住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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信仰によって救われるとは

2019年09月13日 20時55分31秒 | 仏教に関する様々なお話
信仰とは何か、それはなぜ説かれたのか(本日の仏教懇話会で話した内容に加筆訂正したものです)。お釈迦さまは成道後、この悟りは他のものには見出しえない、理解しえないと思われた。そのため法を説くことをあきらめたのである。しかし、インド世界の最高神梵天が現れて、そんなことはない、この世には煩悩薄く説法によって法を理解し悟れるものもあるはずとの助言によって、改めて天眼によってこの世を眺めてみると梵天の言うように煩悩薄く悟れるものあることを知り、法を説くことを決意された。つまりお釈迦様は、自らと同じ悟り、解脱を成し遂げることを衆生に求められたのである。

しかし、仏滅後、百年、二百年と年月が経つに従い、お釈迦様と同じ悟りを成し遂げるという大目標に対して、今日の私たちのようにとても叶い得ないものとしてとらえ、お釈迦様に対する信仰、それも単に何事かを願い加護をうるものととらえるようになっていったであろう。そのような時期に、西域から沢山の異民族がインド世界に流入するにしたがい、彼らはインド土着のバラモン教によってカースト外の扱いにされるのではなく、異民族をも平等に受け入れる仏教に帰依し、地域を統治する教えとして、信奉した。

大きな乗り物と自ら称した大乗の教えは、すべての者を対象として、その救済を願い、空という言葉を標榜して、善も悪も、自己も仏も、迷いもさとりも、空であるが故に実体がなく不二(ふに)である。つまり、私たち自身を仏と全く隔絶したものとしてではなく、不二としてとらえて誰もが仏に成り得るとしたのである。そして、インドの神々に匹敵するほどの多くの仏菩薩を誕生させ、それらへの信仰を推奨した。

信仰するとは、ただ手を合わせ名を唱えることではなく、その仏菩薩のすぐれた徳や善根に随喜することであるとせられた。随喜とは、その仏がどういう仏で、どのような徳を積まれどのような悟りを得られたのかを正しく知り、それをまるで自分のことのように喜び賞賛して、その功徳を自分のものとすることを意味していた。そうして、その受け取った優れた功徳を自らの悟り、菩提のために廻向する、振り向けることによって、業報輪廻からの解放が得られるとしたのである。

しかし、それを可能とするためには、心を般若波羅蜜にとどめ、すべてのものを空と見て、不二ととらえられねばならない。般若波羅蜜とは、六波羅蜜の一つでもあり、智慧の完成と訳す。なにものにもとらわれず、心にとどめないことである。そして、そのような境地を得るために、少し後の時代のものかもしれないが、さかんに空性の瞑想がなされたのである。自分の体、心を分解し自分と言えるものがあるのかと瞑想し探求する。これが自分と言えるような不変の実体ある自分などどこにも無いことを悟ることをその目的としている。

これに対して、一般的な行としては六波羅蜜が説かれることになった。六波羅蜜とは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧、これらの波羅蜜、つまり完成と名付けられている。では、智慧波羅蜜を除く、世間における五つの俗行を波羅蜜に高めるためにはいかになしたらよいのか。六波羅蜜は、他者に施しをしたり、在家の戒である五戒を守り、思い通りにならないことに忍耐し、善行に励む、さらに坐禅瞑想にいそしむ。

しかし、それだけでよいというのではなく、これら五つの行いを為したなら、それらの徳をすべての者たちの菩提のために廻向する、無上菩提のために廻向することによって、崇高なる出世間の無上菩提の完成になる、つまり六行が六波羅蜜に転換されるというのである。それこそが空の働きであり、仏陀の働きであるから、菩薩の行となると考えられた。だからこそ、今日漢訳の大乗仏教圏では、お勤めの最後に、「この功徳を以て普く一切に及ぼし我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん」と法華経化成喩品にある廻向文が唱えられるのではないか。

さらに、空の世界に入るためには言葉の概念世界からの解放が必要であるとされるが、そのために、たとえば般若心経では最後の一行である真言、マントラこそが重要視され、真言を唱えることによって言葉の概念世界からの解放を目的とした。そして、心経はその前段階で五蘊をはじめとするお釈迦様の教説を否定するが、それも、とらわれない心にとどまり、あらゆるものに心とどめないこと、ものを認識して執着しないこと、すなわち般若波羅蜜にとどまることを述べたものにすぎず、それこそが彼らの心の支えであり、そうあれば業報輪廻からの超克さえも可能なのだと考えたのである。

結局、お釈迦様を崇拝し何事かを願うしかなかった人々に向けて、信仰すれば救われますよ、もっと仏陀のことを知りなさい、たくさんの仏について思いめぐらし、それら仏のような心もちになり働きなさい、さらに、瞑想してみなさい、衆生の悟りのために廻向しなさいとそうすれば輪廻も超えられますよと、と巧みな説き方によって、誘導し、信仰からより本格的な修行へと段階を踏んで人々を導く方便として大乗の教えがあったと考えることができよう。

今日、大乗仏教の説き方は、特に我が国においては、まるでその本来の意味合いを忘れたかのように簡易に単一的に容易なものとしてしか教えを説いていない。このありさまは、大乗仏教運動を創始し展開した当時の仏教者たちにはまるで不本意なものと映っているのではないだろうか。大乗仏教は、これだけすればよいというような教えではない。総合的重層的なその構造があってこそ、一切衆生も仏になりうるといえたのであろう。

参考文献・梶山雄一著『般若経』(中公新書)

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