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住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

第五回兵庫浄土寺と丹波篠山・石龕寺3

2008年11月07日 19時17分26秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
次に、石龕寺について述べてみよう。石龕寺は、用明天皇の3年(587)、聖徳太子の建立と伝わる。その時、太子は16歳。用明天皇はその年の4月に没している。当時はまだ仏教が伝来したばかりで、物部氏は仏教宣布に反対していた。疫病が流行したりすると、敏達天皇と用明天皇の大連(大和朝廷の天皇を補佐する執政)であった物部守屋は、その原因は仏教などという外来の宗教を崇拝するからであるとして仏塔、仏像を焼き払った。

初めて仏教に帰依した用明天皇が亡くなると、蘇我馬子が太子ら皇子の軍勢とともに今の東大阪にあった守屋の館に攻め入り、討伐。その際に太子は四天王像を刻み、戦勝祈願をしている。中でも毘沙門天像は、兜の真ん中にいただいて戦ったとされる。

しかし、大勝した後、その毘沙門天像は、どこかに飛び去ってしまった。その毘沙門天像を各地に探し求めていたところ、発見されたのが、この石龕寺の奥の院の石窟である。太子は感激し、小さな堂を立て、その毘沙門天像を祀った。それが石龕寺のはじまりだという。

加古川駅近くに鶴林寺という太子ゆかりの寺があり、国宝の本堂で有名だが、開創の年が石龕寺と同じ587年と言われる。聖徳太子が勝鬘経と法華経を講じたのを喜んだ用明天皇が播磨国の水田百町(一町は三千坪)を太子に送った、それを太子は自ら創建の法隆寺に寄進したと日本書紀にあるという。

太子が高句麗の慧慈について学ぶのが24歳の時だから16歳ころに講義をするというのもどうかと思う。また、用明天皇の崩御は587年で、法隆寺の創建は607年だから、この記述はやはりおかしい。いずれにせよ、広大な法隆寺領があった土地だからその管理のために創建され、のちに太子創建という伝承にされ、お寺も豪壮に現存しているのであろう。

また姫路の西、揖保郡には太子町という地名があり、そこにも、斑鳩寺という太子創建の古刹がある。ここには鵤庄(いかるがしょう)という法隆寺領の荘園があり、寺領管理のために置かれた法隆寺の子院であったという。この二つの太子ゆかりの寺の北東、丹波に位置し、そうした太子に縁の深い土地柄にあるのが石龕寺だ。

石龕とは、石窟、または岩屋のことであり、まさしくこの毘沙門天像が祀られた岩窟をさす。近隣のを岩屋と言い、山号も岩屋山という。平安時代には山岳信仰の地として信仰を集め、平安中期の村上天皇が小野道風(尾張出身の書家・書道で三聖というと空海、菅原道真に道風)に書かせたという石龕寺の額が下賜されている。

また、鎌倉時代には、現在の仁王門が造られ、運慶派の大仏師・肥後別当定慶作の仁王像が祀られている。この定慶には鞍馬寺の正観音像がある。そして、南北朝時代は、石龕寺にとって、足利氏との関係が深くなる時代である。

鎌倉から九州へと攻めたり敗走したりして、福山の鞆の浦で足利尊氏が弟の直義とともに挙兵するのは建武の新政の混乱期。その後京を抑え、北朝の征夷大将軍となった足利尊氏が幕府を開くものの実務的幕政を見る異母弟直義(ただよし)との二頭政治であったために、幕政内に派閥が出来、観応の擾乱という混乱を招く。

そして、一時直義は南朝についた時期があった。その争乱に際して観応2年(1351)足利尊氏が直義軍勢に敗退し、書写山圓教寺にて再挙をはかるに当たり、子の義詮(よしあきら)に二千騎の軍勢をこの石龕寺に待機させ、その間に、将軍毘沙門天祈願を修行している。建武4年(1337)銘の尊氏寄進の鰐口があり、また弟直義闘滅の天下平安祈願を記す尊氏直筆の御教書が残されている。

余談にはなるが、その後、尊氏の子義詮が二代将軍になるが、直義はその補佐役になるが、北朝南朝入り乱れての混乱の中、南朝との講和交渉に際して幕府の姿勢を尊重し天皇方の権限をはねのけたかどで南朝から討伐の命が下り、鎌倉で幽閉の後毒殺された。なお、神護寺に残る頼朝像はこの直義であったとする説が有力だと言われている。

こうして室町時代には、大檀那であった足利氏の権勢により、参道の町石や石仏の造立があり、また応永28年(1421)銘の両界曼荼羅の版木が残されており、当時盛んに両界曼荼羅をたくさんの信者に頒布していたことを覗わせる。戦国時代になると逆に足利氏や地元豪族も衰微して石龕寺も荒廃。

時代は、織田信長が畿内の勢力を拡大し、自ら擁立した将軍義昭との断絶が決定的になると、義昭は打倒信長に向け御内書を朝倉、浅井、武田、毛利、延暦寺、石山本願寺に向けて発し、いわゆる信長包囲網を布く。勝ったり負けたりではあるが苦戦を強いられる信長を助けたのは、武田信玄の急死であった。

その後伊勢長島の一向一揆を平定し、千丁の鉄砲で武田軍を壊滅させ、加賀門徒衆も討伐。信長は安土城を築城。そのころ丹波の波多野秀治が叛旗を翻し、石山本願寺、越後の上杉、毛利も反信長で結束する。このときも上杉謙信の急死に信長は救われる。

が、様々な合戦の末、天正6年(1578)には播磨の別所氏の謀反が起こり三木の合戦があり、また毛利が激しく対立した時期、丹波攻めがあり、波多野秀治が降伏している。その最中、信長四天王と言われた一人丹羽長秀の岩屋城(石龕寺城)襲撃によって、石龕寺は、仁王門を残しすべてを焼失した。

江戸時代には、寛永3年(1626)僧・明覚が訪ね、荒廃している石龕寺の本堂と本坊を再興した。明覚は丹波、但馬、播磨で、23か寺を再建して歩いた傑僧と言われる。その後、梵鐘に鐘楼堂を建立し、江戸中期には毘沙門天信仰も盛んとなり、今日の基礎を築いた。

しかし、宝暦13年に本堂(今の奥の院)焼失。その後本堂を現在地に降ろして毘沙門堂として再建。昭和31年に仁王像が重要文化財に指定され、解体修理、門も改修された。しかし昭和35年には、台風で土砂崩れに遭い、持仏堂庫裏が全壊。昭和45年に再建された。

それでは、現在の伽藍の様子を見てみよう。仁王門前には、詩碑がある。荻生徂徠の弟子で江戸時代の漢学者・太宰春台の詩。

「経歴丹陽路 過来釈氏居 像霊運慶刻 字古道風書
 一将巣中鳥 三軍網裡魚 星霜千載下 遠客自躊躇」

仁王像は、国の重文。370㎝もある巨像。力強い忿怒相、仁治3年(1242)肥後法橋定慶作。仁王門を入ると左側には石仏群がある。大日如来や阿弥陀如来が薄彫りされた石仏。室町時代のものとされる十三仏の石像もあり、興味深い。

その先には町石が並ぶ。今の奥の院から何町かを表す。五輪卒塔婆型で、正面に仏像か梵字が彫られている。その前あたりに客殿、持仏堂に庫裏がある。持仏堂の本尊は、半丈六の聖観世音菩薩。右手は施無畏、左手に蓮華を持つ。平安後期の作。そこからさらに石段を登ると奥の院から移転した本堂・毘沙門堂がある。

毘沙門天は四天王の一人で北方の守護神。インドの古い神で、ヴァイシャラヴァナ、または、クベーラ。闇黒界の悪霊の長、夜叉羅刹の統領、財宝・福徳を司る神に転じ、帝釈天に属し、仏法守護の善神、勝軍のために祈願される。唐玄宗時代に不空三蔵が、安禄山の乱平定のために祈願した。甲冑を着け、右手に宝棒、左手に宝塔を持つ。信貴山、鞍馬寺、東寺が有名。

天部の仏ではあるけれども、他の菩薩や如来と同等の扱いを受ける。真言密教での各尊の修法の中に入我我入観という観法がある。普通天部は、これを行わない。しかし毘沙門天に限り他の仏同様に入我我入観がある。別格の存在として仏教に採り入れられたというか。

本堂の脇には、薬師堂、仏足石、水掛不動がある。日本最初の仏足石は奈良薬師寺のものだという、こちらは昭和54年の造立。そこから奥の院へは約800メートルの道をあがる。途中、足利尊氏寄進の京都東寺の梵鐘を模した新しい鐘が吊された鐘楼堂がある。奥の院は、石龕寺の発祥の地、平成6年、きれいな拝殿が新設され、毘沙門天石像を祀る。地蔵堂、蔵王権現、役行者石像、石燈籠18基が配される。

その本尊のゆえか、数々の歴史の舞台となってきた石龕寺、だからこそ紅葉を愛でるに値するその趣きもあろうということか。一つ一つの石段を登るに従い歴史の重みを感じつつ、変化する景色を楽しみに参詣したいと思う。

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コメント (4)
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