住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

備後國分寺だより 第58号(令和3年4月4日発行)

2021年05月09日 10時22分20秒 | 備後國分寺だより
令和3年4月号(B5・16ページ・年三回発行)



〇聖武天皇なぜ國分寺を建立されたか

聖武天皇は藤原氏によって誕生した

天平十三年(七四一)に「國分僧寺尼寺建立の詔(みことのり)」を発せられる聖武天皇は、後に天皇の外戚として日本政治の中枢で大きな権力を恣(ほしいまま)にする藤原氏に育てられた最初の天皇陛下でした。藤原氏が歴史の舞台に登場するのは「大化の改新」と私たちが習った事件からであり、今では「乙巳の変(いつしのへん)」といわれています。

外国の使節団の前で皇極天皇(こうぎよくてんのう)も臨席する中で当時の総理大臣の地位にあった蘇(そ)我入鹿(がのいるか)を、後の天智天皇となる中大兄(なかのおおえ)皇子(のおうじ)と藤原氏となる中臣鎌足(なかとみのかまたり)の二人が惨殺し、政権を転覆させるクーデターであったと考えられています。後に鎌足の子不比等(ふひと)が編纂の中心を担う『日本書紀』では二人は英雄として描かれています。

聖武天皇は文武天皇の子ではありますが、母は藤原不比等の娘宮子(みやこ)であり、生まれてからずっと不比等邸で育てられました。そして、皇族でない、臣下の娘を母とする初めての天皇となるのですが、そのために、のちに元正(げんしよう)天皇となる氷高内親王(ひだかないしんのう)を養母として控えさせ、元正天皇として皇位につけたあと養母から子聖武へと皇位を継承するという手の込んだ長期にわたる策が練られていたのでした。さらに他にも皇位に候補がある中で、みな若くして亡くなったり、皇位に就けないような措置が執られたとも言われています。父文武天皇が早くに崩御(ほうぎよ)された後、中継ぎに女帝が二人も帝位につき何としても首皇子(おびとのみこ)(聖武)を帝位につけるという執念すら感じられるものでした。

だからか、聖武天皇は何度も詔の中で「徳の薄い身であるのに」「私は徳に恵まれないが」という言葉を発せられ、災害や凶作、伝染病などを神経質なまでに怖れていたということです。

長屋王の変を契機に天武天皇を理想とする

聖武天皇は大宝律令が制定された大宝元年(七〇一)にご誕生になり、その同じ年に生まれた、不比等の娘安宿媛(あすかべひめ)(光明子)が十六歳で嫁ぎ、聖武天皇は二十四歳で即位します。そして、まず母宮子に大夫人(だいぶにん)という称号を特別に与えるべく、武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)ら不比等の子息が議政官となり推進します。

その後、光明子を皇后にするにあたり、天武天皇の孫で当時右大臣として古来の慣習に忠実な長屋王(ながやおう)の存在は都合が悪いと思う人々がいたとされています。長屋王を天皇を呪詛したとのかどで尋問させると、長屋王は邸(やしき)を軍勢に取り巻かれたことを知り、自害してしまったのでした。歴史上、この事件を「長屋王の変」と言います。

その後、光明子は臣下の娘としては初めて皇后となり、不比等の息子ら四人は議政官となるのですが、それまでは一豪族から複数人議政官になることは避けられていました。

そして、長屋王の死から六年が経過した頃、大陸から天然痘が流行、瞬く間に九州から都に至ります。長屋王を尋問した新田部親王(にいたべしんのう)と舎人親王(とねりしんのう)が感染し死すと、翌年光明皇后は一切経の書写を開始。二年後には諸国の丈六(じようろく)の釈迦像と脇侍の造立を命じています。しかし、議政官だった藤原四兄弟が四月七月八月に天然痘で死去すると、長屋王の祟りではないかと市中騒然となり、それを最も怖れたのが、聖武光明の二人であったと考えられます。

その後、聖武天皇は母宮子と生後初めて対面する機会を得ました。そしてこの頃より、藤原氏の天皇としてあった聖武天皇は曾祖父天武天皇が国難に際して仏教に祈願したことを範とし、天皇という称号で初めて尊称され日本国の国号も正式に成立させた天武天皇の政治を理想とする姿勢に転換していくのです。

諸国で護国経典『金光明最勝王経』(こんこうみようさいしようおうきよう)を転読させ、長屋王の子息を従四位下に昇叙(しようじよ)。三年後には諸国に七重塔を中心とする寺院建立を命じています。これらはすでに後の國分寺制を見据えた施策と考えることができます。

藤原四兄弟なきあと橘諸兄(たちばなのもろえ)、吉備真備を首班とする政権が誕生すると、疎外された藤原広嗣(ひろつぐ)が左遷された九州で乱を起こします。すると、聖武天皇は、征討軍を派遣し、自らは平城京を出て東国へ行幸(ぎようこう)。その道程は、「壬申の乱(じんしんのらん)」を大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武天皇)が起こす行路と一致しています。そして、その年の末には恭仁京(くにきよう)(現在の京都府木津川市加茂地区)に遷都し、その翌年に國分寺の詔が発布されることになります。

華厳思想により理想国家建設を目指す

この頃聖武天皇は、河内(かわち)智識寺で毘盧遮那仏(びるしやなぶつ)を参拝し、東大寺良弁(ろうべん)和上より『華厳経(けごんきよう)』の講説を受けています。そして、「事々無碍法界重々無尽(じじむげほうかいじゆうじゆうむじん)」という教えを学ばれ、それを新しい国家構想とされるのです。

それは、仏の世界を千葉(せんよう)に開く蓮華に喩え、毘盧遮那仏は千の華蔵(けぞう)世界の中心に位置し、その千葉の蓮華には千体の釈迦仏があってそれぞれの世界で法を説く、それぞれの蓮華世界はひとつ一つ別々の世界でありながら、互いに相関し重々無尽にその関係性は続いている。個々の蓮華世界は全体の縮図であり、そのひとつ一つに変化ある時は全体すべてに変化が及ぶとするのです。

それぞれの釈迦如来により諸国が浄められ争いなく、多くの民が幸福になり豊かになることは国全体がよくなることであり、日本国全体がよくあることは一国、一個人がよくなることであるとの考えから、都に毘盧遮那大仏を造立し、諸国に國分寺釈迦如来が祀られたのでした。毘盧遮那如来の顕現は無数の釈迦如来の出現を意味し、それによって、無数世界の浄化救済がなされ、時処を超えて三世十方を貫く絶対理想を実現せんとするものでした。

こうして徳の高い行為をすることで、これまでの天皇同様によくこの国を治め、国穏やかで、民が楽しく災害のない凶作のない疫病のない世にでき、また長屋王の死を弔うことにもなるとお考えになられたのでしょう。
その後平城京に還都(かんと)して大仏造立を進め、聖武天皇は娘阿倍内親王(あべのないしんのう)に譲位して、僧行基(ぎようき)を戒師に天皇として初めて出家なされます。そして沙弥勝(しやみしよう)満(まん)として常に南面すべきお方が未完成の大仏を前に北面し、自らを三宝の奴(やつこ)と称したとも言われています。身も心も仏に心酔し、そうして自らの念願、鎮護国家と万民の豊楽(ぶらく)を叶えんとなされました。

天平勝宝四年(七五二)四月九日、大仏開眼供養はインド僧菩提僊那(ぼだいせんな)を開眼師に、僧千人文武百官(ぶんぶひやつかん)一万人が参加する盛大な国際色豊かな催しとなりました。そのとき、聖武太上天皇(だじようてんのう)の御心はいかなるものであったでありましょうか。感無量の喜びとともに、正に赤心(せきしん)からの祈りが聞こえてくるようです。

仏教という最先端の文化を知らしめる

さらにその当時の仏教の価値、当時の人々にとっての意味が今とはかなり違うことも一言述べておかねばなりません。

仏教は千五百年前に百済(くだら)からもたらされました。物部氏蘇我氏(もののべしそがし)による諍いの後、聖徳太子により、四方の極宗(よものおおむね)であるとして仏教は国の教えとなります。四方の極宗とは今の言葉で言うとグローバルスタンダードということです。中国も朝鮮も、どの国も仏教によって高度な文化国家として発展していました。なれば当然日本にも仏教は必要であるとするのです。

インドから中央アジアを経由してシルクロードを通って仏教がもたらされるにあたり、各地の先進文化技術を吸収しながら伝えられた仏教をそれらと共に輸入することになりました。つまり仏教は当時の建築技術、彫刻、金属加工、紙墨筆の製法、衣服の製造、歌舞音曲に至る先進的な総合的文化技術思想芸術を含むものでありました。よって、寺院は最先端の文化の象徴であり、結果的に諸国國分寺は中央集権国家・奈良の都の権威を示すものでもあったのです。        

参考文献 講談社学術文庫・「日本の歴史04 平城京と木簡の世紀」


〇薬師護摩供・初護摩後の法話
 礼拝に込める思い


今年も初大師初護摩の日を迎え、早朝からたくさんの皆様お参りをいただきありがとうございます。

世界は、いろいろな意味で混迷を深めておりますが、私たちの日常はそれぞれに置かれたところでしっかり生きていかねばなりません。そこで新年最初のお護摩でもありますので、今日は仏教徒にとって最も大事でもあり、また基本となる礼拝の意味するところについて考えてみたいと思います。

今護摩行の初めと最後に、「オンサラバタタギャタハンナマンナノウキャロミ」と唱え礼拝しました。これは正しくはサンスクリット語では、「オーン・サルワ・タターギャタ・パダ・バンダナン・カローミ」となり、すべての如来方の御足を頂戴し礼拝します、という意味になります。

インドの学校などに参りますと、子供たちが朝先生に会ったときなど、右手で先生の足に軽く触れ、その手を自分の額に持っていき、それから合掌し「ナマスカール」とニコニコして挨拶する光景をよく目にします。これはまさに身を低くして先生を敬い、自分を無にしてすべて先生の教えに従いますということを表す伝統的なしぐさとなっています。学校の先生ですから、様々な社会通念慣習も含め各教科の学びも頭を真っ白にして先生から一から学ばせてもらいますという気持ちを表すのです。

私たちが仏様を礼拝する時もこれと同様に、身を低くして身も心も真っ白に清らかにして、すべて教えに従いますという気持ちで礼拝することが望ましいということなのでしょう。そして学ぶべきは教えであり、決して当時のインドの人々が神々を礼拝するように、私たちの世界とは隔絶した超越的な存在に対し、ただ畏(おそ)れ平伏して、その恩恵を求めるというような姿勢ではいけないのだと思います。

そうではなくて、私たちも仏様の所へ一歩でも近づいていくのだという思いで、人生を生きる目標として最高の存在であり、つまり学び行ずる理想としての仏様を敬い礼拝するのだという思いを持つことが大切なことであろうかと思っています。

お釈迦様という方は、釈迦族の王子として産まれ、幼少の頃から物思いにふけることが多かったと言われています。出家時の四門出遊(よんもんしゆつゆう)の伝説に語られるように、なぜ老病死という苦しみ多き命を生きるのか、なぜ苦しみがあるのか、生きるとは何かとずっと問い続けられました。

出家前に釈迦族の王宮で贅沢な生活をしていたシッダールタ太子は、別々の日に東南西北の門から出て街に遊ぶと、それぞれ老人、病人、死者、出家修行者に出会い、若さや健康への傲慢な心が消え、自分も死によって人生が終わってしまうことを知り、俗世間を捨てて、生きる苦しみからの解放のために努力する道を歩もうと決心したとされています。

そして、ヤショーダラ妃が、王子の役目として大事な跡継ぎを生んだのを確認して出家されました。苦行の末に禅定に入り、当時はすべては神の意向であり、定められた祭祀をその通り行う事こそが人々の幸せも災いをも左右すると考えられていた世間の中で、神に祈るのではなく、すべての真実、この世の真理を悟ることによって、あらゆる苦しみからの解放を成し遂げられたのでした。だからこそお釈迦様は尊いのです。

『大サッチャカ経』によれば、お釈迦様はお悟りになられた晩に、はじめに深い禅定に入られて、自らの過去世について思い巡らされたといいます。その何万回とも言われる過去世での、それぞれの名前から家族仕事行いの数々を回想されていき、功徳を積みつつ転生してきた自らの命の営みについてご覧になられました。それから、他の者たちの生存についてご覧になられ、様々な者たちがそれぞれの行いの善悪の業(ごう)によって生まれ変わりしていく姿をご覧になられました。そうして、煩悩を滅する智慧について心を向けると、苦しみと煩悩(ぼんのう)について如実に知られ、欲と生存、無明(むみよう)のすべての煩悩から心が解脱(げだつ)したとされています。

生きるとは何か、どうして苦しむのか、どうあるべきか、どのように最高の幸せに到達するかという、この世の真理を知り尽くされてお悟りになられたのでした。

そして、悟られてから、梵天から説法することを懇請されて、縁ある人々に、生きるとは何か、なぜ苦しんでいるのか、いかに生きるべきかと教えられたのです。

ところで、昔、チベット仏教の瞑想会で、ラマ僧から仏教は問いから始まると教わりました。多くの経典はお釈迦様のところに訪ねてきた人が自らの心の煩悶(はんもん)を問うことから成立していると。

ですから、自分にとって何が問題なのか、生活する中で心にわだかまる様々な問題について、どうすべきかとの自分自身の心から発する問いがあって初めて私たちは教えを学ぶスタートに立つことが出来るのです。

お釈迦様が幼少の時から持ち続けられた問い。それと同じように私たちの心の中にある悩み苦しみを自ら認識し、どう考えたら良いのか、どうしたらよいかと問うことから学びは始まります。それを経典に求めることもありましょうし、人の言葉からヒントを得られたり、何か作業をしていてふと思いいたることもあります。さらには、生まれ変わり生まれ変わりしてきた私たちの業について考えることで何か思い当たる節が見つかるかもしれません。それらさまざまなところから学びが得られることと思います。

以前お話会にお越しになられた方から、十代の子供を亡くした知り合いがいるのだが、その人は神も仏もないという気持ちになったというが、仏は実在するのか、と問われたことがあります。そのとき、仏や神がいようがいまいが亡くなる人は亡くなるのではないでしょうかと話し、乳飲み子が亡くなって泣き叫び、お釈迦様のところにたどり着いたキサーゴータミーという母親の話をしました。お釈迦様の方便から、街のすべての家に死者が絶えないことをキサーゴータミーはさとり、出家して修行し最高の悟りを得られたのでした。

亡くなることは悲しいことではありますが、そのことによって、心に何かを得ていかれる、亡くなったことを無駄にせずに、そこから何事かを学び、自らに活かしていく。たとえばある方は、若い頃諦めた音楽の道に、ご子息の死をきっかけに没頭され、多くの楽曲を作り、同じ様に子供を亡くし悲嘆にくれる多くの家族をなぐさめられたという話をしました。

また、私がインドのサールナートに長期滞在し始めた頃のことですが、当初なかなか周囲に溶け込めず悶々と日を過ごしていました。そんなとき、ある日多くの宿泊者があって、一人で沢山の食器皿を砂でこすって洗っていたのですが、ふと何も考えずにただ皿を洗っている自分に気づきました。そう気づくことでその一瞬で心が晴れ、今の瞬間にただ集中しているだけでよいのだとわかり、その後はごく普通に周りの人たちと過ごすことが出来るようになりました。誰にでもそうした学びや気づきを得られた経験がおありのことと思います。

そうして学びや気づきの日々を過ごしながら、私たちはどう生きるべきか、どうあるべきかといえば、それは徳を積むということに集約されるのではないかと思います。日常の中で、周囲の人々に挨拶をする、にこやかに話をする、各々がよくあるように行い過ごす、お寺にお参りをする、こうして護摩に参加する、法話に耳を傾ける、坐禅会に参加する、それらは自分のためと思われがちですが、それらも皆自分のためであり、またすべての生きとし生けるもののためになされている善行為と捉えることが出来ます。

みんなが善くありますようにと思いなされる清らかな行い学びは、自分にとっては徳を積むことであり、それはそのまますべての生きとし生けるもののためになります。言い換えますとそうして生きることは、たとえそれが牛歩のごとくであったとしても、かつてお釈迦様が過去世で生きられた歩みを私たちも生きることになります。

ですから、國分寺では坐禅会をし、お話会を開き、護摩供を修しています。皆様と共に仏道を歩み、共に私たちもお釈迦様のように何度生まれ変わっても真実を見いだして、最高の清らかな心になれるように努力する歩みの中にあるべきと考えます。

このお護摩の火も、仏教以外の教えではただの現世利益を求めるものとされますが、私たちはそこに最高の悟りを実現するための修行として修法(しゆほう)しています。自分のことばかりか多くの縁者の名前でご祈願を皆さん書かれていますが、実は各々添え護摩木に書かれた願いを遙かに超えたその方々の最高の幸せを目指すためにかなえるべきものとして護摩供はあります。ですから、それは甚大な功徳ある行為となるのではないかと思っています。

最後に、対機説法(たいきせつぽう)という言葉を聞いたことがあると思いますが、みんな同じではない、それぞれの人の心に応じた教えが仏教にはあります。ですから、みんなと同じようにしていたら良いという発想は仏教にはありません。個々の問題意識から思いを重ね、解決していく、そこに各々に応じた教えがあると考えます。だからこそこれだと自ら教えの確かさを確認し真実を見いだしていくことも出来ます。

今の時代、特に仏教徒は何が真実か、この世の有り様について自ら問い、そして、いかにあるべきかとお釈迦様のように問い続ける役割を担っていると思います。お釈迦様を私たちの人生の最高の理想として生きる、何度生まれ変わっても真実を求め、問い続けることによって最高の幸せであるこの世の真実・真理を求めていくことを誓い、そうした万感の思いを込めて礼拝したいと思うのであります。

来月も早朝から大変ですが、どうぞお参り下さい。ご苦労様でした。


うれしい友からの電話

一昨日からひどい冷え込みで、本堂の花瓶や壇(だん)の洒水器(しやすいき)の水もシャーベット状になり、日中にも溶けないほど気温が上がらない中、昨日一月九日の坐禅会には9人もの篤信の方々が集い、10分の歩行禅、30分の坐禅を2度坐られました。ストーブを2つ置いての坐禅ではありましたが、寒いせいかお寺の周辺に人の気配もなく、静まり返った中でよい坐禅が正月からできたと思います。坐禅後の茶話会では、皆さん現在の世の中の状況にやや沈鬱(ちんうつ)な雰囲気にはなったのでしたが、それでも私たちは生きていかなくてはならず、すべてのことの真実を見つめながら日々の営みに集中しましょうということで散会しました。

そのあと、夕勤して寺務所に戻ると、遠路はるばる、ある高校の教頭先生をされている高校時代の友人から珍しく電話が入ったのでした。この人は私の人生の大事なところで、たびたび精神的インパクトを与えてくれる貴重な存在で、昨日の会話もおそらく何事か意味のあるものとなってくるのではないかと思っています。坐禅会での話の延長から、挨拶の後すかさず、今の時代をどう思うかと尋ねてみました。

突然のことではありましたが、彼なりの返答があり、私も思うところを述べたのですが、やや丁寧さに欠ける話だったのか、内容的にらしくないと思われたのか、世の中のお坊さんのようではないねという言葉をいただいてしまいました。大事なことは、私たちの仕事は常に周囲の人々に幸せと安心を与えるものでなくてはならないということを教えられたように思えました。彼は米国のキリスト教の学校に留学していたこともあり、常に生徒も含めていろいろな人たちに教えを施す立場にもあって、そう感じられたのであろうかと思います。

その後、いろいろとそれぞれの近況を話し、最後に彼からこれからの時代どういうことが大事になってくると思うかと尋ねられたので、知識があるものが賢いとされるような世の中になりつつあるけれども、いくら人の知らないことを知っていたとしても、それが単なる記憶であっては何の意味もない、それらを用いて自ら考える、人の言うこと、ニュース報道を鵜呑みにすることなく、自分の頭で考え、今置かれた現状を正しく認識し、どうあるべきかと判断できることが大切なのではないかと話しました。

すると、彼は、いま特にコロナコロナとストレス過多の世の中にあって、精神を病んだ状態になると何物にも感動したり美しいと思える感覚が失われていく、また何でもスマホやパソコンで事足れりとする時代となっているが、花であっても、自然であっても、音楽であっても、本物、実物と生で対面し、見たり聞いたりして、美しい、素晴らしいと感動できること、そうした感性を大切にすべきだと思うと話してくれました。

ますます仮想空間の中で人と人が出会わずとも、また現地に行かなくてもバーチャルで事を済まそうとする世の中になっていくことでしょう。ですが、そんなことではなく、その人そのものと直に出会うことの大切さ、実物と対面した時の感動する感性、そのものを失ってはいけないということであろうかと思いました。

私も、彼の話に賛同し、まさに今、私たちは生きることにもその美しさ、周りを感動させられるような生き方、身の処し方、潔さが求められているのではないかと思うと申しました。自らの地位や利得、上辺だけの称賛、そんなものだけを大事にするような世の中に成り果ててはいまいか、私たち日本人には本来もっと気高いものを大切にする心があったのに、いつの間にか失われ、寄らば大樹という処世感覚ばかりが跋扈(ばつこ)して、言いたいことも言わない、見て見ぬふりをして済ませる、みんながしているから同じようにしていればよい、そんな世の中になってしまっているのではないか、「たとえ鶏口(けいこう)となるとも牛後(ぎゆうご)となるなかれ」、という言葉もあるけれど、自分の生き方に自ら感動できるように生きたいものだと話しました。

そのためにはまずは実物、本物の美しさに感動できる感性を失わない、精神の落ち着いた状態にあることが必要だということでありましょう。

久しぶりにうれしい友と話ができた感激をここにとどめておきます。彼から言われたことを心に大切にして日々を過ごしたいと思います。ありがとう。


〇あるべきようは① 
 お釈迦様が教える本当の幸せとは


こちらに来て、今年で早いもので二十二年目となります。自分の出来ることをたださせていただいているという様なことで、気がつけばもうそんなに長く居ることになりました。

今思うことは、住職の仕事というのは、本当に幅が広い、何から何までしなければいけないんですね。お経を上げるというのはほんの一部のことで、伽藍、境内の整備維持管理、様々な行事の準備から執行、これらは勿論檀家総代、世話方様方の皆様のおかげで何とか勤めさせていただいているのではありますが。

他にも参詣者への対応、お寺の会計管理も大事な仕事の一つです。諸々でありますが、私の場合、サラリーマン時代に経験してきたことが、今になって大変役に立っています。経理も、総務も、営業も、会合の司会や事務局の仕事、研修旅行の企画立案のような仕事もしてきました。

それらすべてが今に生きていると思います。誰もがそうだと思いますが、人生無駄なことなど何もなく、すべてが役に立つ、糧になるものだとつくづく思います。

ところで、國分寺では仏教懇話会という月一回のお話会を、もうかれこれ二十年ばかり前から開いていて、仏教全般のことをお話して、お越しになられた皆さんに聞いてもらっています。

私が毎度話したいことを話すわけですから、聞いている皆さんにとってはあまり楽しいことばかりではないのですが、それでも来てくださる。皆さんが私に対して慈悲を垂れて話を聞いてくださっているのではないかとさえ思っております。

それはともかくとして、皆さんお寺というと葬式法事、お墓があって供養供養と言う所だ、と思っているのではないでしょうか。ですが、私は、生きている皆さんが元気で幸せで悩みなく安心して暮らしてくださることが本当の供養だと思っています。

たとえば、この世の中で最もよく供養ができた方は誰だと思われますか。うちのおばあさんは良くしていたがなぁ、という方もあるかもしれませんが。私は、やはりそれはお釈迦様やお大師様に外ならないのではないかと思います。

これだけ二千五百年もの長きにわたって、今もなお世界中の人々に幸せをもたらしている方はいない訳です。神々でさえ教えを乞いに来たのですし、生きとし生けるもの全てがお釈迦様の教えに酔いしれたのでした。お大師様は四国をはじめ全国に信仰という種をまかれ、今日では地域経済のために多大の貢献となっています。

今にも亡くなるという方でも、お釈迦様の短い説法を聞いただけで、そのまま天界に昇天されたという話が、経典にあります。ですから、そのお釈迦様が生涯なされたことが最高の供養だとするならば、私たちのするべき事もはっきりしてまいります。

毎日仏壇にお供えをして読経する。お墓に行って花をかえ、線香を立てて、手を合わせる。それはとても大事なことであり、意味あることではありますが、それだけでは勿体ない。その先にある、大事な仏教のエッセンスを是非味わっていただきたいと思うのです。

忙しく日々が過ぎていく中で、ふと心からの幸せを実感する。心に何のわだかまりもなく、何がなくても大丈夫という、そんな安心感、そういう心を養うことこそが私たちにとって必要な事なのであって、それは、おそらくご先祖様方もお喜びになられることだろうと思います。そして、そういう心、ご先祖様方が喜んでくださる幸せな心を養うためにこそ、法事や様々な仏事が本来あるのではないかと思います。

それでは仏教では、幸せとはどのようなことを言うのかということですが、それは『吉祥経』というお経にわかりやすく説かれています。原本では、『マンガラ・スッタ』と言いますが、タイ、スリランカ、ミャンマーなど南方仏教でよく唱えられる経典です。南方の仏教国では、日本の「般若心経」のように、誰もが暗唱しているお経です。

私もインドにいる頃は毎日唱えていたのですが、原文では、こんな感じで始まります。「エーバンメースタン、エーカンサマヤンヴァガバー、サーヴァッティヤン、ビハラティ、ジェータバネー、アナータピンディカッサ、アーラーメー・・・」

この経典は、冒頭、容色麗しい神様がお出ましになって、お釈迦様に「多くの神々や人々は幸せを望みつつ、吉祥について考えてきました、最上の吉祥を説き給え」とお願いします。それに答えてお釈迦様が幸せとは何かについて述べていかれます。

吉祥とは、人に成功や繁栄、幸せをもたらすものであり、そのまま幸せと言い換えてもいいものです。

ところで、インドの古い慣習のひとつに、人の生き方として四住期(しじゆうき)という考え方があります。

まずはじめに、生まれてから親のもとで養育され、生きる術を学ぶ学生期(がくしようき)というのがあります。それから、結婚して家族を養い護る家住期(かじゆうき)、その次に、心の教えを学ぶ林住期(りんじゆうき)、さらに、諸国を修行するために遍歴する遊行期(ゆぎようき)があります。

もちろん今日のインドでは、そのようにきっちりと住み替えて年を重ねていく人はめったにいないと言いますが、インドの人々の人生の捉え方として今も大切にされているものです。

この吉祥経を読んでいくにあたり、人生をこうした四つの時期に分けるインド人の考え方に則って、内容を四つに分けて見ていこうと思います。

ではまず学生期から見ていきましょう。人として生きる力を蓄える時期の幸せについてです。

①愚かな人に近づかず、賢い人に親しむ。尊敬供養するに値する人を尊敬する。これは最上の吉祥である。
②適当なところに住み、先になされた功徳があり、正しい誓願を起こしている。これは最上の吉祥である。
③多くの見聞、技術、道徳を身につけて、きれいな言葉を語る。これは最上の吉祥である。

生きるために必要なものを蓄えることがここでの要点です。

人は人に学んでいくものです。と、スリランカのお坊さんに教えていただいたことがあります。南方の仏教では、今も目上のお坊さんには投地礼を三度して挨拶する習慣があるのですが、そうして尊敬する心があってはじめて、その方から様々な教えを授かることが出来るのだということです。

ですから、どのような人を参考にし、尊敬して生きるかは、私たちにとってとても大切なことです。学も財もあるけれど、人の道に外れた人を手本にしていてはいけないのです。

この場合の賢い人とは、単に多くの事を知り語る人ではなく、心安らかで人に恨まれたり憎んだりということのない、行いの清らかな人を指しています。特にその人の業績でなしに、そこに至る間に培った人格や考え方を尊敬すべきではないでしょうか。

そうした人たちを手本にして生きるのに相応しい場所に住まい、そして、善い行いの功徳を積むことを心がけ、それによってさらに正しい生き方に心を向けていくことが大切だということです。

そして、単に知識や学歴ではなく、より実用的な見聞や技術を身につけるべきであることはもとより、人として生きるための道徳やきれいな言葉も大切な要素です。

特に今の日本では重視されませんが、相手を尊重したきれいな言葉遣いは、社会の中で自らが大切にされるためにも、とても大事なことです。また、道徳をわきまえていなくては、せっかく学んだ学問知識も正しく役立たないことは言うまでもありません。

次に、家住期です。結婚し家庭を持ち、家族、社会を養う時期です。

④父母を養い、妻子を愛し護る。混乱なき仕事をする。これは最上の吉祥である。
⑤施しと、法にかなう行い、親族を愛し護る。非難されない行いをする。これは最上の吉祥である。
⑥悪い行いをつつしみ離れ、酒類を飲むのを抑制し、徳行の実践を怠けないこと。これは最上の吉祥である。

結婚し、家族、親族そして地域社会をも導いていく存在としての役割を担う時期です。

これらのごく当然とも取れるものをクリアして初めて何の後ろめたさもない、誰からも非難されることのない幸せを享受できるということです。混乱なき仕事とは今様にはストレスの少ない仕事と言い換えれば分かりやすいでしょう。

また、法にかなう行いとは、より多くの者に利益がもたらされるように行うことです。欲や怒りにより、他を害するような行いをつつしみ、他の者と分かち合い共に幸せを感じられるよう行うことが肝要なことです。

これに対し、自分の幸せだけを求めるばかりに悪いことをしでかすことは、今の社会問題でもあります。何でも出来る立場にあるこの時期、悪い行いをつつしむことは憂いや後悔を残すことなく幸せになるために不可欠なことと言えます、

お金がたくさんあっても何かむなしさが残るのを多くの人が感じ、ボランティアに励む姿も見受けられます。徳のある善行が心豊かな幸せを感じさせてくれることは言うまでもありません。

そして、林住期、仕事を次第に退きつつ、功徳を積み心の教えを学ぶ時期です。

⑦尊敬と謙遜と、知足と知恩。ときどき、覚れる人の教えを聞くこと。これは最上の吉祥である。
⑧忍耐、忠告を率直に聞く、出家者に会う。ときどき、覚れる人の教えについて話をする。これは最上の吉祥である。

社会生活を営みつつも徐々に一線を退き、後継者に道を譲り、世の中を冷静に眺め心を養っていく時期です。
自分の実績や経歴を誇り高慢になりがちですが、他者を尊敬したり謙遜する徳を身につけることでより深い幸せを感じます。こうした豊かな心を育むためにも足ることを知り、これまでに受けた恩を忘れず、また欲得を超えた心の教えについて学ぶことも大切なことです。

また、人の言うことに耳を傾けたり、世の中を超越した人の教えに学ぶこと、自分の経験や技術、時間などを生きとし生けるものの為に生かすことで、より一層の幸せを感じられるようになります。・・・つづく


〇当山中興快範上人書       
『國分寺中興基録』 を読む⑧
 

『國分寺中興基録』快範書(五百籏頭(いおきべ)孝行氏解読)

「一、弐匁五分     同村   久三郎
 一、弐匁五分     同村   甚六
 一、弐匁五分     同村 浅岡佐助
 一、弐匁五分     同村 浅岡吉右衛門
 一、弐匁五分     同村 矢野才兵衛
 一、壱匁       同村 五郎右衛門
 一、壱匁       同村 弥次兵衛
 一、壱匁       同村 十太郎
 一、壱匁       同村 弥兵衛
 一、壱匁       同村 左兵衛
 一、弐匁       川北村 五郎三郎
 一、五匁       川北村庄や 川相伝六
 一、拾匁       同村戸田や 弥助
 一、壱匁       平野村 瀬兵衛母儀
 一、弐匁       福山府中町 すたや 長左衛門
 一、五匁       湯野村 徳永与三郎
 一、四匁       同村庄屋 石田弥四郎 
 一、弐匁       同村 徳永善兵衛
 一、五匁       徳田村砂原 徳永徳右衛門
 一、四匁       同村庄屋 徳永与惣兵衛
 一、弐匁       川北村 安左衞門
 一、弐匁五分     平野村 半右衛門
 一、弐匁       湯野村与頭 吉左衞門
 一、四匁       川北村 七右衛門
 一、弐匁       川南村 林久右衛門
〆 三拾弐人  出銀 百五匁

 一、四拾六匁     畳拾帖は自分より調
 一、九拾壱匁     大手板戸拾間自分調
   但 丑の年雨乞代日指不違雨ふり御ふせ下され候て
其の礼にて戸調
 一、打キン(打金(うちがね)) 指渡九寸代銀弐拾め(目)八分 自身
 一、物器(仏器?) 大小三ツ             同断
 一、十二燈油臺(台)二ツ    矢かけ大かなや
                 高草六郎右衛門房近
 一、五ゝ三御膳同小道具         自身 
   (五五三御膳)

 右は本堂寺造立相調候次第 寄進物書付 件(くだん)の如し
 干時(ときに) 元禄第十二己卯(つちのとう)暦 国分寺住僧春秋六拾一歳
(一六九九年)            快範
    三月十九日 是を記す者なり」

『本尊并諸尊造立仕様好(影向(ようごう)・神仏の仮)目録』
 一、本尊薬師如来の御姿
御長弐尺五寸座像春日様の古佛造り
薬壺(やつこ)御手の内に相応にして木眼同白がふ(白毫(びやくごう))てり(照り)水昌にして羅ほつ(螺髪)成程(なるたけ、できるだけ)にうわ(柔和)に数表両脇に十二なり
 一、御光輪光上はく(箔)
かう(光)八屋(はちや)う(八葉の蓮華)鏡上白み八寸りん(輪)にこんしよう(紺青色)を入れ雲をあいしらひ(あえしらう(取り合わせる、付け合わせる))
 一、大佛座上々はく
   蓮花花の高六寸横五寸にして八屋う(はちやう)に付け花まき成程にうわにかえして敷なすび(敷茄子(しきなす)・蓮華台の下の鼓型の台)にこんしやうを入所々に金へう(鋲(びよう))を打て台は赤染金具あつみ付け 
 一、脇立二菩薩
御長壱尺七寸同作やう(つくり様)てんぐわんかざり(天眼飾り)あつみ打ちぬき両に日の玉月の玉赤白にして屋(や)うらく(瓔珞(ようらく)・ネックレス)の玉しげくてんえ(天衣・細長くて薄い布を巻き付けている)巻付けにしてくぎなしきやうぜちは御腰より下へ玉ふさあまる程にして玉多く中に青赤をまして御持物(じもつ)日月の輪累年に及てもぬけざる様にしてくぎは何(いずれ)もかなもの(金物)也                                            つづく


【國分寺通信】 

◯國分寺から六百メートルほど東に愛宕山華曼院法道寺という天台宗寺院がありました。後深草院の御代に右大臣となられた三条藤原法道公により宝治二年に開基造営。本尊は釈迦如来並びに不動明王と「御野村(みのそん)郷土史」にあります。明治の廃仏に遭い廃寺となりますが、昭和三十年ころまでは藁葺(わらぶき)の庫裡(くり)が残っていたそうです。その後ご縁をいただき、御本尊とその他諸仏は昭和32年より國分寺本堂西側の壇上にてお祀りしてまいりました。釈迦如来像並びに厨子の傷み激しく、将来にわたり末永く継承し供養し続けていく為には保存修理が欠かせないと判断し、この度ご像の解体修理並びに厨子の新調をさせていただきました。解体に際し表面の洗浄をしたところ潤み朱色の下地に金の線と箔の跡が現れたことから、左下写真のような開基当初のお姿に復元されております。誠に端正なお顔立ちの神々(こうごう)しくなられたお釈迦様に是非お参り下さいますようご案内申し上げます。


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