ある知り合いの息子様が若くして亡くなられた。ガンで二年ほど入退院を繰り返された後に手厚い看護にもかかわらず亡くなってしまった。親御さんの気持ちを思えばいたたまれない悲しみに包まれていることが推察されよう。自分の産んだ息子、たよりにしていた息子が亡くなった、言いようのない喪失感は癒やしようのないものであろう。
離婚をし、家も失い、実家に帰り、子供たちこそ大きくなってそれぞれ所帯を持っているから心配は無いものの、やはり、闘病生活にもいろいろと気遣いが必要だったようでもあるし、亡くなって葬儀を行い、さらにその後の中陰開けまでも、いろいろと気苦労を重ねられ、老親二人は疲れ果ててしまったようでもあった。
たびたび老夫婦は訪ねてこられてはいろいろな話をして帰られる。既にひと月、ふた月たつが、未だになぜ死んだのか。どうして私たちより先に亡くなってしまったのか。心の整理がつかないのも無理は無いことであると思う。誰しもがそのような場面に遭遇すれば、何か自分たちを責めてみたり、小さな頃からの記憶をたよりに様々な場面での一コマ一コマのやりとりに間違いはなかったのかと思いが募り、悪い方向にと心が迷い出すこともよくあることであろう。みんな自分たちが悪かったのかといたたまれない思いに心沈むこともあるかもしれない。
身近な人が亡くなると、私たちは、どうしても、私の息子が、私の母が亡くなったと考えてしまうであろう。自分との関係の中にあるその人が亡くなったとしか捉えられなくなってしまう。だから、自分が悲しく、失われたことにしか目が行かなくなる。しかし、一人の人、一人の人生が終わった、完結したのだと無理にでも思うべきではないかと思う。
この世に自分たちを縁として生まれてきた一人の人が、いろいろな経験、人生を歩み、様々な楽しみ、喜び、しあわせ、ときに悲しみや寂しさを経験して立派に人生を閉じた。たとえ短い人生であったとしても、その人にとっての定めとして寿命は皆違うのだと考えて、その人なりの、その人にとっての精一杯の人生を生きられたのだと思ってあげてはいかがであろうか。なぜなら、一番悲しいのは亡くなられて、沢山の人たちと一度に別れていかざるを得ない本人なのだから。
「独来独去」という言葉がある。このお寺の客間にその書額が掛けられていたことがあった。人はみんな一人生まれ来たり、一人死に去っていくということだ。生きとし生けるものにとっての掟であろう。みんなそれぞれに自分自身の人生を生きている。様々な業を背負い、様々な才能、性質、好き嫌いのもとに自分だけの尊い命を生きている。周りの人たち、残された人たちはそのことを大切にしてあげるべきなのではないか。
残された私たちは、よく頑張ったね、立派に生きたね、いい人生だったねと祝福こそしてあげるべきなのではないかと思う。悲しんでばかり、悔いてみたり、自分本位に何で死んだのだと考えることは亡くなった人にとって余りにも酷なことに思える。であるから、縁あって生まれ変わっていく世界では、もっとしあわせに、後悔のないように、もっと思う存分に生きて下さい。そう、いつも思い願ってあげたらいかがかであろうかと思うのである。
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離婚をし、家も失い、実家に帰り、子供たちこそ大きくなってそれぞれ所帯を持っているから心配は無いものの、やはり、闘病生活にもいろいろと気遣いが必要だったようでもあるし、亡くなって葬儀を行い、さらにその後の中陰開けまでも、いろいろと気苦労を重ねられ、老親二人は疲れ果ててしまったようでもあった。
たびたび老夫婦は訪ねてこられてはいろいろな話をして帰られる。既にひと月、ふた月たつが、未だになぜ死んだのか。どうして私たちより先に亡くなってしまったのか。心の整理がつかないのも無理は無いことであると思う。誰しもがそのような場面に遭遇すれば、何か自分たちを責めてみたり、小さな頃からの記憶をたよりに様々な場面での一コマ一コマのやりとりに間違いはなかったのかと思いが募り、悪い方向にと心が迷い出すこともよくあることであろう。みんな自分たちが悪かったのかといたたまれない思いに心沈むこともあるかもしれない。
身近な人が亡くなると、私たちは、どうしても、私の息子が、私の母が亡くなったと考えてしまうであろう。自分との関係の中にあるその人が亡くなったとしか捉えられなくなってしまう。だから、自分が悲しく、失われたことにしか目が行かなくなる。しかし、一人の人、一人の人生が終わった、完結したのだと無理にでも思うべきではないかと思う。
この世に自分たちを縁として生まれてきた一人の人が、いろいろな経験、人生を歩み、様々な楽しみ、喜び、しあわせ、ときに悲しみや寂しさを経験して立派に人生を閉じた。たとえ短い人生であったとしても、その人にとっての定めとして寿命は皆違うのだと考えて、その人なりの、その人にとっての精一杯の人生を生きられたのだと思ってあげてはいかがであろうか。なぜなら、一番悲しいのは亡くなられて、沢山の人たちと一度に別れていかざるを得ない本人なのだから。
「独来独去」という言葉がある。このお寺の客間にその書額が掛けられていたことがあった。人はみんな一人生まれ来たり、一人死に去っていくということだ。生きとし生けるものにとっての掟であろう。みんなそれぞれに自分自身の人生を生きている。様々な業を背負い、様々な才能、性質、好き嫌いのもとに自分だけの尊い命を生きている。周りの人たち、残された人たちはそのことを大切にしてあげるべきなのではないか。
残された私たちは、よく頑張ったね、立派に生きたね、いい人生だったねと祝福こそしてあげるべきなのではないかと思う。悲しんでばかり、悔いてみたり、自分本位に何で死んだのだと考えることは亡くなった人にとって余りにも酷なことに思える。であるから、縁あって生まれ変わっていく世界では、もっとしあわせに、後悔のないように、もっと思う存分に生きて下さい。そう、いつも思い願ってあげたらいかがかであろうかと思うのである。
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家族のことはよくわかっているだけに、かえって相談したり本当ことを言えないということがあるでしょう。香奈子さんの場合だけではなく核家族になりそれぞれが家庭を抱えていて忙しくしていたら余計にそうなるのは当然です。
同じような病を抱えている人たちとの交流を通じていろいろな相談をなさってみてはいかがでしょうか。
自分を責めてみても仕方ありません。ご自分の人生にとって、この時間がいろいろなことを学び功徳を積む時間なのだと思えるようになられるとよいと思うのですが。
ですが、あまり頑張りすぎず、できることにも限界がありますからご自分の時間も大切になさってください。
こういうときののこされた人の気持ちのこと、なんかの本で。
ご老親のひとしきり悲しみの時を抱えられたのち、ご住職さまの支えのご恩に、本心から気づかれ有り難く感じられたそのあかつきには、きっと。ご住職さまのお諭しに頷かれましょう。その日のやがて来ることをお祈り申し上げます。