
朝日新聞は毎週土曜日に「こころ」というページを設けている。このページの一角に現在花園大学教授佐々木閑氏の『日々是修行』というコラムがある。8月30日の記事に、「完全な消滅こそが安息」と題して一文を寄稿されている。この先生の著作は、大蔵出版刊『出家とはなにか』を読んだことがある。そこでは上座仏教の僧を標準にして仏教僧の本来のあり方を述べ、日本仏教の俗化した状況を批判的にあとがき等で記している。
本コラムでは、まず冒頭で、お釈迦様が目標とされたさとり、涅槃を、「完全な消滅」と訳されている。確かに輪廻から解脱され輪廻の輪から脱したわけだから、そのことを完全な消滅と言われるのであろう。それはそれで結構ではあるけれども、それが「釈迦の一番の望みだった、彼は最高の目的とした」と記している。
初期仏教は自利のみを目指した。多くの者を対象に利他を説く大乗仏教とは違う自分だけ安らかに逝ければいいという教えなのだと言うが如く、冷ややかな物言いが感じられる。お釈迦様は確かにさとられたときには他に説くことを諦めかけたことがあるように仏典には記している。
しかし、梵天の勧めによりその後の生涯は他への教化のために費やされたことはあきらかなことである。自己の一番の望みが完全な消滅なら、さとられてすぐに死を目指せばよかったのではないか。だから、その後のお釈迦様の人生を見るならば、「死んで完全に消滅することが釈迦の一番の望みだった」というのはいただけない。
また、次には、「愛する人を失って、どこかに生まれ変わって今も生きているに違いないと考えればつらい喪失感にも耐えられる。死んでもまた生まれ変わるという思いは多くの人間社会に共通する救いなのだ」と述べ、あたかも、仏教で説く輪廻転生ということを単なる気休めであるかの如く扱っている。
だから、このあとに、「生まれ変わった後は慈悲の御手の中永遠に安楽世界で暮らしていけると心底信じることが出来れば人生の苦悩は解決する」と述べている。生まれ変わり、輪廻を苦しみから逃れる手立てのようにお考えのようである。はたしてそうなのであろうか。
輪廻とは実はとんでもない厳しい教えなのではないだろうか。己の行い、身体ですること、言葉、心の中の思いすべてに責任を要求するものなのではないのか。救いなどでは決してなく、きちんとすべての善いこと悪いことの行いの明細書が積み重なっている、すべてが自業自得、自己責任を問われる厳格な世界のはずだ。
「合理精神を保ちながらそこまで(生まれ変わり安楽世界で暮らしていけると)徹底するのは至難の業だ」とも記している。あたかも、輪廻を信じることは合理精神にもとるということをおっしゃりたいようである。お釈迦様が初期仏典の中ですべてこの輪廻という教えを前提として法を説かれていることをどのように解釈されておられるのであろうか。
また「死んだら何も残らないと考えて恐怖する人に、それでいい、それが最高の安息だと言って道を開いてくれた」とも記されているが、本当だろうか。行いの果報、業が来世に結果すると説かれたお釈迦様は、死んだら何も残らないとも言われないし、さとってもいない人に、まして死が安息だとも言うはずがない。
「我々は死んだら、ひょっとすれば、絶対者がいて救ってくれるかもしれないし、どこかに生まれ変われるかもしれない。しかしそうでなくても、たとえなに一つ残さずに消え去ったとしても、死者は平安だ。それが、釈迦が我々に確信をもって保証してくれた死の真実なのである」とこの文章が締めくくられている。
絶対者とは、阿弥陀さまのことだろうか。浄土教でいう極楽世界に往生するとは、天界に生まれ変わることを指すのではないか。だとすれば、それは輪廻思想を受け入れての話となる。どこかに生まれ変わることなく何一つ残さず消え去るとは、阿羅漢果をさとったということであり、それは我々が死んだらなどと誰でもがそうできるように書かれるべきものではないだろう。
そして、それがお釈迦様が保証してくれた「死の真実」とあるが、それとは何をさすのであろうか。ただ死ねば平安だというのではお話しにならない。死とは何か生きるとは何かをきちんと説明し、仏教の死生観とはこのようなものであると記して欲しかった。冒頭に記した『出家とは何か』に著されたような仏教原理主義と言えるほどの厳密な内容を前提として、是非また、死について書いて欲しいものである。
(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

本コラムでは、まず冒頭で、お釈迦様が目標とされたさとり、涅槃を、「完全な消滅」と訳されている。確かに輪廻から解脱され輪廻の輪から脱したわけだから、そのことを完全な消滅と言われるのであろう。それはそれで結構ではあるけれども、それが「釈迦の一番の望みだった、彼は最高の目的とした」と記している。
初期仏教は自利のみを目指した。多くの者を対象に利他を説く大乗仏教とは違う自分だけ安らかに逝ければいいという教えなのだと言うが如く、冷ややかな物言いが感じられる。お釈迦様は確かにさとられたときには他に説くことを諦めかけたことがあるように仏典には記している。
しかし、梵天の勧めによりその後の生涯は他への教化のために費やされたことはあきらかなことである。自己の一番の望みが完全な消滅なら、さとられてすぐに死を目指せばよかったのではないか。だから、その後のお釈迦様の人生を見るならば、「死んで完全に消滅することが釈迦の一番の望みだった」というのはいただけない。
また、次には、「愛する人を失って、どこかに生まれ変わって今も生きているに違いないと考えればつらい喪失感にも耐えられる。死んでもまた生まれ変わるという思いは多くの人間社会に共通する救いなのだ」と述べ、あたかも、仏教で説く輪廻転生ということを単なる気休めであるかの如く扱っている。
だから、このあとに、「生まれ変わった後は慈悲の御手の中永遠に安楽世界で暮らしていけると心底信じることが出来れば人生の苦悩は解決する」と述べている。生まれ変わり、輪廻を苦しみから逃れる手立てのようにお考えのようである。はたしてそうなのであろうか。
輪廻とは実はとんでもない厳しい教えなのではないだろうか。己の行い、身体ですること、言葉、心の中の思いすべてに責任を要求するものなのではないのか。救いなどでは決してなく、きちんとすべての善いこと悪いことの行いの明細書が積み重なっている、すべてが自業自得、自己責任を問われる厳格な世界のはずだ。
「合理精神を保ちながらそこまで(生まれ変わり安楽世界で暮らしていけると)徹底するのは至難の業だ」とも記している。あたかも、輪廻を信じることは合理精神にもとるということをおっしゃりたいようである。お釈迦様が初期仏典の中ですべてこの輪廻という教えを前提として法を説かれていることをどのように解釈されておられるのであろうか。
また「死んだら何も残らないと考えて恐怖する人に、それでいい、それが最高の安息だと言って道を開いてくれた」とも記されているが、本当だろうか。行いの果報、業が来世に結果すると説かれたお釈迦様は、死んだら何も残らないとも言われないし、さとってもいない人に、まして死が安息だとも言うはずがない。
「我々は死んだら、ひょっとすれば、絶対者がいて救ってくれるかもしれないし、どこかに生まれ変われるかもしれない。しかしそうでなくても、たとえなに一つ残さずに消え去ったとしても、死者は平安だ。それが、釈迦が我々に確信をもって保証してくれた死の真実なのである」とこの文章が締めくくられている。
絶対者とは、阿弥陀さまのことだろうか。浄土教でいう極楽世界に往生するとは、天界に生まれ変わることを指すのではないか。だとすれば、それは輪廻思想を受け入れての話となる。どこかに生まれ変わることなく何一つ残さず消え去るとは、阿羅漢果をさとったということであり、それは我々が死んだらなどと誰でもがそうできるように書かれるべきものではないだろう。
そして、それがお釈迦様が保証してくれた「死の真実」とあるが、それとは何をさすのであろうか。ただ死ねば平安だというのではお話しにならない。死とは何か生きるとは何かをきちんと説明し、仏教の死生観とはこのようなものであると記して欲しかった。冒頭に記した『出家とは何か』に著されたような仏教原理主義と言えるほどの厳密な内容を前提として、是非また、死について書いて欲しいものである。
(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

このような書き方でお茶を濁すようだから日本の仏教が停滞しているということに全く自覚がない。宗門大学の先生方というのは精気を抜かれたようなところがある。誠に愚かしいことです。
また、これを読んで全く反応しない僧侶たちにも失望します。先生のご意見ごもっともと受け入れて自分の頭で考えることすらしない。ダメですね。
おじゃましました。
なるほど・・・と勉強になりました。
私も勉強していくなかで、輪廻についてじっくり考えたく思います。
サラリーマンをやってらして、得度されたんですね、すごいです。
皆さん、誰でもが立派な方の書かれたものには疑問を感じることなく、そのまま受け入れてしまいがちです。何事にも自分の感性や知識から取捨選択しながら批判的に読んでいく姿勢も必要なのではないかと思います。
それは単に書籍にかかわらず、新聞やテレビの報道にも同様なことが言えるでしょう。世界的な合意があるかに見える様々な問題認識についても。
どうぞ、またお越し下さい。ありがとうございました。