住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

最高の尊格になれると教える仏教の教え

2009年03月05日 19時00分52秒 | 仏教に関する様々なお話
昨年は、確か私たちは仏教徒なんですが、皆さんそういう意識がありますか、とお尋ねして、仏教徒とは何か、皆さんの家の仏壇とはどんなものかなどという話しをしたように記憶しています。憶えておいでですか。で、この一年間、今年のこの法要あとの法話にどんな話をしようかと一年間かけて思案に思案を重ねて参りました。

それで、6年前にも仏教とは何かなどという話しをしましたが、仏教というのは学べば学ぶほど、そのすばらしさを感じずにはいられないものです。その第一とは何かというと、他の宗教と言われるものと絶対的に異なることがあるということに最近気づきました。

それは、何かというと、他の宗教では、絶対に神様でも何でも、その宗教が絶対的に上位にある尊格と同じになれるとは説いていないですね。ですが、仏教は、お釈迦様は自分と同じ境地を悟ればみんな阿羅漢ですよ、阿羅漢になれば私と何も変わりませんと言われています。そして、惜しみなくその教えをすべて隠すことなく教えられています。

もちろんその境地は、お釈迦様の教えを自ら忠実に歩んだ人だけが到達できるいわゆる最高の悟りですから、そんなに誰でもなれる訳ではない。ですが、お釈迦様の時代には結構沢山の人たちが阿羅漢になっている。私たちと同じこの世に生を受けた人が他の宗教で言えば神の位に到達できるということになりますが、そんなことを教えてくれる宗教はありません。みんな崇めなさい、信仰しなさいとしか教えてくれない。そこが仏教の一番凄いところではないかと思うのです。

もちろん今の時代にもそういう高みに向けて森の中で修行に励んでおられる人たち、修行者たちは大勢います。ですが、私たちは、そこまで出来ませんけれども、何回も生まれ変わりしながら徳を積んでそこに至ることが出来ようじゃないかというのが仏教の教えであって、その教えを生きる人々が仏教徒ということになります。

難しい話しをしてもきりがありませんから、じゃ悟りとは何かと言えば、最高の幸せということになります。皆さんだれでも幸せになりたい。ならば最高のものを最終目標にして、目の前の日々をどう生きていくかということを教えるのが仏教です。

なんだ仏教というのは供養の為じゃないのか、今日の法会も、法事もみんな供養の為じゃないかと言われるかもしれませんが、供養になるためには、お唱えするお経に功徳がなくてはいけない訳ですね。その功徳とは、そのお経を聞き、行じる事で、多くの人が幸せになる幸福に導かれる、だから功徳がある。功徳のあるお経を唱えるから、亡くなった人に回向できるということになる訳なのです。

それでは幸せになるために仏教では何を教えているのかと言えば、それは私たちの一番身近な勤行次第にすべて書いてあるのです。勤行ですから、まずは日々勤め励むことが必要だということですね。私たちどうしても怠ける習性があります。ですが、すべてのことが因果の世の中です。

良いことをすれば報われる、悪いことしていればダメになるというのが世の中ですから、勤め励む。精進という言葉も仏教語です。なんとか怠けたくても頑張っていこう、そこに必ず結果がついてくるはずだ、それには人種も肌の色も生まれも男も女もない、全くの平等な世界なんだということです。

で、次第に入りますと、まず礼拝ということがあります。何を礼拝するかと言えば、仏さまです。仏教を説いて下さった方ですね。礼拝というのは、敬う気持ちを表すことです。この敬う気持ちというのがあって、初めて私たちは何事かを学ぶことが出来る。学校の先生にも敬う気持ちを持たないから、今の子供たちは何も学ぶことが出来ないとも言うことができます。大切なことだと思います。

礼拝文を唱えるとき、自然と頭が垂れるというのが本来でしょう。自分の読んでいるものが自分自身の行となっているかどうかが分かります。勤行次第は自分自身のために読むのです。亡くなった人のためではない。自分の行いとして善行であるから、功徳となり、供養にもなる。自分の行いは自分にかえってくるというのが仏教の教えです。

それから、懺悔。これは、日頃の生活を反省するわけですけど、普通私たちの何かするときの判断の基準は、因果道理というよりも、それを無視して損か得か、好き嫌いで決めていることが多いわけです。それが、つまり貪瞋痴。三毒とも言いますが、私たちの心も身体も社会生活も破壊する毒だというわけです。そういう日頃の心をまずは反省する。

その上で三帰三境。仏法僧の三宝に帰依する。皆さんにとって仏法僧とは何でしょうか。仏は、仏さま、私たちの究極の目標である悟りを得られた人ですから、私たちの人生の理想とでも言うべきものです。法とは、その理想を実現するための道筋、マニュアル、僧とは、教えを伝え行じる出家の集団を言うのですが、私たちも仏教の流れの中にあるとすると、共に教え励む人たちということになります。

これらに帰依するというのは、仏教徒の条件でもあり、このことによって、私たちの生きる方針が明確になったと言うことでもあるのです。おかしなものに洗脳されず、理路整然と客観的に物事を見ていく、その因果の法則を見つつ生きるということです。

それから十善戒。戒律と言うよりも、善行為を勧めるものです。一つ一つの意味は申しませんが、そこに私たちの人生にとって大切なものがすべて表現されていると考えて、吟味してくださるとよいと思います。いのち、もの、社会、信頼、品格、慈悲、理性などでしょうか。

そして、発菩提心。これは、真言を唱えて、菩提つまり悟りを求めますと仏さまに宣言するものです。私は悟りを求めます。それを人生の目的にしますと仏さまに向かって宣誓するという意味合いがあるものですから、とても意味が強い。あまり皆さんそんなことを考えずに気楽に唱えていることでしょうが。

だから次に三昧耶戒。われは仏と一体なりと来るわけです。決して、到達できないものとしてではなく、つまり他の宗教のようにただ崇めるものとして崇拝するだけの存在ではない仏というものを自分の中できちんと意識して生活するということです。

それから般若心経を読み、十三仏の真言を唱えます。心経は、智慧の完成を説く経典ではありますが、それは舎利弗尊者に対して説いたものです。阿羅漢として最高の悟りを得られたお釈迦様の代わりに説法されたほどの方に対してのものですから、いろいろ不都合があります。

空を体得するために、五蘊、十二支十八界、十二因縁、四聖諦、などをことごとく否定していきます。しかしそれらはとても本当は大切な仏教の教えの根幹です。ですから、阿羅漢ではない私たちはそのことを学ぶ必要があるのですが、その話をし出すと終わらなくなりますから、大切な仏教の教えを記憶にとどめるためにも意味あるお経とだけ申しておきましょう。

それから十三仏の真言、光明真言など諸真言を唱えますが、これらは、インドの言葉そのままをお唱えして、それらの仏の徳に随喜して功徳を得る。祈願して回向もしますが、それはあくまでも、唱える人自らにとってプラスになることがたくさんあるからであって、それは意識するしないにかかわらずある。仏道を読むままに受け入れ学び行ずることになるのです。

仏教は平等や慈悲、寛容の教えです。だれでもが頑張れば幸せになれる、生きとし生けるものすべてがよくあるようにと考える教えです。こう申しますとこの厳しい経済社会では役に立たないと言う人もいます。

哲学思弁ではなく、食うか食われるか利潤を優先して他を圧倒するべき力学を説く宗教の方が今の時代に適しているかの如く言われてきました。それによって物質的な繁栄をもたらし豊かな生活を享受している私たちではありますが、しかし、だからこそ、今環境問題が叫ばれ、金融危機で世界的な大不況に陥っているのではないでしょうか。

仏教の説く経済はエスキモーの狩猟生活のようなものなのかもしれません。多く蓄えることなく自然界の生き物を大切に育みながら必要なものだけを頂戴する経済です。なるべく自然にかなう搾取よりは共生、競争よりは共存、瀟洒よりは清楚を求める。

何のおもしろみもないものなのかもしれませんが、それが本当は未来永劫私たちの生きる世界を大切に優先して半永久的に繁栄可能な社会なのではないかと思います。生まれ変わり生まれ変わりして私たちが悟りに到達するまでこの人間社会がずっと存続するためには未来永劫繁栄可能な仏教経済こそが必要なのだと言えそうです。

(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村
コメント (14)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 第六回日本の古寺めぐりシリ... | トップ | 華蔵寺に参って »
最新の画像もっと見る

14 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
般若心経が否定しなかったもの (naagita)
2009-03-06 02:59:37
いつも熱意のこもった論説を拝読しております。法恩に感謝いたします。

今回のエントリでも触れられている通り、初期仏教の立場から読むと『般若心経』には、様々な問題点があります。

しかし、最近ふと、般若心経が否定しなかったものは何か?ということを考えてみたのです。すると、あることに気づきました。

無・無・無とむやみやたらに否定し続ける般若心経も、釈尊の遺された修行法である三十七道品(三十七菩提分法)だけは否定しなかった、ということです。すなわち、四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八正道は否定されていないのです。

『大般涅槃経』(パーリ)で釈尊が如来の入滅を宣言したとき、

「比丘たちよ、これらが私のよく知り、説いてきた法です。そなたたちは、それらをよく学び、その梵行が長時にわたり永続するように、それが多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世界への憐みのために、人・天の繁栄のために、利益のために、幸福のためになるように、親しみ、修し、何度も行わなければなりません」

として釈尊が挙げた項目が、四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八正道です。般若心経の作者も、さすがに釈尊の遺訓を否定することはしなかったのでしょうか。

それだけではないと思います。般若経典群の作者であった学僧たちも、実践していたのは四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八正道だったのです。

『大品般若経』とその注釈である『大智度論』においても、よく読むと≪般若波羅蜜とは即ち三十七道品の実践≫とされています。修行法の具体的な説明も初期経典とほぼ同じものです。言葉だけ借りて全く違うことを説いているわけではありません。

大品般若経の魔事品では、人々が大乗経典を捨てて、初期経典を尊ぶことを「悪魔のしわざ」と警告しますが、般若経においても初期経典においても、修行道は同じ三十七道品であるのに、なぜ初期経典を読むべきではないのか、という疑問には説得力のある答えを出せていません。(結局、「菩薩道」という心意気の問題に還元されています。)

初期経典に説かれる修行道は三十七道品であり、般若経典群に説かれる修行道である般若波羅蜜も結局は三十七道品以外のなにものでもありません。行相においては、大乗もテーラワーダも、同じことを実践するしかなくなるのです。

そうすると、三十七道品(四念処など)の実践に励む人々はすべて、釈尊の遺訓(大般涅槃経に説かれた訓戒)に従う仏弟子であるとみなすこともできます。

以上のように教相判釈ならぬ「行相判釈」で経典を分析していくと、不毛な教理論争を乗り越えた通仏教的な仏教理解の足がかりが成り立つかもしれない、という気がしはじめているところです。

全雄師の論説に触発されて長文となってしまいました。今後ともよろしくお願いいたします。
返信する
真夜中に (全雄)
2009-03-06 08:16:22
真夜中にも研鑽なされているお姿に敬服いたします。

『大智度論』少し参照しました。内容豊富なことに加え、初期仏教の修道に関し懇切丁寧な解説をされていることを知りました。日本には初期仏教の修行法が伝わっていなかったのではなく、それを評価してこなかった。

すばらしい教えも、その宝庫を開き価値を見出す人、さらにはそれを実践する人がいなければ意味をなさないということではないでしょうか。

昭和の初期から40年頃まで一世を風靡した念写で有名な小原弘万さんの本を読みました。この方は心経を二百万遍も読誦して、サンスクリット語の心経をテレパシーで伝授され、インド人が驚くほどの正確な発音でそらで唱えたという人です。

しかしこの方に続く人は現れていません。何事も自らの行いに結果が現れる。行法があることを知っていてもそれを修さねば何もならないのだとつくづく感じています。それは初期仏教、大乗仏教関係なく通仏教的な現実でしょう。

おたより、ありがとうございました。
返信する
Unknown (ejnews)
2009-03-06 17:32:50
御元気ですか?此方も何とかやっています。この前のラジオの番組では全米の失業率は本当は16%位だろうと言う話をしていました。これからどうなるか一寸想像出来ませんねえ。
 処で、何時も良いお話をありがとうございます。私がアメリカで仏教と老荘思想について一寸だけ読み始めたのは、有名な元々イギリス人の仏教研究家(アランワッツ)の録音された講演の一部で
 『東南アジアへ行くと仏教徒たちは人と御辞儀をする時に両手を合わせて神様に祈る様に御辞儀を御互いにするのだが、彼等は人間一人一人の中に神聖な神性を見て御互いを尊敬し在っているのだ。つまり、人間は仏陀になれる要素を秘めている存在として御互いを見ているのだ。欧米の挨拶の様に手を広げ握手をし武器は持っていない事を証明する挨拶と比べると、宇宙の解釈の仕方がズット深い文化に彼等は住んでいるのだ。』
 と言う様な事を言っているのをラジオで聞いた事が一つの理由なのです。
 >仏教は、お釈迦様は自分と同じ境地を悟ればみんな阿羅漢ですよ、阿羅漢になれば私と何も変わりませんと言われています。そして、惜しみなくその教えをすべて隠すことなく教えられています。
を読んだ時、当時アランワッツの講演の録音をラジオで聞いた時『そうか!そーなんだよなー!』と思った事を思い出しました。
 老荘思想については、インドのお経が中国に入って来た時既に確立していた道教哲学の語彙を使って仏教の経典を翻訳し禅仏教に影響を与え、道教哲学と禅の精神は切り離せない物だと言う事を又ワッツさんが言っていたので読み始めたのですが、元々美術を学生の頃勉強した時も仏画の勉強でやはり同じ事を勉強していたのです。今の所、老荘思想は『竹林でお酒でも............』との言い訳に使う方が多い様にも思いますが.........
>仏教の説く経済はエスキモーの狩猟生活のようなものなのかもしれません。多く蓄えることなく自然界の生き物を大切に育みながら必要なものだけを頂戴する経済です。............
話は一寸変わりますがロシア人のアナキスト、ピーター(ピョートル)クロポツキンの著書を読まれた事在りますか?彼は『古代のアナキズムは老子に始まり...........』と書いているのですよ!彼の思想でも人間は競争ではなく“相互扶助”によって進歩発展して来た。と説明していて現在エスキモーやパプアニューギニアの様な原住民と呼ばれる社会から、新しい人間の共同体としての社会を創り出す方法を模索していたのです。
 彼の思想は非常に仏教的な精神に近い様に感じられるのです。勿論、彼の“相互扶助論”等は明治大正時代の日本人を魅了し色々な当時人々がアナキストだとされ帝国政府より死刑にされた高徳秋水の様な人も居た訳です。(彼も高知出身なのです。)やはり、真実の平等を説く人は支配層にとっては何時の時代でも脅威だと思われるみたいですね。
返信する
いつもどうも (全雄)
2009-03-07 19:07:09
毎度お越し下さり恐縮です。

そうですね、私も実は最近新興宗教について少し勉強していて気がついたことです。彼らは仏教を標榜していながら、実際には崇めることしか教えていない。しかし本筋の仏教ではそうではない。全く逆に崇めるなんてことはなかったのが本来です。そのことに気づいてこんな文章になったわけです。

道教は、世俗の庶民の思想だとある方の本で学びました。儒教は上部の人間の処世を述べた教えだと。だからアナキストに通じる。エスキモーについて言及したのは全くの偶然で、今の経済体制から次にもたらされるべき経済はこうあるべきではという思いで、たまたまエスキモーと書いたものです。

今日本は自ら国を変えられるかどうかの瀬戸際にあります。何かおかしいという思いを多くの人が共有するならば、脅威を取り締まることも出来ないはず。一人でも多くの人に覚醒を期待したいものです。

いつも刺激的なコメントをいただきありがとうございます。
返信する
道教について一寸 (ejnews)
2009-03-11 04:03:45
御元気ですか?此方も何とか生き残っています。
 道教の事についてですが、私の道教の理解は大学生の時の東洋美術史以外の知識はアメリカに来てからの物ですから日本での道教の捉え方と同じかどうか分かりませんがアメリカでは宗教の道教と老荘の哲学道教は別の物として捉えられているようです。宗教の道教は民間信仰から始まった物ですが、老荘の思想はDaojia 道家と呼ばれていて宗教はDaojiao 道と呼ばれているようです。ヤヤコシイくなったのは漢帝国時代に宗教の道教が老子が道教の始祖であると宣伝したからだと言われているようです。しかも哲学としても一つのムーブメントではなく道家と現在呼ばれている思想家達が時代を超えて影響しあっていると言う感じで儒家の様に一つの哲学系列として捉えるのも難しいようです。
 哲学道教の道家は自然を手本として思想の展開をしているので非常に柔軟で仏教が南中国に入ってきた時南中国の穏やかで豊穣な気候土地柄の影響もあったのか後に日本で発展した禅仏教に大きな影響を与えたと言う説明もあります。(禅問答は哲学道教の道家思想の仏教化だと言われているようです。日本で如何説明されているのか私には分かりませんが.............)
 兎に角、仏教の教えも歴史も読めば読むほど興味深い物だと思っています。
返信する
道教 (全雄)
2009-03-11 07:52:48
いろいろなことにお詳しいのですね。私は高校の倫理思想の自由研究の時に、たまたま荘子を選択しまして、少しかじった程度の知識しかありません。それもほとんど忘れてしまった。無為自然、心の計らいのない穏やかな視線といった印象です。

確かに、道観での祈祷、呪術というのはその雰囲気にそぐわない。言われるとおり、別の流れの物をある時期に思想的な裏づけを必要として哲学としての道教を採り入れたというのが自然なように私も感じます。

修験道が、やはり山の行者たちの行法、呪法に思想的な肉つけを加えるために仏教を採り入れたのに似ているのかと思います。

また、禅宗は、言われるように、不立文字、教外別伝というように、仏教的ではないと言われています。おそらく中国の伝統、つまり道教の発想の元に坐禅が採用されたのでしょう。

日本では神仏習合と言いますが、中国では、道仏、ないし、儒仏習合があったのだと思います。因みに、インドでの神仏習合の産物が、大乗仏教であったとも言えるのではないかと私は密かに思っています。
返信する
Unknownさま (全雄)
2009-03-13 07:50:48
お越し下さり、コメントまで残して下さって恐縮です。

たくさんの文章を書き、それに対して様々な方のコメントを頂いております。

読んで下さった皆様に押しつけがましく書いているつもりもありません。共感されないものもたくさんあるのだと思っております。

このブログは討論する場ではありません。ただ私の書いたものへその人なりのご意見や質問を受けているだけのものです。ご了承下さい。
返信する
みなさまへ (全雄)
2009-03-18 19:16:53
このブログは、仏教に関するとき折々の思いを綴っているものです。その内容に関するコメントは、あくまでもその文章に対するものとさせて下さい。

皆様から頂くコメントは長短関係なく主催者にとり、誠にありがたいものであると受け止めております。

なお、コメントをお書きになるかた同士の誹謗中傷はこのブログの趣旨にあいませんので、大変恐縮ながら削除させていただきます。ご了承下さい。
返信する
Unknown (Unknown)
2009-03-22 00:37:20
全雄さんよ。君のプログだから消そうがどうしようが勝手だが13日の君のコメントも消さないと読者は誰に対するコメントか分からないぞ。それと四国遍路行記18のコメントのやりとりも消さないとおかしいぞ。
返信する
Unknownさまへ (全雄)
2009-03-22 06:55:48
何度もお越し下さり恐縮です。

当ブログに関心がおありのようですが、出来ましたら、お名前、お立場などお書きの上、投稿記事内容に関するご意見ご質問をお書き下さいますよう、重ねてお願い申し上げます。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

仏教に関する様々なお話」カテゴリの最新記事