住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

わかりやすい仏教史⑦ー中国仏教の最盛期とその後 2

2007年08月12日 17時02分09秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
密教の興隆

七〇五年、武后が病床につくと、中宗が復位して唐を復興。その後も女禍が続くものの睿宗の子玄宗(在位七一二ー七五六)が即位すると官僚機構を整理して乱れた政治を建て直し、武后時代に増えた税金逃れの僧尼一万二千人を還俗させました。

玄宗のとき、すでに八十歳になっていたインド僧善無畏(六三七ー七三五)が密教経典を携え陸路長安に来て、インド伝来の密教が伝えられ[真言宗]が誕生しました。善無畏は玄宗の信任を受け、「大衍暦」を作った数学、天文、暦法の達人一行を弟子として大日経を翻訳。

また南インド出身の金剛智は、ナーランダーで諸学を学んだ後密教を授かり、海路長安に来て玄宗の侍僧となりました。密教宣布のかたわら金剛頂経など多くの密教経典や儀軌を漢訳し、インドで盛んになるのとほぼ同時期に中国でも密教が興隆していきました。

西域またはスリランカ出身と言われる不空(七〇五ー七七四)は、金剛智から中国内で密教を授かり、師の死後インドやスリランカに行き最新の密教経典をもたらしました。不空は宮中に迎えられ、内道場において玄宗に灌頂を授け、また一方、一一〇部一四三巻の経論を翻訳し、羅什や玄奘などと並び四大翻訳家の一人として名をとどめています。

七五五年安史の乱がおこり、玄宗が蜀へ逃れている間、不空は長安にとどまり、密かに唐朝復帰の運動をなしたと言われています。長安回復後は朝廷の不空帰依は頂点に達し、その後の粛宗、代宗も不空を師とし、三代の国師として大広智三蔵の号を賜りました。漢胡、文武、僧俗に多くの弟子があった不空は、中国仏教史上最も宮廷に勢威をはったと言われています。

会昌の仏教弾圧

代宗の時代は戦乱で荒らされた長安に再び豪奢な貴族の生活が復活しました。しかし北のウイグル南のチベットなど周辺からの侵入掠奪にさらされ、また徳宗の時には辺地の軍団長である節度使がのさばり、中央では宦官による横暴がはびこっていました。

そうした中で、道教の熱心な信者であった武宗は八四二年廃仏を断行し、犯罪を犯したり戒律を守らず還俗させられた僧尼が二六万人余り、寺院も官寺四千六百、私寺四万余寺がことごとく廃止されました。

財政難を抱える朝廷は寺院の荘園を没収して転落農民を生み出し、人民のよりどころを奪い、唐朝崩壊に拍車がかかっていきました。

この廃仏によって、隋唐時代に隆盛を極めた三論、天台、法相、華厳、真言の各
派どれもが朝廷の帰依を受け経済的援助によって興隆してきたが為に、瞬く間に衰退していきました。しかし、民衆のための宗教として重要な役割を果たしつつあった浄土教と山野にあって自活生活をする禅宗はその後も発展を続けていきました。

浄土教と禅宗

阿弥陀仏を礼拝し念仏する[浄土教]の教えは、中国では一つの宗派として独立したものとはなりませんでしたが、様々な宗に属する人々が盛んに阿弥陀浄土を信仰していたと言われています。

三論宗系の人、曇鸞(四七六ー五四二)は、心に阿弥陀浄土を観想するといった観念の念仏から名号を唱える口称の念仏を確立し、また善導(六一三ー六八一)は阿弥陀仏の慈悲の力により凡夫の救済があるとして、日本の浄土宗にも大きな影響を与えました。

[禅宗]は、他の宗派がどれも、より所とする経典なり論書をもって宗旨をたてるのに対して、心を以て心に印する教外別伝としてそれらを用いず、五二〇年頃海路中国に至ったとされる菩提達摩がインドから伝えたとしています。

仏教の教理も含め一切の分別を捨てて、ただひたすらに坐禅し本来の淨らかな自己の本性を直感的に自覚しようとするところに特徴があります。また食事作法や作務など生活全般に重きを置くこともよく知られており、中国人が生んだ最も中国的仏教と言われています。

唐以後の中国仏教

唐代以後の中国仏教は、その後大きな発展もなく今日を迎えています。その教義や実践に関する基礎が唐代までに完成されていたからとも、仏教が中国化し深く民衆の生活に浸透して生活の中にとけ込んでしまったからであるとも言われています。

宋代(九六〇ー一一二六)には禅宗が広く行われ、曹洞宗、臨済宗など五家七宗へと分派発展していきました。また浄土教は深く民衆に浸透し、禅などの諸宗とともに行われ、禅浄双修が説かれました。

宋の太祖は、九七一年大蔵経の出版事業を起こし、十二年を費やして五千巻あまりの大蔵経を出版しました。仏典の印刷はすでに唐代にも行われましたが、一切経が印刷されるのは初めての試みであり、世界印刷文化史上稀有の大事業でもありました。

その後の大きな変化としては、元朝(一二六一ー一三六八)において、蒙古地方に伝わっていたチベット仏教が宮廷に迎えられ、大きな勢力を得たことがあげられます。チベット版大蔵経が蒙古語に翻訳されるなど、チベット密教系の仏教研究も盛んでした。

明朝(一三六八ー一六六二)は、仏教を保護する一方で、民衆を扇動し宗教一揆を起こす半僧半俗の念仏結社などを厳しく取り締まりました。そのため旧仏教が復興し、天台、華厳、浄土などと融合した禅宗が盛んでした。

民衆にあっては観音信仰、念仏会、放生会、受戒会、菜食の実践などが盛んに行われ、仏教信仰は民間信仰とも習合しながら現世利益をかなえるものとして民衆の生活と密着したものとなりました。

その後、清朝(一六一六ー一九一二)もチベット仏教を崇拝しましたが、雍正帝が念仏を提唱したため、その後の中国仏教は宗派を問わず念仏を基本とするに至りました。また後に、仏教教団を社会から遊離する政策が採られ、在家者を中心とする居士仏教が盛んになりました。そして清末には太平天国の乱が起こり、寺院財産は没収、仏書も失われ、仏教は衰退していきました。

現代の中国仏教

一九一二年中華民国建国後も、仏寺圧迫が衰えなかったため、仏教界は一致団結して寺産保護仏教復興に乗り出しました。その後、総合仏教を唱える太虚らは仏教界を改革、各種仏教学校の創設、仏教雑誌の刊行、また社会事業を行うなど仏教の近代化が進められました。

戦後一九四九年、中華人民共和国が生まれると、伝統宗教に抑圧が加えられ、一九六六年には文化大革命によって寺院は傷つき、仏像は破壊されました。しかし一九八〇年頃からは急速な修復復興がなされ、信教の自由が憲法で認められるにいたり、今日の中国仏教は国家の政策に奉仕し人民のために幸福を願うものとして息を吹き返しつつあります。

一方台湾では、様々な民間信仰と混淆した観音信仰、念仏などが盛んではありますが、大陸から移った僧尼により中国仏教の伝統が伝えられています。

今日では飛躍的経済成長により経済的豊かさを獲得し、純粋な仏教を求め、また社会貢献の一手段として出家する人々が増加しています。また戒を受け真摯に仏教を学び実践する多くの在家信者が存在し、二千年の伝統を誇る中国仏教の面目を今に伝えています。 

(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へ

日記@BlogRanking
コメント (3)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ちょっといい話 | トップ | 人生とは »
最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
中国の仏教 (高田)
2007-09-06 16:34:16
中国の仏教、興味深いです。
日本では天部の神様(大黒さまや弁才天さま)の信仰が生活に溶け込んでいますが中国では大黒様や弁才天さまはかなり信仰されているんでしょうか?
返信する
高田様へ (全雄)
2007-09-07 20:16:18
どうもいつもお世話になっています。ようこそお越し下さいました。

そうですね、中国の仏教といっても、実際には行ったこともないのでよく分からないというのが正直なところです。日本ではお不動さんが人気があったりしますが、中国などは人気が無く、かなりの違いはあるようです。

投稿文にもあるように阿弥陀様信仰に特化したところがありますが、それぞれの天部の仏さんたちも祀られてはいると思います。ただ信仰がどうかと言うことになると、たぶん日本ほどの人気はないように思います。

あやふやな回答で申し訳ありません。また気がつくことがありましたら、お知らせいたします。

返信する
お返事ありがとうございました (高田)
2007-09-08 12:39:03
そうでしたか・・・
参考にしてみます!お返事ありがとうございました!
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など」カテゴリの最新記事