広い。屋根まで伸びる四天柱が立つ豪快な造り。三千院の往生極楽院での常行三昧行のような、念仏を唱えながら巡る念仏行や来迎の様子を再現する迎講の舞台ともなる空間である。

本尊は丈六の阿弥陀如来立像。快慶作、像高530㎝、国宝。快慶の特徴は切れ長の眼にあり、目頭から目尻まで大きく開かれて、威厳と気品に充ちている。宋仏画をもとにした逆手の形で、左右の手の上げ下げが逆の中品・来迎印。来迎する様を表す雲座が足元を飾り、56枚もの材を寄せて造られている。光背は、二重円相挙身光で、光条は光を放つ様を表す。なお、その下には巨大像を支えるために、礎石の上に柱材を建て、貫でつなぎ須弥壇の下に根幹材を組み込んでいる。

脇侍の観音・勢至は、像高371㎝、快慶作、国宝。観音菩薩は水を持ち、勢至菩薩は梵篋(棕櫚に似たターラ樹の葉に針で経文を彫ったもの)を載せた蓮華を持つ。宋の阿弥陀三尊来迎図に倣った姿。

浄土堂のすぐ北側には鐘楼がある。寛永9年(1632)建立。袴腰付きの檜皮葺きの貴重な江戸初期の遺例。その東には八幡神社本殿。浄土堂と本堂との中央北に位置し、本来の本堂が位置する場所に造られており、重源上人が東大寺の鎮守でもある八幡神を重要視していたことが分かる。

その東には収蔵庫、不動堂があり、その南にはちょうど浄土堂と蓮池をはさみ、相対するように本堂・薬師堂が位置する。浄土堂とほぼ同形同大の堂で、創建当時の建物は正応5年(1292)に焼失。現建物は、室町時代の永正14年(1517)に再建された。重文。創建当時と同じ大仏様で造られ、本尊・薬師如来は、近在の広渡寺の薬師像を移したものと伝えられる。

この南側に開山堂。方三間の小さな建物で、国の重文・重源上人像を安置する。室町時代の再建。県の重要文化財。重源像は、奈良国立博物館に寄託中。この他に重文・阿弥陀如来立像、像高266.5、快慶作。迎講の際にかぶった菩薩面25面も快慶作、重文。ともに奈良博、東京国立博物館に寄託。

快慶は、鎌倉初期を代表する仏師で、運慶の実父康慶の弟子。快慶は熱心な仏教信者でもあり、重源に帰依した。自らを「安阿弥陀仏」と称した。法橋、法眼の叙位を得ている。「巧匠安阿弥陀仏」や「巧匠法眼快慶」などとの署名が確認されている作品は40点残っている。

浄土寺は、冒頭に述べたように山城・浄瑠璃寺と同配置の伽藍を形成している。しかし、浄瑠璃寺の九体阿弥陀堂の中尊・阿弥陀如来が座像で上品上生の来迎印であったのに対して、浄土寺の阿弥陀如来は中品の来迎印であり、右手はこれから中指と親指を付けようとされているかのような造りになっている。これは、まさにその時来迎したばかりの臨場感を表現したものであろうか。そして、その弥陀如来が西日に光り輝く様は正に迫力を増した阿弥陀如来の救済のエネルギーを表現しているとも言えよう。

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コメント (2)
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