住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

備後國分寺だより 第57号(令和3年1月1日発行)

2021年05月09日 09時37分44秒 | 備後國分寺だより
令和3年正月号(B5・16ページ・年三回発行)



【六大新報令和二年七月二五日号掲載】
  松長有慶先生著
 『訳注(やくちゆう) 声字実相義(しようじじつそうぎ)』を読んで



松長有慶先生の新刊、訳注シリーズ第4巻『訳注 声字実相義』(春秋社刊)を拝読させていただいた。

『声字実相義』(以下『声字義(しようじぎ)』と略す)は、『密教辞典』(法蔵館刊佐和隆研編)に、真言教学の重要聖典、即身義、吽字義(うんじぎ)とともに三部書の一つとある。従って、専修学院時代に多少の知識は得ているはずなのだが、はたしてどのような内容であったか記憶に乏しい。もとより一から学ばせていただく気持ちで本書を開いた。

そこには、凡例(はんれい)に続いて参考文献として、真言宗全書、智山(ちざん)全書、豊山(ぶざん)全書などより、鎌倉時代から江戸時代までの学僧による十四の注釈書が掲げられ、さらには英語ドイツ語の文献を含む、近代の三十二の解説書、研究書まで一覧にある。それらは本文に【略記号】で文献を表示し該当する頁数まで記して、原漢文の読みから用語の解釈まで比較検討されており、現時点における『声字義』に関する最高レベルの研究成果をすべて注ぎ込まんとされる先生のこだわりや気迫が感じられる。

まず本編はじめに「『声字義』の全体像」が説かれる。古来インドや中国、また日本において、声や言葉がいかなる意味あるものとして受け取られてきたかを説いていかれる。そして20世紀前半にヨーロッパに起こった構造主義の哲学の根幹である言語論において、この『声字義』も実は20世紀後半には多くの研究者たちの研究対象であったことが紹介されている。

また中国思想における言語論争で注目される「名」は、『声字義』にも用いられるが、伝統的注釈者の多くが「すぐれた」という意味に受け取ってきたという。しかし、正しくは「名」とは、名づけるということ。ものを分けて明らかにしていく、ものの違いによってそれぞれを特定する、そのためにさまざまな名前や言葉が発生していくわけだが、そうして原初の世界において真実の根源から発せられるものを、私たちの現実世界において表現するために用いられた言葉を「名」というのであるという。そうした根源的な存在とかかわる言葉を、本書においては「コトバ」とカタカナ書きにして区別して先生は使われている。

そして、『声字義』の主題について触れられ、それは、私たちの眼耳鼻舌(げんにびぜつ)身意(しんに)の感覚器官・六根(ろつこん)に入る六境(ろつきよう)・色声香味触法(しきしようこうみそくほう)、すなわち普段の生活の中で目にする物、耳にする声や音、香りや匂い、口に感じる味、身体に触れる感触、考えたり思うあらゆるもの、それは本来覚りの障害になり六塵(ろくじん)ともいわれるものだが、その中にこそ如来が説法される声や言葉が潜んでおり、それは世俗の存在のままに絶対の真実(実相)なのだと説かれる。つまりそれこそ法身(ほつしん)大日如来の説法なのであり、心して聞くべきものであるということであろう。

著作年代については、『声字義』中に「『即身義』の中に釈するが如し」という語が二度記述されていることから『声字義』は『即身義』以後の作品とされてきたが、先生はこれを後世の挿入とせられる。そして、『声字義』後半部分に法相(ほつそう)や華厳(けごん)教学への配慮からか自説の主張が抑えられており、また『金剛頂経』からの引用が少なく、両部経典を自在に駆使して自らの主張を巧みに説く準備が熟していなかった時代、つまり真言教学がまだ十分に社会に認知されていなかった弘仁(こうにん)の一桁代後半の作であろうと推定されている。

そして、本編に入るのだが、各段ごとに、はじめに【要旨】が説かれ、次に【現代表現】としてやさしい言葉で現代語訳が示される。【読み下し文】と【原漢文】が続き、難解な用語は【用語釈】として、注釈書に斟酌(しんしやく)した丁寧な解説が附されている。【要旨】と【現代表現】をまずは読んで、【読み下し文】や【用語釈】、【補注】を参照すれば、難解な大師の著作をいとも容易に読むことができる。

『声字義』前半では、声字実相という新しい思想を立ち上げる論拠として大日経の偈頌(げじゆ)を説き、また内容を説くに当たり四句一頌を自作して自ら解釈して、その中の声・文字などの言葉が実相に他ならないことを述べる。後半ではやはり四句一頌を自作し、六境の代表として色・物質について生物も非生物も、いろ・かたち・うごきの三種の性質を具えていて、いのちを持ち、かつ文字として、そこにこそ諸仏が存在していることをあきらかにしていく。

ところで、中国天台智顗(ちぎ)の著作『摩(ま)訶止観(かしかん)』に関する注釈書が出典とされる言葉に「草木国土悉皆成仏(そうぼくこくどしつかいじようぶつ)」がある。以前この言葉について法話するに当たり、筆者は仏とは法を説く者であり、それをたよりに人は試行錯誤しながら何ごとかを覚っていく。しかし、自然が発する音も姿も、時にこの世の法則、真理を垣間見させてくれる。そうして人に示唆し、教え、励ましを与えることがある。されば、それは仏の説法にあたるのであろう、自然そのものも法を説くものとして仏と言い得るのではないかと考え、そのように話してきた。が、これはまさに『声字義』の説く、すべての存在は声字なり、実相なりという教えそのものであったとも言えようか。かつて学んだ教えが朧(おぼろ)気(げ)ながら筆者の頭に残っていて、意識もせずに紡ぎ出した解釈だったのかもしれない。

毎朝本堂に向かうとき、中の間に掛かる書軸を拝む。そこには「閑林(かんりん)に独座す草堂の暁(あかつき) 三宝の声を一鳥に聞く 一鳥声有り 人 心有り 声心雲水俱(とも)に了了(りようりよう)たり」(性霊集補欠抄巻十)とある。先生は、本書巻頭「『声字義』の全体像」において、この詩を紹介し八行の現代詩に訳されて、『声字義』に込められた真言密教独自の哲学思想を凝縮するものとして示されている。これまで、十分にその深遠なる意味を知らずに拝してきたが、本書に学んでからは、池に落ちる水の音、鳥のさえずり、風に吹かれて起こる木々のざわめき、それらが一つに融け合う永遠なる瞬間にあることを心に留めつつ入堂している。そして、唱える読経も実相を具えた声字に他ならないと、心新たに日々勤めたいと思う。三部書の一つをここに学ぶ貴重な機会をいただきましたことに感謝申し上げます。

奥深い真言の教えの真髄を祖典に学ぶため、また日々の勤行の質を高める心構えを学ぶ一冊としても、是非、御一読をお勧めしたい。


〇令和元年十月二八日長尾寺様の御縁日法会後の法話より
 法話 般若心経に、お釈迦様の教えを学ぶ・後編
 

四聖諦とは

そして、心経のその先には、四行目(第56号10頁参照)に「無苦集滅道」とあります。③の四角を見ていただくと、四聖諦(ししようたい)とあります。心経にはたった四文字ですが、しかしこれは、お釈迦様の根本教説と言われる、とても大事な教えです。お悟りになられたお釈迦様がブッダガヤからサールナートに二五〇キロ歩いてきて五人の修行者に初めて説法し、五人を見事に悟らせ、初めて法輪を転じたときの教えです。四つの聖なる真理と訳されます。

ひとつ一つ簡潔に申しますと、苦集滅道のはじめの苦聖諦とは、生きるとは何か。それは苦であるということです。今みてきた通り、生きるというのは、この五蘊を常に働かせることであり、私とは五蘊に過ぎないとお釈迦様も言われています。

色という身体があり、そこにいろいろな情報が入り、それに反応して判断して、行動していますが、その過程に私という自我が入って、自分本位にいろいろと好き勝手に考え判断し生きています。ですが、すべてが無常であって、変化し移り変わっていくものなので、自分の感覚も、思いも、したいことも、思い通りというわけにはいかないわけです。そこで常に、不満を抱え、悩み、苦しみつつあるということになります。この現実をよくよく見てみると、生きるということ自体が、そもそも苦しみであると解るということなのです。このことをよく認識理解することが大切だというのが苦の聖諦です。

そう申し上げると、そうかしらと思う人が居られるかも知れませんね。人生とは苦であると納得できない人もあると思います。

生きることは素晴らしい、素敵なことが一杯だと人生を捉える人もあるかも知れません。が、よくよく見てみると、生きるというのは大変ですね。一日中寝たいだけ寝ていられる人なんかいません、今日は何もしないでいいと思っても、ゴミを捨てに行かねばならなかったり、何か食べなくてはならないので作ってみたり、玄関前くらい掃除しようとか、本当に何もすることがなければ、逆に退屈してイライラしてしまいます。

皆さん結婚されたとき、二人で幸せになりますと大勢の前で言ったかもしれませんが、実際のところいかがでしょうか。何十年も経てどんな感慨をお持ちでしょうか。ですから、結構生きることはつらいし苦しいものなんだと私たちは知っています。ですから、夢を語ったり、いっ時のくつろいだときに、ああいい人生だと思いたいのではないでしょうか。

話変わりますが、今もこうして話を聞いて下さりながら、私の声が皆さんの耳に入り、よく理解して聞いて下さっている方もおられましょうが、人の話をずっと聞くというのは本当は苦しいものです。ですから、中には、なんだか今日の話は小難しいことばかりで、去年の能化(のうけ)さんの方が楽しい話だったなという方もおられるでしょう。ですが、そう判断したらもう話は耳に入らず、それこそ本当に、つらい、苦しいだけの時間を過ごすことになります。

昔奈良の藥師寺に高田好胤(たかたこういん)さんという有名な管長さんが居られて、話し好きで一時間でも二時間でも話すわけです。法相宗(ほつそうしゆう)なので難しい仏教要語が沢山出てくると、中には下を向いてしまう人もあったそうですが、そうすると、「人の話が少しくらい難しくても、結構な話やな、もっと良く聞いてやろうと思う人と、なんや難しい話になって早よ終わらんかいなと思う人では、その人生は雲泥の差があるんや」という話をされました。

「結構やなと思う人は、どんなことがあっても結構やなと前向きな生き方をする、つまらんなと思う人は何を聞いてもなしてもつまらんなと、文句ばかり言う、そういう人生になるんや」と言われて、皆さんに話を聞いてもらえるようにおもしろおかしく話されていました。皆さんも、無理にも結構やなと思って聞いて下さった方が、得になると思って聞いて下さい。もう少しで終わります。

そして、次の集聖諦(じつしようたい)とは、その苦しみはいかにして生ずるのか、ということです。また、その次の滅聖諦はその苦しみをどのように滅していくのか、その滅した状態をこそ目指すべきであるということですが、それを説くのが十二因縁です。

これは、④の四角を見て下さい。これは、この図にあるように十二因縁には二系統ありまして、一つは苦しみが生じていく過程を述べた十二因縁、その下の縦長に書いてあるものの右側の部分です。それと、苦しみを滅っしていく過程を述べた十二因縁はその左側の部分に書いてあります。

心経では「無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽」というところですが、意味からは、これは、無無明乃至無老死亦無無明尽乃至無老死尽となるところなのです。ゴロの関係からかこのような表現になっています。

まず、苦しみが生じていく因縁のところですが、詳しくは申しませんが、こうした十二の項目で因縁が展開していく過程を説明していくのです。

そもそも、生きるとは何かということに根本的な無知を抱えている私たちは、何かしたいという気持ちがつねにあって行為があり、その過去の行いによって新たな命が生まれ意識が生じます。そこには心と体があり、六つの感覚器官が生まれ、外界との接触により、感覚として受け入れ、愛というのは渇愛とも言いますが、飽くなき欲求のことです。この渇愛を生じ、取ると書く取は執着することで、それにより、生きたいという心・有を生じて、誕生があり、老死など苦しみを繰り返すという内容になります。

今申したように、その中に愛とあるのは渇愛とも言われ、この渇愛があるから、執着が生まれ、悩み苦しむことになります。渇愛とは無常ということを認めたくないという心であり、永遠なるものを欲して、もっと欲しい、ずっと生きていたいと思う心です。この渇愛こそが苦しみの元にある。そこがこの十二因縁の肝の部分です。

そして、その左に縦に矢印のある、十二因縁の苦しみを滅尽する因縁が書いてありますように、無明が尽きる、つまり無明がなくなれば、行がなく、行がなくなれば識はないというように展開して、苦を滅し尽くしていく過程が滅聖諦です。

そしてその過程で、もっと欲しい、良くありたい、生き続けたいという渇愛を滅することこそ、私たちは目指すべきであるというのが滅聖諦の意味するところです。それはつまり、渇愛を滅するということは悟りということになるのです。

これはどういうことかと言いますと、みんな誰もがそれぞれ人生の目標と言うようなものがありますが、その先の先に究極の目標として悟りがあると思って生きて下さいとお釈迦様が願っているということなのです。つまりは、仏教徒とは、悟りを究極の目標として生きる人のことだということにもなるのですが。

そして、最後に道聖諦は、その苦を滅するために八正道という具体的な歩み方を教えられています。それぞれの内容はそこに書いたとおりです。

正見は、この四聖諦を真理として理解することであり、正思、正語、正業は、勤行次第の中にある十善戒のことです。正命は正しい生業をもって生活し、正精進は、善いことに励むこと。大事なのはこの後の正念です。今という瞬間にきちんと意識して自分の現実に気づいているということですが、五年前にお話した瞑想のことです。マインドフルネスと今は喧伝(けんでん)されています。自らの行い、感覚、心、真理に気づいていることです。

私たちは、普段、頭の中で話をするように、ずっと考え続けてはいないでしょうか。漫然と目に入ってきたものに反応し、聞いたものに反応して考え続けています。野放し状態になっています。仏教では、それは良くないことであるとされていて、考えないことが良いことなんです。細かく今この瞬間に、自分がしていることに気づきを入れている状態、つまり今という現実に生きることが正念ということです。正定は、何も考えずに一つのことに集中し、落ち着いていることです。

以上、心経で無と頭に付けられた、五蘊十二処十八界十二因縁四聖諦、すべてを一通り解説してみました。

般若心経を毎日唱えている訳ですから、本来、皆さんも、これらのだいたいの意味を了解していてもいいような事柄なのではないかと思います。初めて聞いたという方もあるかも知れませんが、大切な仏教の根本の教えです。是非、難しいと思わずに、折角心経をお唱えになるわけですから、ご理解いただきたいと思います。

いかに生きたらいいか

仏教の開祖である、お釈迦様はこうした教えを諄々(じゆんじゆん)と何十年にもわたり説かれていたのです。もう一度解りやすく申し上げますと、

五蘊とは、人の営みとはいかなるものか、結局人間とは身体と心の働きが移りすぎていくものに過ぎず、自分と言えるような確たるものではないということです。十二処十八界は、私たちが外界とどのように接触しているのかを解明するものです。その接触したものにとらわれ、次から次にと心が移っていくことを観察するのです。

十二因縁は、人はどのように生きるが故に苦しんでいるのか、その苦しみをなくすには、いかにしたらよいか。

そして、四聖諦は、仏教徒としての歩み方を示すものです。

まず、苦聖諦は、人生をいかに捉えたらよいのか、苦と捉えよ、ということです。それは苦とわきまえるということです。悲観して言うわけではないのです。その方が幸せに生きられる、しっかり生きられるということでしょう。人生とは幸せなものだという受け取り方をしていると、ちょっと嫌なこと、しんどいことがあるともうイライラして嫌になります。ですが、もともと苦ばかりですよ人生は、とわきまえている人は、少しくらい何かあっても、そんなものだよと、気楽にニコニコしていられます。

それから、集聖諦は、何事にも原因ありということです。悩んだりつらくなるのにも原因があるということです。私たちには、誰にでも、自分には無いと思っていても、とらわれ、こだわり、うぬぼれ、があります。それらを悩み苦しみの原因として認識することが大事なのです。

執着するものにとらわれたり、家柄や地位にこだわって、自分だけはとうぬぼれて、人生の目標を見失ったり、人間関係を壊したりということはよくあることです。

ないと思っていても、みんなどんな人にも、とらわれ、こだわり、うぬぼれがあると思って、何かイライラしたり、つらい時や苦しい時に、何かにとらわれてはいないか、こだわっていないか、うぬぼれはないかと見て、それがはっきりわかると不思議なくらい急に楽になると思います。

滅聖諦は、では、私たちは何を目指して生きたらいいのか、心の幸せとは何であろうか。苦を滅して、究極的には最高の幸せ、心の解放、何の思いわずらいもない突き抜けた幸せを本当の目標にしてはいかがであろうかということなんです。が、どうですか、私たちは、逆に、とらわれ、こだわることを、人生の目標にしているのではないですか。

私たちの人生において目指すべきは、こだわり、とらわれを滅することにこそあるのだと、お釈迦様がおっしゃっているのです。

そのためにはいかに生きたらいいかと具体的に理想的な生き方を教えてくれているのが道聖諦の八正道です。見たり聞いたり外から入る刺激に翻弄され、過去未来に思いをはせることなく、いまという瞬間の現実に生きることを教えてくれています。

いかがでしょうか、結構大切な、現代人にも通用する生き方を説いて下さっているとは言えないでしょうか。無と無下に否定してしまっていいものではないと思われませんか。

悟りへの道筋

それで、ここで悟りということについてもう少しお話をしてみたいと思うのですが、八正道の中の正念にて申し上げたように、その時その時の、今の心に気づいてゆくと、心が次第に鋭くなって、一瞬のうちに展開する五蘊のひとつ一つが解るようになるのだそうです。すべては因縁によって、現れ消えていく、ただ流れていくもので、執着に値しないと解っていきます。

そして、とらわれ、こだわり、疑いなどが消えて、すべてを空と見て、自我がなくなって、貪瞋癡の煩悩のすべてを消していき、最後は生存欲も無くなって最高の悟りを得るとされています。これは、勿論とてもおおざっぱな流れではあるのですが、この道筋を理解して、将来私たちも、正しくこの道を行けば仏様に通じている、つまり私たちも仏になれるのだということになります。ここまでが心経で言う苦集滅道に含まれる内容です。

そして、ここで心経に戻ります。心経の最後の真言に、「羯諦羯諦・・」とあります。羯諦とは、行くという意味です。どこにか、彼岸、つまり悟りの世界にです。悟りに逝けるものよ、とか、彼岸に至れり、と訳したりします。全体では、「至れり、至れり、彼岸に至れり、彼岸に到達せり、悟りに幸いあれ」という意味になります。皆さんそのように悟りに至れりと、お唱えになられている訳です。

いかがでしょうか、ここでやっとお釈迦様の教えと心経の意味するところとが合致していたことがわかります。凡夫である私たちは、心経で無と否定したお釈迦様の教えにより、心経の結論にまで到達して、舎利子の立場となって、この真言を味わうべきなのかもしれません。

ではこうして、私たちも確かに仏さんになれるのだと解ったうえで、大事なのはその事を知ってから、どう生きるかということなのではないかと思います。

弘法大師が書かれたとされる『即身成仏義』という著作があります。今年改めて読ませていただく機会がありました(本紙第55号六頁参照)が、この本ですが、読むと、真言宗で言う即身成仏とは、何もみんな仏なんだ、悟ってるんだから安心しなさい、仏と気がつけばいい、などというような内容ではないんです。

「この身において仏になると確信しつつも、仏になることにこだわらずに、果てしなく輪廻を繰り返す生涯の中に身を置きながら、衆生の利益と安楽に勤めて、自身を百億の身に分けて、輪廻に苦しめられている生き物たちの中に入りこんで、彼らを導き菩薩の位に到達させるのが私たちの役割である」(松長有慶先生著『訳注即身成仏義』140頁)と書いてあります。

実は、これは、そもそも大乗仏教に生きる人の生き方であって、大乗の菩薩は自分は悟りの世界に行くことなく、何度も生まれ変わりすべての人々生き物たちが悟り尽くすまで菩薩行に励むことになっています。これを自未(じみ)得度先度他(とくどせんどた)「自ら未だ得度せざるに先に他を渡す」と言います。また真言宗の常用経典である理趣経もそこに書いたように何度も輪廻転生して利他行に励むべしとあります。

ですが、そう言われても、では具体的に何をしたらいいのかと困ってしまうという方には、「無財の七施」という教えがあります。衆生を助けるのに、何も多くの財産や知識、技術や知恵が無くとも出来ることが沢山あります。人に柔らかい気持ちを与える眼差しの眼施、時場合に相応しい顔を施す和顔施、幸せな気持ちになるような言葉を施す言辞施、身体により手助けしてあげる身施、善くあって欲しいという気持ちを施す心施、席を譲る床座施、泊まるところを施す房舎施というのがあります。これらをご縁のある方々に適した施しをして差し上げたら、ありがたい施しになると思います。

最後にはなりますが、仏教は常に向上する生き方を求める教えです。たいへん誇り高き教えです。そういうわけで、私も向上するために、今日は皆様に少々厄介なテーマを選び、原稿を作り準備をして、お話し申し上げた次第であります。仏教徒であるとの強い意識を持って、毎日お唱えになる般若心経を読む度に今日のお話を思い返し、精進いただけたらありがたく存じます。長時間にわたりご清聴ありがとうございました。


【六大新報令和二年八月十五日号掲載】
 いま、メディアリテラシーが問われている

いま私たちは自主規制の世の中を生きている。これまでには考えられないような窮屈な時代になった。どこに行くにもマスクが必要で、建物の入り口で手指を消毒し、体温を測定されたり人との距離を測られ、話をすることも控える自粛が当然という空気が漂う。テレワーク、オンライン授業、オンライン飲み会、オンライン帰省というのもあったが、なにを馬鹿なことをと思えることがまことしやかに行われる。しかし、いかにもそれが良いことのようにも思えてくる不思議な世界に生きている。これがいつまで続くのか、もう元の生活には戻れないなどという人までいるようだが、誰がこんな不愉快な世の中にしたのか。

「本日の新型コロナウイルスの感染者は…」という、毎日降り注ぐテレビをはじめとするマスコミ報道に洗脳された私たちは、怖いもの、感染しない、させないためマスクや消毒、ソーシャルディスタンス、自粛が必要と思っている。しかし一度頭をリセットして数字を見直してみてはいかがであろう。

新型コロナ感染のためとされる死者は、七月十二日現在千人に至らないのに、インフルエンザ感染が主原因で亡くなる人は毎年三千人を超えている。コロナの感染者は二万一千人なのに、インフルエンザの感染者は毎年約一千万人である。さらにインフルの感染者はみな熱や咳の症状のある人ばかりなのに対し、コロナ感染者のほぼ八割は無症状であるという調査結果もある。なぜインフルエンザ感染者は風邪症状があるのに、コロナ感染者は症状がないのか。感染とはどういうことを言うのだろうか。

私たちの鼻腔から肺に至る気道の一番外側には粘液に覆われた上皮細胞がある。病原性のあるインフルエンザウイルスが上皮細胞を破り、基底膜も突き破って数百万個にも増殖すると、リンパ球や毛細血管のある間質に抗原ができて、熱が出たり鼻水が流れ、咳で一気に外にウイルスをはき出すことになる。こうした症状があることを本来感染と言うのだそうだ。

私たちは沢山のウイルスを体内に持ち、それらを常在ウイルスと言ったりするが、それらの中にはコロナウイルスも含まれ、喉の粘液上にコロナウイルスが数個付着しているだけで、それが綿棒ですくわれてPCR検査に回されると、百万倍に増殖されてコロナ陽性と判定されてしまう。しかしその程度では、気道上にはウイルスの増殖がないので他者に感染させることはなく、そもそも感染とは言わないのがこれまでの医学の常識であるという。しかもPCR検査は、インフルA、B型のほかマイコプラズマなどにも反応し陽性となる可能性があるという。ではなぜ今回は、そんな偽陽性が多発するPCR検査をすることになったのであろうか。

六月に厚労省が、東京、大阪、宮城で八千人を対象に実施した抗体検査の結果、東京で過去に感染し抗体を持つ人は0.1㌫、大阪では0.17㌫であったと報告されている。誰もが無症状ではあってもコロナに感染しているかもしれないと言われ、マスクをしてきたのに、東京でさえ、千人に一人しか感染していなかったことが判明した。つまり感染力がそれだけ弱いということであり、さらにたとえ感染しても、症状もなく、インフルエンザよりも病害性が弱いのに、マスクに加えソーシャルディスタンスやら自粛など、なぜしなくてはいけないのか。

いやいや海外では桁違いの多くの感染者死者が出ているではないかと思われるであろう。しかし、米国をはじめとする各国の医療関係者の中には、そうした数字に疑問を呈する人々が多く存在する。米国では、コロナが死亡に関連したとされるようなケースでは検査を要せず新型コロナによる死亡とするように健康統計局から指示があるという。四月八日WHOが発表した「新しいコロナに関するガイドライン」でも、検査を実施することなく新型コロナウイルスによるものと疑われる場合には公式の死因を新型コロナウイルスによる死亡とするように、と各国の医療機関に指導している。なぜ数字を水増しする必要があるのか。

かくして様々な疑問が山積する。そこでいささか唐突だが、メディアリテラシーという言葉について考えてみたい。ご存知の通り、その重要性が問われるようになって既に久しいわけだが、しかしそれは、ふつう言われるところの、現代社会に溢れる情報の中から有用で、かつ信頼に足るものを選び出す能力のことだとするなら説明が足りないという。神戸女学院大学の内田樹名誉教授は、自身のブログ『内田樹の研究室(2019.2.22)』の中で、「メディアが虚偽の報道をし、事実を歪曲した場合でも、私たちは、虚偽を伝え、事実を歪曲することを通じて、メディアは何をしようとしているのか?と問うことができる。メディアリテラシーとはその問いのことである」と述べている。さらに、「メディアには決して情報として登場してこないものを感知する能力」が必要であるという。

メディアは真実のみを報道をしているわけではないことをまずは知ること、そして、そこにどんな意図があるのかと問うことの大切さ、そして、自ら情報を見つけ出す感性が求められるということであろう。内田教授は同じブログの最後に、「私たち一人一人がメディアリテラシーを高めてゆかないと、この世界はいずれ致命的な仕方で損なわれるリスクがある」と、正にいま私たちが目にしている世界を予言するような言葉を残している。

米国や欧州で、ロックダウンや外出制限に抵抗する人々、反対デモ、反ワクチンを叫ぶデモ行進など、一切日本のマスメディアで報道されることはない。五月七日ドイツ・ベルリンでは、医師専門家千五百人が支援する「啓蒙のための医師団」が結成され、新型コロナウイルスは季節性のインフルエンザウイルスと同程度のものであり、コロナパニックは演出である、マスクの強制や何が混入されるかわからないワクチンの全国民接種を思いとどまるよう要請した。

厚労省は、六月二日、日本でも来年前半には国民全員に接種が可能なように国費を投じてワクチン製造ラインを整備すると発表している。コロナを収束させるためには、それは好ましいことと受け取っている人もあるかもしれない。しかし、例えばインフルエンザワクチンを接種して、はたしてインフルによる死者は減っているであろうか。統計を調べてみると、平成十年頃よりワクチン使用量が年々増えているが、死者も増加傾向にある。子宮頸がんワクチン投与後、重篤な副作用で苦しむ多くの女性たちがいることをご存知であろう。

昨年(二〇一九)十月十八日、ニューヨークで、世界経済フォーラム、ジョンズ・ホプキンス大学、B&M・ゲイツ財団の共催により、「イベント201」という会議が開かれていた。そこでは人獣共通コロナウイルス感染症の流行をシミュレートし、パンデミックの最初の数ヶ月の間に、症例の累積数は指数関数的に増加し、経済的、社会的な影響は深刻なものになると予測した。そして、今の世界はほぼその通りに推移しているように見える。

ところで、オリンピック延期が発表された日、すべてのマスコミ報道がそこに集中する中で、総務省経産省国交省は、「スマートシテイ関連事業」を公表し、AIや5G、IOTを用いた未来型のオンライン社会実現のために事業推進パートナーを募集した。

さらに京都アニメーションの放火犯が逮捕された日、参議院で「スーパーシティ法案」が可決成立している。これは行政サービスのIT化、車の自動運転、キャッシュレス決済、遠隔医療などのために、国や自治体、企業、IT企業が各々保有する個人情報を、一括して「データ連携基盤事業者(外資系企業を含む)」が管理活用できる仕組みをともなうものだという。

コロナコロナと騒いでいる間に、日本も管理監視社会に向けて後戻りできない事態に陥っている。実はこれらの制度改革は世界中で進められており、こうした管理社会に移行するための予行演習こそが「新しい生活様式」なのではないか。

世間の人々と同様に、怖い怖いと言っていて、いいわけがない。ことの真相を探し出し、いかにあるべきかを自ら考えることが求められている。

参考・youtube「学びラウンジ」講師・大橋眞徳島大 学名誉教授、『PCRは、RNAウイルスの検査に使って はならない』大橋眞著(ヒカルランド刊)、『コロナパン デミックは、本当か? コロナ騒動の真相を探る』ス チャリット・バクディ著(日曜社刊)


〇故武村充大前総代追悼(先生最後の随筆)
 広重の描く「瞽女(ごぜ)」


私は現在、週二回、井原第一クリニックのデイケアに通っている。このデイケアは二十人規模の通所施設で、入浴、リハビリ、昼食、運動、脳トレ、手芸など、多様なプログラムが用意されている。

ある日のことである。「塗り絵」の課題が出され、白絵が数枚ずつ配られた。何げなく目を通していた時、その中の一枚に目がとまった。それは「広重画 東海道五拾三次之内 二川猿ケ(にかわさるが)馬場(ばば)」の一枚である。この絵は何かで一、二度見たことがある有名な浮世絵である。目に止まったのは絵に描かれている東海道二川(現愛知県豊橋あたり)の広大な原野の中の街道にたたずむ四人の女旅人である。いずれも三味線を肩にかけているから、この女たちはあの「瞽女」であることがすぐにわかった。

辞典によると、「瞽女」は三味線などを弾き、歌を歌って「門付(かどづ)け」をした盲目の女性芸能者で、民謡、俗曲などのほか説教系の語り物も語った。」とある。「門付け」については、「人家の門口に立って歌や踊りなどの芸能を演じ、金品を貰い受けること。また、その芸能者」とある。中には一夜の食のために身を売る女もいたという。

いつの時代にも社会の底辺でぎりぎりに生きている貧しい者たちがいる。

私は学生時代、そのものたちの生き様に興味を覚え、研究テーマにして調査したことがある。

私らが子供のころには、この貧しい者たちをみかけることがあった。貧しい親子連れの「ものもらい」を見つけると石を投げ付けて追っ払ったこともあった。

高屋町銀山の集落には、「ホイトウ塚」と言われている巨大な岩穴がある。古墳の跡と思われるが、「ホイトウ」とは通称「ヘイトウ」といわれる「ものもらい」のことで、おそらくこの岩穴で寝起きしていた者たちのことであろう。

村の荒神祭りの翌日、この貧しい者たちが数人、祭りの御馳走の残り物をもらいに歩いていたのを見かけたこともある。

わが家の門に立つ「遍路」に、一握りのしゃぎ麦を接待したことが幾度もあった。

もう忘れ掛けていたあのころのことを思い出させる一枚の浮世絵であった。     (令和元年十二月記)


〇当山中興快範上人書       
『國分寺中興基録』 を読む⑦  


『國分寺中興基録』快範書(五百籏頭(いおきべ)孝行氏解読)

「元禄九年
 一、子正月十二日寺建申度(てらたてもうしたき)願書の事(がんしよのこと)
     御断願口上覚(おことわりねがいこうじようのおぼえ)
 一、下僧儀寺建立仕度(つかまつりたく)存(ぞんじ)一両年此のかた材木も少々心用意仕(つかまつり)且つ又備中辺え罷越(まかりこし)近村の者共に寺造立申し度き旨物語仕(つかまつ)り候(そうら)へは、少々合力銀も御座候、其の上去る方支堂銀御座候故旦那の内当村庄屋弥   右衛門下僧一家の内近田村庄屋五兵衛両人加判を以て彼(か)の銀かり申す可く候、御存の通り拙僧病気御座候へば、存生の内寺建立仕り度存じ奉り候、然れ共悉く新(あらたに)作事仕り候へば、銀大分入り申す儀御座候間、只今住宅仕り候庫裏を引き直し寺に仕る可きと存じ候、此の段御奉行中へ御沙汰成され下さる可く候 以上
    子正月十二日          国分寺 判
     桜井忠左衞門殿 

   右の願御奉行中え沙汰(さた)これあるうえ寺建立の儀相調えるべき由(よし)、仰せ出(おおせいだ)されさしづ(指図)仕る、料家村(甲   奴郡領家村のことか)の大工八兵衛と申す大工呼び寄せ候て作事積(つもり)
 一、三間はりに四間半の客殿 但し四方共に瓦ひさし
 一、弐間に三間半の 釣り屋但し瓦屋ね後前一尺のひさし
 一、弐間半はり 五間の下を取草屋のくり
              但し外とも四間半に七間なり
右の見積もりにして木よせ(寄せ)申し付け候て作事は日や といにして作領(料)は上大工壱匁三分 中は壱匁 下六分 五分 扶持方は万事にして日米壱升弐合ッッにして

    木寄覚(きよせのおぼえ)
 一、百九拾五匁七分三り  上々日向松角五寸角ふしなし
      但し船ちん共       弐拾六本代
 一、七拾三匁六分     同小ふし物  拾本代
      但し船ちん共に ひさし
 一、弐拾八匁       松柱拾本たる木代
 一、拾七匁六分       同断 うたち(梲(うだち))
                  わり物
                  上はしり
 一、四匁五分       はふ(破風)木 四寸の丁
 一、九拾弐匁四分     ぬき(貫)
              わり物
              らうか入用共に
 一、百四匁五分船ちん共に えんかうりよう(縁虹梁(えんこうりよう))※
  上々栂(つが)ふしなし 壱尺壱寸に弐尺六分の平物弐間半木
 一、四拾四匁  上々栂ぬき  くれえん(榑縁)
 一、八拾七匁五分 松坂五歩引立三拾壱間 縁の上うら板
 一、六拾目    同断
 一、百八拾七匁八分    竹大小
 一、百八拾め三分     釘大小 五寸
                  三寸
                  弐寸
                  同瓦くき共に
 一、弐百五拾弐匁     瓦代

     内 合力銀
 一、百五拾目      当村庄屋弥右衛門
 一、五拾目       同村  七左衞門
 一、五拾目       同村  与右衛門
 一、五拾目       同村  市右衛門
 一、五拾目       上御領村庄屋平助
 一、百五拾目      惣旦那中
 〆 五百目
右は寺建立書付如件(くだんのごとし)
 一、元禄十年丁丑(一六九七年)十二月十二日平野村庄屋三郎右衛門越され候て申し候は、本堂建此かた打続き寺くり共造立之(これ)有り借銀等も出来申し候様造作等も結向(結構)に候へ共座敷の内竹すのこにて置き候事見る目笑止に候間畳弐拾丈(帖)程肝煎(きもいり)申す可く申され畳弐拾帖人数を集め指立て申され候事
    畳 施主人数
 一、五匁    平野村 庄野三郎右衛門
 一、五匁    同村庄や三郎右衛門子五郎助
 一、五匁    同村  矢吹 勘右衛門
 一、五匁    同村  矢吹 太郎左衞門
 一、五匁    同村  矢吹 市右衛門
 一、五匁    同村  庄野 善次郎
 一、五匁    同村  太夫 永迫主馬            つづく

※社寺建築に用いる虹のように上方にやや反りを持たせてある梁、化粧梁


【國分寺通信】 

 ほめばほめ そしらばそしれ 世の中は
 ただ百(もも)とせの 人の命を (慈雲尊者和歌集より)

「人よりそしりをうけしころ」の歌とあります。尊者にしてもそしりを受けることがあったこと自体が意外に思われますが、法句経にも「すべての人から非難される人、すべての人から賞賛される人はいない」とあります。いかに生きようとも百歳(ももとせ)なれば、自らすべきこと、本当に自分の信じる道を生きようとの意気込みが感じられます。私たちも、人の目や周りを意識して、自己を見失うことなく、自ら信じる人生を歩みたいと思います。


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