備後國分寺だより 第66号(令和6年1月1日発行)
七回忌の法事にて
極楽は極楽か
「お疲れさまでした。長いお経を聞いてくださり、また、ご一緒に『仏前勤行次第』を御唱和いただきご苦労様です。今日は七回忌ですから、こちらの塔婆に書いてありますように、七回忌の本尊様阿閦如来に沢山のお供えをし、読経供養を施し、その功徳を六年前に来世に赴かれている○○大姉に手向けるというのが今日の法事です。
こちらにあります塔婆には、上から梵字で「キャ・カ・ラ・ヴァ・ア」と書いてあるのですが、これはよく先祖墓に見られる五輪塔を表していまして、その意味は下から地水火風空となります。これはそれぞれに大をつけて、五大ともいわれるこの宇宙全体を構成する要素となるものです。
それぞれの意味は、地大は堅さを性質としてものを保持する働きを表し、水大は湿り気を性質としてものを収めとる働き、火大は暖かさを性質としてものを成熟させる働き、風大は動きを性質としてものを成長させる働き、空大は虚空のことでこの場合空間を意味しています。
これは、その成り立ちそのものである大日如来を表わしているものともいえ、五輪塔を建立することは、多くの人を幸せに導く仏教のシンボルとして、誠に功徳あるものです。そこで、法事にあたり薄い板ではありますが、その五輪を刻んであしらい、五輪塔を建立する功徳を今日の法事の○○大姉に手向けるために建立されるのです。 そして、塔婆には、その下に回忌の本尊様を象徴する梵字が書かれ、そのあとには「○○院○○○○大姉七回忌菩提の為也」とあります。
七回忌の菩提ですが、菩提とは覚りのことですから、七回忌の覚りというものが特別にあるのかというとそうではなく、この七回忌の法事に当たり前世の家族親族であった皆様の供養する功徳をいただかれ、さらに覚りに向かい一歩でも前進して心清らかにご精進くださいという意味となります。
あれ、そうなんですか、死後は極楽浄土に逝けるという宗旨もあるのにとお考えになられるかもしれません。
が、少しお考えいただきたいと思うのですが、この煩悩だらけの私たちの考える極楽と仏様のお考えの極楽とは随分と環境や居心地が違うのではないかと思うのです。ちょっと待ってください、コンビニに行ってきますというわけにはいかない世界です。仏様の世界に逝くというのはそのまま仏様を目の前に教えをいただき仏様のように過ごすことです。きらびやかな荘厳にとらわれがちですが、仏様の世界は禅定の世界です。
昔禅宗のお寺にご縁あってお世話になっていたことがあります。そこでは「接心(せつしん)」という、一週間一日に十時間以上座禅する坐禅会があり、三度ほど参加させてもらいました。
周りは禅宗のお寺さんばかりで、はじめはじっと座っているだけで緊張し、体中の筋という筋が突っ張りゆったりと座ることもできませんでした。そうした時に警策(けいさく)という棒で肩から背中にかけてパンパンパンと叩いてもらうと、スッと身体の緊張が解けて楽になったことを思い出します。
皆さんが突然そうした坐禅会に参加されたらどんな感じになられるでしょうか。私は高野山やインドに行った後にご縁をいただき参加させてもらったので多少の下地はあったのに、それでも大変でした。
さらに韓国の禅宗にはその坐禅会の期間が五十日に及ぶところがあるとか。またスリランカやミャンマーなどでは、期間を設けずに、横になって寝るのは一日二三時間だけで、あとはずっと坐禅瞑想ばかりしている森林派のお寺さんもあるとか。そんなところに突然放り込まれても、おそらく一週間と持たないと思います。
極楽とはそれよりもはるかに厳しい世界と思わなくてはいけないとすると、そこにいられるだけの心、つまり欲も怒りもない、何があってもなくても動揺しない心を作ってから行くべきではないかと思うのです。
インドの仏教徒たちは、また死後も人間に生まれ変わりたいと言います。もちろん今よりも裕福な家に生まれたいと。そのために沢山の功徳を積んでおきたいから、お寺に行きブッダを礼拝し、ドネーションしてお坊さんたちに食事を食べて修行してもらって功徳をたくさん積んでおきたいと思っています。
今日の法事の○○大姉もおそらくそんな厳しい世界ではなく、○○家の皆様同様の敬虔な仏教徒の家に生まれ変わり、そこでたくさんの功徳を積み、心を浄めて、一生でも早く仏様のような清らかな心を作ってくださるべく精進されているものと思います。
そのために皆さんも今日の法事において、たくさんの功徳を積まれ、来世におられる○○大姉に向けてその力となるべく功徳を回向されたということです。
この次は十三回忌、少し先になりますが、それまで仏壇から功徳をご回向してあげて欲しいと思います。本日は誠にご苦労様でした。」
○この法話を実際に聞いてくださった方々が、聞いていておそらく頭の中に?マークがついたのではないかと思われる点について、解説を補足してみたいと思います。
まずはじめに、「来世に赴かれている」という表現についてです。死んだら無に帰するとか、仏になるという表現もありますから、死後のことは心配いらないとお考えになる方もあるかもしれません。ですが、仏教は死とは体と心が分離することであるとされ、身体はこの世の借りものなのです。心が本人であると考えます。そして、すべてのことに原因ありとする教えです。この世に生まれ、こうして私たちが縁あり、この話を聞いてくださるのにも原因と縁があってのことです。
ですから、亡くなったら身体は荼毘(だび)に付されますが、心には様々な思いが残り、それが因となり、その心に相応しい来世に赴くと考えるのです。それを輪廻するというわけですが、間違いのない生涯であれば人間界以上の世界に、もしも暗い心で亡くなったりすると餓鬼の世界と、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界に生まれ変わる可能性があるとされるのです。
実はこの生まれ変わりに関する研究は学問的に古くからインドやスリランカで進められており、日本では東京の産婦人科医池川明さんが有名です。米国ではヴァージニア大学において一九六〇年代から専門に研究する超心理研究室がつくられ、世界ですでに二千件もの間違いのない生まれ変わりの事例が確認されているとか。学んでもいない行ったこともない地方の言葉を話し出す子供がいて、その地域に連れて行くと、ある家の家族の大人に自分の子供に対するようにその子が語り掛けたりということが実際にあるそうです。
次に、「この煩悩だらけの私たちの考える極楽」とありますが、中には死ぬとそれこそ仏になれるのだから、今の自分とは次元が違う心になると考える人もあるかもしれません。船橋の大念寺というお寺に大島祥明さんという住職さんがおられます。実際にお会いしてお話を伺ったこともありますが、『死んだらおしまいではなかった』(PHP研究所)という本に、亡くなられた人の死後の心について書かれています。
十年間ばかりの間に二千件ものお葬儀をされたということなのですが、しばらくすると通夜のお経を唱えていると亡くなった人の心が語りかけてくるのがわかるようになったというのです。誰が亡くなっても急に人が変わることはなく、その人の本質的なものがあらわになって語りかけてくると書かれています。誰もが亡くなった時の心にしたがって死後の心もあるということなのです。
それから「仏様の世界は禅定の世界」ということについてですが、仏様の世界の下には、無色界、色界という天人の世界があるとするのが仏教の世界観です。私たち人間界はその下の欲界にあるとします。色界、無色界は共に深い禅定を修めた人たちが死後に生まれる世界とされています。その上に位置する仏の世界は当然それ以上の静謐(せいひつ)なる世界と言えます。
そこで、「極楽とはそれよりもはるかに厳しい世界」という表現となっているのです。そのことについては、浄土真宗のお寺出身の武蔵野女子大学教授花山勝友先生がお書きになった『仏教を読む・捨ててこそ得る[浄土三部経]』(集英社)という本から核心の部分を転載させてもらいます。
「古来浄土経典とよばれるものを典拠として、死後の世界としての極楽が説かれてきたわけですが、教義の上からいいますと、実は、極楽という世界は、経典に描かれているような、人間にとっての理想的な世界では絶対にあり得ないのです。…浄土というのは、人間の欲望の対象になり得るようなものがあるはずはないのです。
…浄土を極楽と名付け、そして、その世界がいかにも人間にとっての理想的世界のように描写しているのは、一人でも多くの、煩悩を抱いている、まだこの世に生きている人間を導こうという目的のためであって、これを仏教では方便といっているのです。(P19~P22)」以上
中村元東方研究所
東方学術賞授賞式に参加して
昨年十月十日、東京九段のインド大使館で、公益財団法人中村元東方研究所の第三十三回中村元東方学術賞の授賞式が行われ、参加しました。
今回の栄えある授賞者には、これまで何度も本紙にご著作を紹介して学ばせていただき、また平成二十二年三月福山に本派研修会にお越しの際に当山にもご参詣をいただいたこともある、中央大学国際情報学部教授保坂俊司先生が選考されました。
以前先生から東方研究所の会報をお送りいただいたご縁で、数年前から会員にさせていただいておりました。
先生は長年にわたり、シク教の研究やイスラム資料からインド仏教の盛衰を研究され、それのみならずインド宗教全般の幅広い研究に多大なる実績を挙げられての受賞でありました。
受賞後のご挨拶で先生は、「学問研究もただ自らの成果とするばかりではなく、広く世の中に、特に世界の平和と人々の安寧に寄与するものでなければならず、昨今の国際情勢の不穏な現状にも貢献できるための比較思想、比較文明論であらねばならない」と述べられ、とても印象に残りました。
なお、若手の研究者を対象にした学術奨励賞には、明治の傑僧といわれた釋雲照律師の研究書『釋雲照と戒律の近代』(法蔵館)を出版された亀山光明氏が受賞しています。
亀山氏は真宗寺院の寺族でありながら、近代の真言僧の戒律について研究する矛盾を感じつつも、自らの出自で悩んだ過去の煩悶が近代の仏教を学ぶ中で救われる思いがするという経験から研究を続けているとのことでした。
後日読んでみますと、とても丁寧に明治時代の資料を渉猟してなされた研究であることがわかりました。そして、雲照律師の戒律思想は理論を超えた経験的な新しい仏教の潮流を体現するものであり、近代に相応しい活動であったと結論しています。
近代仏教は、真宗僧ばかりが取り上げられる「真宗中心史観」ともいわれる状況でしたが、こうした若い研究者のお陰で見直されつつあるのはありがたいことであると思います。今後の研究にも注目したいと思います。
お茶会を終えて
昨年九月十七日、ここ國分寺を会場にお茶会が開かれました。尾道のNPO法人・茶の湯歳時記同好会主催の百人を超える参加者が来訪される盛大な茶会でした。
同会は、これまでにも尾道の浄土寺や海龍寺、光明寺、三原の極楽寺などで茶会を開催してこられました。この度は、『茶の湯~西国街道をゆく~』と題された連続茶会の今年五月に開催された第四回尾道海龍寺文楽茶会に続く、第五回神辺備後國分寺茶会として行われたものです。
ことの始まりは、今年二月に神辺在住の表千家教授である理事さんが訪ねてこられ、是非客殿で茶会を開かせて欲しいと申し入れがありました。これまで茶会などとは縁のなかったこともあり、総代さん方にも相談の上快諾を得て、その後理事さんとのやり取りの中で日程も決まりました。
今年五月ころだったでしょうか、副理事長さんと実際に茶会で作法される先生方が会場の視察に来られ、部屋割りや出入り口の確認をしていかれました。そして八月末にもう一度理事さんが会場の確認に来られ、茶会前日には茶道具や花、掛け軸を持参され、会場の設えがなされて当日を迎えました。
当日は先生方は午前八時前にはお越しになり、九時から本堂で本尊様へお茶をお供えする供茶式法要がありました。同会理事長の壇上博厚氏より挨拶と来賓の紹介があり、そのあと供茶式が行われ、梵語の心経を独唱の後、理事さん方や茶会に参加される皆様方と心経を読誦しました。
遠くは京都や広島からお見えの方もあり、午前A九時半、午前B十一時十分、午後C十三時十分の、それぞれ定刻には定員を超える三十五名の予約されたお客様方が集い、客殿奥の間の濃茶席・中の間の薄茶席・客間の点心席と移動しながらゆっくりとお茶を飲み、國分寺での茶会を堪能されお帰りになられたことと存じます。濃茶席は表千家流十友会、薄茶席は表千家流雛の会が担当されました。先生方にはこれまでなされた大寺とは違い手狭に感じられたかもしれません。
皆さまが片付けを終えてお帰りになったのは夕方四時半ころだったでしょうか。九月半ばとはいえ夏の暑さの残る中丸一日着物でご奮闘なされ誠にご苦労様でした。後日早速に理事長様から丁寧な毛筆の礼状が届きました。「吹く風の 色こそみえね 唐尾山の 古代の松に 秋は来にけり」と歌を添えてくださいました。ありがとうございました。
國分寺では、夏の行事万灯会が八月二十一日に終わって、次の日から庭屋さんが入り庭園から境内の樹木の剪定が行われ、今年は殊の外丁寧な作業が二週間続きました。その間庭園や境内の草取り、中門外や参道の草刈り、本堂の縁や茶室の濡れ縁の掃除、そして茶会の前日まで本堂客殿の室内ももちろんのこと清掃に勤めました。普段しないところまで掃除ができ、あらためて掃除の大切さが知られるということもありました。
お寺は専門的な言葉では現前僧伽(げんぜんさんが)の役割として檀信徒に維持していただき様々な行事法務に勤しむ活動をしているわけですが、一方で世界のすべての仏教施設は四方(しほう)僧伽として、すべての仏教徒に門戸を開き適切な対応がなされなければならないものです。勿論ここにある僧伽とは僧の集団をさすわけですが、僧園や精舎などの施設は四方僧伽に属するともあります。今日の寺院も僧伽と考えれば、一般的にも寺院は公共の施設として捉えられもしますが、本来お寺は四方僧伽としてより広く人々に開かれてあることが本来のあり方と言えます。
そう考えますと、この度の茶会も、伝統文化の普及発揚のためになされた、人々の心を豊かに育むための活動に対する四方僧伽としての役割を果たしたものといえましょう。私どもも茶会が行われたことで多くのことを経験し学ばせていただきました。お茶会のため、残暑厳しい中参道の草刈り、草取り、外トイレの清掃にご精進くださった檀信徒の皆様に改めて感謝し御礼申し上げたいと思います。
三方よしということ
三方よしという言葉があります。近江商人の心得とも、モットーともいわれますが、売り手も買い手もそれから世間にも良いことを言うのだといいます。
ネットの言葉検索で「コトバンク」を見てみると、『「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」の三つの「良し」。売り手と買い手がともに満足し、また社会貢献もできるのがよい商売であるということ。近江商人の心得をいったもの。』とあります。
世間良しのところを社会貢献に置き換えてしまっています。これでは世間良しは商いと別物のように受けとられかねません。商いそのものが世間にとってもよいものである必要があるという本来の意味を読み違えそうな表現ではないかと思えます。商いと社会貢献を切り離しては本来の意味の三方よしにはならないでしょう。
ところで、昔サラリーマン時代に、「てんびんの詩」という映画を見たことがあります。ある情報出版社で営業企画の仕事をしていて、営業マンたちの研修に参加して一緒に見たのです。研修用の映画というので、誰もがこれ見よがしの教育ビデオ程度に思って見始めたのですが、終わった時にはみんな涙を浮かべて、見てよかった、もっと早く見ておきたかったと言い合ったものでした。みんなしんみりと、自分の営業の至らなさを思い知った人もありましょうが、その人生の根幹にまで思いを馳せ考えさせられる内容に誰もが重たい気分になりました。
制作した会社のホームページ『日本映像企画・オフィスTENBIN』には、次のようなあらすじが書かれています。
「その日、主人公・近藤大作は小学校を卒業した。近江の大きな商家に生まれた彼は、何不自由なく育ち、今日の日を迎えていた。そんな彼に、父は祝いの言葉と共に一つの小さな包みを手渡す。中には鍋(なべ)の蓋(ふた)が入っていた。彼には意味がわからない。だが、その何の変哲もない鍋蓋が大作の将来を決めることになる。父はそれを売ってこいというのだ。売ってこなければ、跡継ぎにはできないという。
しかたなく、大作は鍋蓋を売りに歩く。まず店に出入りする人々に押し売りのようにしてすすめる。だが、そんな商いがうまくいくはずもない。道ゆく人に突然声をかけても、まったく見向きもされない。親を恨み、買わない人々を憎む大作。父が茶断ちをし、母が心で泣き、見守る人々が彼よりもつらい思いをしていることを彼は知らない。その旅は、近江商人の商いの魂を模索する旅だったのだ。
行商人のようにもみ手をし卑屈な商いをしても、乞食をまねて泣き落としをしても、誰も彼の鍋蓋を買うものはいない。いつしか大作の目には涙があふれていた。そんなある日、農家の井戸の洗い場に浮かんでいる鍋をぼんやりと見つめながら、疲れ切った頭で彼は考える。〈鍋蓋がなくなったら困るやろな。困ったら買うてくれるかもしれん〉。しかし、次の瞬間には〈この鍋蓋も誰かが難儀して売ったものかもしれん〉。
無意識のうちに彼は鍋蓋を手に取り洗いはじめていた。不審に思った女は尋ねる、なぜ、そんなことをしているのかと。大作は、その場に手をついて謝る。「堪忍して下さい。わし悪いやつです。売れんかったんやないんです。物を売る気持ちもできてなかったんです。」女は彼の涙をぬぐいながら、その鍋蓋を売ってくれというのだった。」
そして、鍋蓋を買ってくれた女は、近所の人たちにも声をかけてくれて、おかげで大作の鍋蓋は売り切れ、「売る者と買う者の心が通わなければ物は売れない」という商いの神髄を知ることができたのでした。大作は父もしたようにてんびん捧に“大正十三年六月某日”と鍋蓋の売れた日付を書き込み、父や母の待つ家へと帰っていきました。商いに関すること以上に、親の子に対する思い、世間の他所の子に対する接し方、幼い主人公の心の葛藤など、学ぶべきことの多い作品でしたが、今の時代、教育という観点からも一度は若いうちに見ておきたい映画の一つではないかと思います。
主人公が農家の井戸の洗い場にあった鍋蓋を見て考えて、思い改めて涙があふれ、そのときその鍋蓋はただ自分が売るための商品ではなく、自分にとってかけがえのないものであり、ただただ、いとおしくなった鍋蓋。気がつくと無意識のうちにその場に下りていき汚れた鍋蓋を一心に洗っていました。自分は何もわかっていなかった、商いということがわかっていなかった、鍋蓋のことも、それを使う人の気持ちも。その素直な気持ちが農家の奥さんの気持ちを動かし、鍋蓋を売ることにつながりました。
売り手と買い手、そして、その周りの人たちにも、お父さんお母さんや店の人たちにも喜びや安どの気持ちをもたらしたことでしょう。主人公の少年から鍋蓋を買った奥さん方はその鍋蓋を大切に使用したであろうことも想像されます。まさに三方よしといえましょうか。
ところで、たとえばお堂の材木は伐採され製材した材木の売り手があり、その材を買い手として大工さんや工務店があり、お堂の一材として建設されます。勿論買い手と売り手が適正な価格取引に満足してのことであり、そして、そこに集う参拝する人々が世間としてそのお堂で様々な祈願をなし、多くの人の集う場となることによって、三方よしが成立します。
また様々な病気や感染症に対する薬やワクチンがあります。まず、それを作る製薬会社があり、それを症状ある人や感染を危ぶむ人が購入し、飲用したり投与する。それにより世間の人たちは安心し健康な生活を享受できる。それで快復改善されるばかりなら問題はなく三方よしとなりますが、その価格が適正なものではなく、さらに副作用が想定よりも多くなり、社会に不安を与えるようなら、それは三方よしとはならないでしょう。
広島県では昨年、県が許可した三原市の産廃最終処分場から染み出した水の汚染度が法定の水質基準の二倍を超えているなどとして地域住民による訴えがなされました。地裁にて県の審査の不備が指摘され建設と操業差し止めの仮処分が決定したにもかかわらず、それに対し県は控訴するとした問題がありました。処分場建設会社と土地を提供した県の二方に、世間としての地域住民がよければ三方よしとなるのでしょうが、残念ながらそうはならなかったケースといえます。当事者だけ良い取引ではやはり後々問題が生じ世間からは後ろ指をさされる可能性があるということでしょう。
日本の仏教は、その教えの基本的な考え方として自力とか他力とか言われることがあります。ですが、真言宗では三力という考え方をいたします。修行する自らの功徳力とそれに対して仏の側からの救済の力、それに宇宙の万物に宿る生命力によって悟りは成し遂げられると考えるのです。やはり三方の力が総合されて初めて良しとする考え方といえるでしょうか。
さらに慈悲も自らがよくあってこそ他を慈しむことができるわけですが、慈悲の心を養う瞑想法では、まずは自らの幸せを願い、身近な人たちの幸せを願い、そして生きとし生けるものの幸せを願います。やはり三方がよくあらねば慈悲も成り立たないということです。何事にもこの三方よしを確認することによって、当事者だけでなく周囲の人たちや社会にとってもよい、間違いのない行いをなすことができるということにもなります。
近江商人が育てあげた総合商社に伊藤忠商事があります。その創業者伊藤忠兵衛の言葉に『商売は菩薩の業(行)、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの』という言葉があるといいます。これは近江商人の先達たちに尊敬を込めて語ったとされるのですが、いにしえの商人方は実業も仏行と捉えられていたということです。仏の心にかなう行いを心掛けたいと思うなら、近江商人に倣い、この三方よしを確認すべしということであろうと思います。
國分寺に掛けられている書画について
まず、仁王門の上には「國分寺」と書かれた大きな扁額がかかっています。本堂正面には畳二畳ほどの大きさの扁額に「醫王閣」とあります。ともに戦前の京都大覚寺門跡谷内清巌猊下の書と伝えられています。寺内には、山号「唐尾山」の額がかかり、これは清巌猊下の銘があります。
本堂の額の裏には仏教のシンボル「法輪」が彫刻されています。法輪はお釈迦様の教えの中でも最も実践的な八正道を表現したものです。
玄関から上がった部屋に衝立が置いてあります。平成三十年の仁王尊解体修理の際に台座から出てきた墨書きを表裏に数枚はめ込んだ衝立に仕立てていただきました。
「欧州大戦乱為日本農民側不景気武器被服商人等大好景気」などとあり、大正四年に仁王門を修復した際に、寒水寺を兼務し後に宮島の大聖院に転住した、時の中興十一世住職快雄師により前回の仁王門修理の際の様子や当時の世情を書いた貴重な記録となっています。
左上に目をやると、小さめの額に梵字で大きく「Yu」とあり、右には「Om mogha samudraya svaha」と弘法大師の種字と真言が書かれています。書かれたのは私の出家の師となってくださった高野山高室院斎藤興隆前官(こうりゆうぜんかん)です。梵字の大家と言われ宝寿院門主も務められた高僧でした。
客間に入ると、正面上に「南山寿」の額。戦後最初の大覚寺門跡草繋全宜(くさなぎぜんぎ)猊下の書となります。広島県深安郡加茂町出身で、國分寺を中興する快範師が國分寺に晋山する前に住職をしていた芦田の福性院で出家得度し、その後明治の傑僧と言われる釈雲照律師(しやくうんしようりつし)によって倉敷の宝嶋寺に開設されていた連島僧園(つらじまそうえん)にて修養の後、律師の居られる東京の目白僧園に移られて薫陶を受け、その後真言宗の要職を歴任されました。
この書は高野山の執行長(しぎようちよう)時代の書となります。南山とは中国にある終南山という山のことで、長寿や堅固の象徴とされていることから、事業が栄え続けること、または、長寿を祝う言葉です。
そして仮床には同じく全宜門跡の書軸「虚心」が掛けられています。
同じく客間の東側には、深安郡道上出身で平野の法楽寺から明王院に転住され、のちに大覚寺門跡、高野山座主を歴任された龍池密雄(りゆうちみつおう)猊下の書額で、「歓喜」とあります。西側には、明治時代に編集された『廣島県名所図録』に掲載された当寺の様子をもとに福山の画家柳井睦人氏が國分寺の伽藍全体を描いた額があります。
そして東側に置かれた屏風は、明治時代の名僧が扇面に書いた書を二曲屏風に仕立てたもので、明治時代にのちに京都仁和寺門跡、高野山管長となられる土宜法龍(どきほうりゆう)師の書もあります。師は明治二十六年(一一八九三年)にシカゴで開催された万国宗教会議に日本代表として出席され、その後パリのギュメ美術館で仏教関係資料の調査研究にあたり、南方熊楠とも交友がありました。明治二十九年現在の高野山福山別院の前身蓮華院改築の折に来福して法会導師をお勤めになられています。
そしてそれに対する西側の屏風は、明治時代の福山の画家長谷川画伯が描いた虎の図と、龍池密雄猊下の書で、「厳護法城(ごんごほうじよう)」と書かれています。法城とはお寺のことで厳しく護りなさいということだと先代から聞かされてきました。
この客間の後ろの部屋の床には、香川県の八栗寺の住職で、後に高野山管長になられる中井龍瑞(りゆうずい)猊下が書かれた軸がかかっています。弘法大師の『性霊集補欠抄第十』に残されている一節、「閑林(かんりん)に独座す草堂の暁(あかつき) 三宝の声を一鳥に聞く 一鳥声有り 人心あり 声心雲水倶(とも)に了々たり」と二行に書かれています。
また南側には江戸末期の儒学者佐藤一斎の書額「達観」があります。誠に凛とした隷書の字ですが、一斎は幕末に活躍する佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠らの師として門下三千人とも。天保十二年(一八四一年)に昌平黌の儒官(総長)を命じられ儒学の大成者とも言われています。
そして、客殿中之間には、襖絵として江戸時代の女流画家平田玉蘊(ぎよくうん)の花鳥画が二面に貼り付けられており、この絵の斜め上には玉蘊と交際があったとされる頼山陽の「雄飛」と書かれた額がかかっています。
同じく中之間の床にかかる書軸は、明治期に我が国から初めてイギリスに留学し、当時最高の仏教学者マックス・ミューラーに師事して近代仏教学を学ばれた、東本願寺の学僧・南条文雄(ぶんゆう)師の書となります。インド・鹿野園・初転法輪の地に参詣したときの感激を七言絶句に認めたものです。内容も書も素晴らしい書軸です。「鹿園の一涯に久しく座る 今朝又恒河を渡り来る 世尊初転法輪の處 懐古して去るを躊躇しまた回る (鹿野苑の聖蹟を詣でて)」
北側には雲照律師が安政六(一八五九)年に書かれた貴重な書額があり、弘法大師の著作『般若心経秘鍵』の中にある一節で「蓮(はちす)を観じて自浄を知り、菓(このみ)を見て心徳を覚る」と書いてあります。
それから、客殿広間にかかる大きな額の中に書かれた流麗な字は、薩摩の西郷隆盛と談判の末江戸城無血開城を成し遂げた幕臣であり維新後は明治政府に仕えた山岡鉄舟の書で「褰霧見光」とあります。霧をかかげて光を見る、と読みます。
弘法大師の著作『秘蔵寶鑰(ひぞうほうやく)』の序にある言葉で、この後に、無尽の宝ありと続きます。意味は、「執着の霧を除き真理の光がさしかけるとそこに無尽の宝が秘められている(『訳注秘蔵宝鑰』松長有慶著)」となります。
この書は、福山草戸明王院復興のために、この地にやってきた鉄舟が福山地区の多くの真言寺院のために書いたとされているものの一つです。鉄舟は、北陸の禅宗の大寺復興のためにもたくさんの書を書き、資金集めの手助けをしてくださった方です。三舟の一人と称され書と坐禅に生きた人として有名ですが、明治期の混迷した仏教界にとっての大恩人と言えるでしょう。
そして、上段の間に進むと、まずは正面の床には、製作者年代不明の『如来荒神像』の掛け軸がかかり、その前には坐禅会本尊のタイ製の釈迦如来が半跏坐してゆったりと両手を臍の前に置きお座りになっています。
北側上に、「戒為清涼池」と雲照律師の大きな鮮やかな字で書かれた書額がかけられています。明治時代になると仏教が排斥され、僧侶も戒律を軽視する時代に目白僧園、連島僧園、那須僧園の三ヵ所に戒律を重視した僧侶養成学校を作り、戒律主義を唱えた律師の気迫が感じられる書です。この世の中を清らかな池とすべく、まずは僧自らが戒を守ることの大切さを戒められているように感じます。
そして東側の壁には、江戸時代の湯田村寳泉寺の住持から高野山に登られ法印職から金剛峰寺座主になられた乗如丹涯(じようによたんがい)猊下の漢詩が見事な行書で綴られた六曲屏風があります。
「中秋月前連日雨 正至中秋天漸晴 小風徐来拂秋霧 暮色凉爽露華清
東林吐月々更明 此夕何夕最多清 床頭旦設杯中物 風流恨只乏詩鑒
独在香楼費吟句 何厭翫月至五更 天保二年夏四月 南山前寺務七三叟 丹涯」と、先代が書き残してくれていました。
ご参詣の折に、是非ゆっくりとご覧ください。
【國分寺通信】
朝な朝な 出づる日影は 我ために
こことをしふる 西の山端 (慈雲尊者和歌集より)
「極楽願求のこころを」と題する和歌となります。
毎朝拝む朝日に手を合わせ、一日の安穏を祈り、尊者が提唱された十善の生活の中で、十悪を避け、たくさんの徳を積む。そして、一日の終わりには沈む夕日に西方浄土の方角を教えられ、一日無事に過ごせたことに感謝の心を捧げつつ、合掌する。そうした極楽を思い信仰の生活を送る人の営みが自然と目に浮かぶ一句と言えましょうか。
○今年は御涅槃です。そして、平成六年以来のご本尊の御開帳を予定しています。当日は朝九時には御開帳し、夕方五時に扉を閉じる予定です。この間に、九時過ぎからお釈迦様の涅槃会を厳修し、十一時ころから稚児行列・御開帳記念法会、午後一時からは土砂加持法会、御法話となります。
この間にいつでも本堂に参詣できますので、ご都合の良い時間にお越しになり、是非お姿をご覧になりお詣りください。御稚児さんは、参道を歩き本堂内にお詣りします。たくさんのご参加をお待ちしています。若い方々へお声がけくださいますようよろしくお願い申し上げます。
◎ 坐禅会 毎月第一土曜日午後三時~五時
◎ 理趣経読誦会 毎月第二金曜日午後二時~三時
◎ 仏教懇話会 毎月第二金曜日午後三時~四時
◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時~四時
●毎月二十一日は作務の日です。(午前中のお越しになれる時間自主的に境内などの清掃作業をしています。)
(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)
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七回忌の法事にて
極楽は極楽か
「お疲れさまでした。長いお経を聞いてくださり、また、ご一緒に『仏前勤行次第』を御唱和いただきご苦労様です。今日は七回忌ですから、こちらの塔婆に書いてありますように、七回忌の本尊様阿閦如来に沢山のお供えをし、読経供養を施し、その功徳を六年前に来世に赴かれている○○大姉に手向けるというのが今日の法事です。
こちらにあります塔婆には、上から梵字で「キャ・カ・ラ・ヴァ・ア」と書いてあるのですが、これはよく先祖墓に見られる五輪塔を表していまして、その意味は下から地水火風空となります。これはそれぞれに大をつけて、五大ともいわれるこの宇宙全体を構成する要素となるものです。
それぞれの意味は、地大は堅さを性質としてものを保持する働きを表し、水大は湿り気を性質としてものを収めとる働き、火大は暖かさを性質としてものを成熟させる働き、風大は動きを性質としてものを成長させる働き、空大は虚空のことでこの場合空間を意味しています。
これは、その成り立ちそのものである大日如来を表わしているものともいえ、五輪塔を建立することは、多くの人を幸せに導く仏教のシンボルとして、誠に功徳あるものです。そこで、法事にあたり薄い板ではありますが、その五輪を刻んであしらい、五輪塔を建立する功徳を今日の法事の○○大姉に手向けるために建立されるのです。 そして、塔婆には、その下に回忌の本尊様を象徴する梵字が書かれ、そのあとには「○○院○○○○大姉七回忌菩提の為也」とあります。
七回忌の菩提ですが、菩提とは覚りのことですから、七回忌の覚りというものが特別にあるのかというとそうではなく、この七回忌の法事に当たり前世の家族親族であった皆様の供養する功徳をいただかれ、さらに覚りに向かい一歩でも前進して心清らかにご精進くださいという意味となります。
あれ、そうなんですか、死後は極楽浄土に逝けるという宗旨もあるのにとお考えになられるかもしれません。
が、少しお考えいただきたいと思うのですが、この煩悩だらけの私たちの考える極楽と仏様のお考えの極楽とは随分と環境や居心地が違うのではないかと思うのです。ちょっと待ってください、コンビニに行ってきますというわけにはいかない世界です。仏様の世界に逝くというのはそのまま仏様を目の前に教えをいただき仏様のように過ごすことです。きらびやかな荘厳にとらわれがちですが、仏様の世界は禅定の世界です。
昔禅宗のお寺にご縁あってお世話になっていたことがあります。そこでは「接心(せつしん)」という、一週間一日に十時間以上座禅する坐禅会があり、三度ほど参加させてもらいました。
周りは禅宗のお寺さんばかりで、はじめはじっと座っているだけで緊張し、体中の筋という筋が突っ張りゆったりと座ることもできませんでした。そうした時に警策(けいさく)という棒で肩から背中にかけてパンパンパンと叩いてもらうと、スッと身体の緊張が解けて楽になったことを思い出します。
皆さんが突然そうした坐禅会に参加されたらどんな感じになられるでしょうか。私は高野山やインドに行った後にご縁をいただき参加させてもらったので多少の下地はあったのに、それでも大変でした。
さらに韓国の禅宗にはその坐禅会の期間が五十日に及ぶところがあるとか。またスリランカやミャンマーなどでは、期間を設けずに、横になって寝るのは一日二三時間だけで、あとはずっと坐禅瞑想ばかりしている森林派のお寺さんもあるとか。そんなところに突然放り込まれても、おそらく一週間と持たないと思います。
極楽とはそれよりもはるかに厳しい世界と思わなくてはいけないとすると、そこにいられるだけの心、つまり欲も怒りもない、何があってもなくても動揺しない心を作ってから行くべきではないかと思うのです。
インドの仏教徒たちは、また死後も人間に生まれ変わりたいと言います。もちろん今よりも裕福な家に生まれたいと。そのために沢山の功徳を積んでおきたいから、お寺に行きブッダを礼拝し、ドネーションしてお坊さんたちに食事を食べて修行してもらって功徳をたくさん積んでおきたいと思っています。
今日の法事の○○大姉もおそらくそんな厳しい世界ではなく、○○家の皆様同様の敬虔な仏教徒の家に生まれ変わり、そこでたくさんの功徳を積み、心を浄めて、一生でも早く仏様のような清らかな心を作ってくださるべく精進されているものと思います。
そのために皆さんも今日の法事において、たくさんの功徳を積まれ、来世におられる○○大姉に向けてその力となるべく功徳を回向されたということです。
この次は十三回忌、少し先になりますが、それまで仏壇から功徳をご回向してあげて欲しいと思います。本日は誠にご苦労様でした。」
○この法話を実際に聞いてくださった方々が、聞いていておそらく頭の中に?マークがついたのではないかと思われる点について、解説を補足してみたいと思います。
まずはじめに、「来世に赴かれている」という表現についてです。死んだら無に帰するとか、仏になるという表現もありますから、死後のことは心配いらないとお考えになる方もあるかもしれません。ですが、仏教は死とは体と心が分離することであるとされ、身体はこの世の借りものなのです。心が本人であると考えます。そして、すべてのことに原因ありとする教えです。この世に生まれ、こうして私たちが縁あり、この話を聞いてくださるのにも原因と縁があってのことです。
ですから、亡くなったら身体は荼毘(だび)に付されますが、心には様々な思いが残り、それが因となり、その心に相応しい来世に赴くと考えるのです。それを輪廻するというわけですが、間違いのない生涯であれば人間界以上の世界に、もしも暗い心で亡くなったりすると餓鬼の世界と、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの世界に生まれ変わる可能性があるとされるのです。
実はこの生まれ変わりに関する研究は学問的に古くからインドやスリランカで進められており、日本では東京の産婦人科医池川明さんが有名です。米国ではヴァージニア大学において一九六〇年代から専門に研究する超心理研究室がつくられ、世界ですでに二千件もの間違いのない生まれ変わりの事例が確認されているとか。学んでもいない行ったこともない地方の言葉を話し出す子供がいて、その地域に連れて行くと、ある家の家族の大人に自分の子供に対するようにその子が語り掛けたりということが実際にあるそうです。
次に、「この煩悩だらけの私たちの考える極楽」とありますが、中には死ぬとそれこそ仏になれるのだから、今の自分とは次元が違う心になると考える人もあるかもしれません。船橋の大念寺というお寺に大島祥明さんという住職さんがおられます。実際にお会いしてお話を伺ったこともありますが、『死んだらおしまいではなかった』(PHP研究所)という本に、亡くなられた人の死後の心について書かれています。
十年間ばかりの間に二千件ものお葬儀をされたということなのですが、しばらくすると通夜のお経を唱えていると亡くなった人の心が語りかけてくるのがわかるようになったというのです。誰が亡くなっても急に人が変わることはなく、その人の本質的なものがあらわになって語りかけてくると書かれています。誰もが亡くなった時の心にしたがって死後の心もあるということなのです。
それから「仏様の世界は禅定の世界」ということについてですが、仏様の世界の下には、無色界、色界という天人の世界があるとするのが仏教の世界観です。私たち人間界はその下の欲界にあるとします。色界、無色界は共に深い禅定を修めた人たちが死後に生まれる世界とされています。その上に位置する仏の世界は当然それ以上の静謐(せいひつ)なる世界と言えます。
そこで、「極楽とはそれよりもはるかに厳しい世界」という表現となっているのです。そのことについては、浄土真宗のお寺出身の武蔵野女子大学教授花山勝友先生がお書きになった『仏教を読む・捨ててこそ得る[浄土三部経]』(集英社)という本から核心の部分を転載させてもらいます。
「古来浄土経典とよばれるものを典拠として、死後の世界としての極楽が説かれてきたわけですが、教義の上からいいますと、実は、極楽という世界は、経典に描かれているような、人間にとっての理想的な世界では絶対にあり得ないのです。…浄土というのは、人間の欲望の対象になり得るようなものがあるはずはないのです。
…浄土を極楽と名付け、そして、その世界がいかにも人間にとっての理想的世界のように描写しているのは、一人でも多くの、煩悩を抱いている、まだこの世に生きている人間を導こうという目的のためであって、これを仏教では方便といっているのです。(P19~P22)」以上
中村元東方研究所
東方学術賞授賞式に参加して
昨年十月十日、東京九段のインド大使館で、公益財団法人中村元東方研究所の第三十三回中村元東方学術賞の授賞式が行われ、参加しました。
今回の栄えある授賞者には、これまで何度も本紙にご著作を紹介して学ばせていただき、また平成二十二年三月福山に本派研修会にお越しの際に当山にもご参詣をいただいたこともある、中央大学国際情報学部教授保坂俊司先生が選考されました。
以前先生から東方研究所の会報をお送りいただいたご縁で、数年前から会員にさせていただいておりました。
先生は長年にわたり、シク教の研究やイスラム資料からインド仏教の盛衰を研究され、それのみならずインド宗教全般の幅広い研究に多大なる実績を挙げられての受賞でありました。
受賞後のご挨拶で先生は、「学問研究もただ自らの成果とするばかりではなく、広く世の中に、特に世界の平和と人々の安寧に寄与するものでなければならず、昨今の国際情勢の不穏な現状にも貢献できるための比較思想、比較文明論であらねばならない」と述べられ、とても印象に残りました。
なお、若手の研究者を対象にした学術奨励賞には、明治の傑僧といわれた釋雲照律師の研究書『釋雲照と戒律の近代』(法蔵館)を出版された亀山光明氏が受賞しています。
亀山氏は真宗寺院の寺族でありながら、近代の真言僧の戒律について研究する矛盾を感じつつも、自らの出自で悩んだ過去の煩悶が近代の仏教を学ぶ中で救われる思いがするという経験から研究を続けているとのことでした。
後日読んでみますと、とても丁寧に明治時代の資料を渉猟してなされた研究であることがわかりました。そして、雲照律師の戒律思想は理論を超えた経験的な新しい仏教の潮流を体現するものであり、近代に相応しい活動であったと結論しています。
近代仏教は、真宗僧ばかりが取り上げられる「真宗中心史観」ともいわれる状況でしたが、こうした若い研究者のお陰で見直されつつあるのはありがたいことであると思います。今後の研究にも注目したいと思います。
お茶会を終えて
昨年九月十七日、ここ國分寺を会場にお茶会が開かれました。尾道のNPO法人・茶の湯歳時記同好会主催の百人を超える参加者が来訪される盛大な茶会でした。
同会は、これまでにも尾道の浄土寺や海龍寺、光明寺、三原の極楽寺などで茶会を開催してこられました。この度は、『茶の湯~西国街道をゆく~』と題された連続茶会の今年五月に開催された第四回尾道海龍寺文楽茶会に続く、第五回神辺備後國分寺茶会として行われたものです。
ことの始まりは、今年二月に神辺在住の表千家教授である理事さんが訪ねてこられ、是非客殿で茶会を開かせて欲しいと申し入れがありました。これまで茶会などとは縁のなかったこともあり、総代さん方にも相談の上快諾を得て、その後理事さんとのやり取りの中で日程も決まりました。
今年五月ころだったでしょうか、副理事長さんと実際に茶会で作法される先生方が会場の視察に来られ、部屋割りや出入り口の確認をしていかれました。そして八月末にもう一度理事さんが会場の確認に来られ、茶会前日には茶道具や花、掛け軸を持参され、会場の設えがなされて当日を迎えました。
当日は先生方は午前八時前にはお越しになり、九時から本堂で本尊様へお茶をお供えする供茶式法要がありました。同会理事長の壇上博厚氏より挨拶と来賓の紹介があり、そのあと供茶式が行われ、梵語の心経を独唱の後、理事さん方や茶会に参加される皆様方と心経を読誦しました。
遠くは京都や広島からお見えの方もあり、午前A九時半、午前B十一時十分、午後C十三時十分の、それぞれ定刻には定員を超える三十五名の予約されたお客様方が集い、客殿奥の間の濃茶席・中の間の薄茶席・客間の点心席と移動しながらゆっくりとお茶を飲み、國分寺での茶会を堪能されお帰りになられたことと存じます。濃茶席は表千家流十友会、薄茶席は表千家流雛の会が担当されました。先生方にはこれまでなされた大寺とは違い手狭に感じられたかもしれません。
皆さまが片付けを終えてお帰りになったのは夕方四時半ころだったでしょうか。九月半ばとはいえ夏の暑さの残る中丸一日着物でご奮闘なされ誠にご苦労様でした。後日早速に理事長様から丁寧な毛筆の礼状が届きました。「吹く風の 色こそみえね 唐尾山の 古代の松に 秋は来にけり」と歌を添えてくださいました。ありがとうございました。
國分寺では、夏の行事万灯会が八月二十一日に終わって、次の日から庭屋さんが入り庭園から境内の樹木の剪定が行われ、今年は殊の外丁寧な作業が二週間続きました。その間庭園や境内の草取り、中門外や参道の草刈り、本堂の縁や茶室の濡れ縁の掃除、そして茶会の前日まで本堂客殿の室内ももちろんのこと清掃に勤めました。普段しないところまで掃除ができ、あらためて掃除の大切さが知られるということもありました。
お寺は専門的な言葉では現前僧伽(げんぜんさんが)の役割として檀信徒に維持していただき様々な行事法務に勤しむ活動をしているわけですが、一方で世界のすべての仏教施設は四方(しほう)僧伽として、すべての仏教徒に門戸を開き適切な対応がなされなければならないものです。勿論ここにある僧伽とは僧の集団をさすわけですが、僧園や精舎などの施設は四方僧伽に属するともあります。今日の寺院も僧伽と考えれば、一般的にも寺院は公共の施設として捉えられもしますが、本来お寺は四方僧伽としてより広く人々に開かれてあることが本来のあり方と言えます。
そう考えますと、この度の茶会も、伝統文化の普及発揚のためになされた、人々の心を豊かに育むための活動に対する四方僧伽としての役割を果たしたものといえましょう。私どもも茶会が行われたことで多くのことを経験し学ばせていただきました。お茶会のため、残暑厳しい中参道の草刈り、草取り、外トイレの清掃にご精進くださった檀信徒の皆様に改めて感謝し御礼申し上げたいと思います。
三方よしということ
三方よしという言葉があります。近江商人の心得とも、モットーともいわれますが、売り手も買い手もそれから世間にも良いことを言うのだといいます。
ネットの言葉検索で「コトバンク」を見てみると、『「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」の三つの「良し」。売り手と買い手がともに満足し、また社会貢献もできるのがよい商売であるということ。近江商人の心得をいったもの。』とあります。
世間良しのところを社会貢献に置き換えてしまっています。これでは世間良しは商いと別物のように受けとられかねません。商いそのものが世間にとってもよいものである必要があるという本来の意味を読み違えそうな表現ではないかと思えます。商いと社会貢献を切り離しては本来の意味の三方よしにはならないでしょう。
ところで、昔サラリーマン時代に、「てんびんの詩」という映画を見たことがあります。ある情報出版社で営業企画の仕事をしていて、営業マンたちの研修に参加して一緒に見たのです。研修用の映画というので、誰もがこれ見よがしの教育ビデオ程度に思って見始めたのですが、終わった時にはみんな涙を浮かべて、見てよかった、もっと早く見ておきたかったと言い合ったものでした。みんなしんみりと、自分の営業の至らなさを思い知った人もありましょうが、その人生の根幹にまで思いを馳せ考えさせられる内容に誰もが重たい気分になりました。
制作した会社のホームページ『日本映像企画・オフィスTENBIN』には、次のようなあらすじが書かれています。
「その日、主人公・近藤大作は小学校を卒業した。近江の大きな商家に生まれた彼は、何不自由なく育ち、今日の日を迎えていた。そんな彼に、父は祝いの言葉と共に一つの小さな包みを手渡す。中には鍋(なべ)の蓋(ふた)が入っていた。彼には意味がわからない。だが、その何の変哲もない鍋蓋が大作の将来を決めることになる。父はそれを売ってこいというのだ。売ってこなければ、跡継ぎにはできないという。
しかたなく、大作は鍋蓋を売りに歩く。まず店に出入りする人々に押し売りのようにしてすすめる。だが、そんな商いがうまくいくはずもない。道ゆく人に突然声をかけても、まったく見向きもされない。親を恨み、買わない人々を憎む大作。父が茶断ちをし、母が心で泣き、見守る人々が彼よりもつらい思いをしていることを彼は知らない。その旅は、近江商人の商いの魂を模索する旅だったのだ。
行商人のようにもみ手をし卑屈な商いをしても、乞食をまねて泣き落としをしても、誰も彼の鍋蓋を買うものはいない。いつしか大作の目には涙があふれていた。そんなある日、農家の井戸の洗い場に浮かんでいる鍋をぼんやりと見つめながら、疲れ切った頭で彼は考える。〈鍋蓋がなくなったら困るやろな。困ったら買うてくれるかもしれん〉。しかし、次の瞬間には〈この鍋蓋も誰かが難儀して売ったものかもしれん〉。
無意識のうちに彼は鍋蓋を手に取り洗いはじめていた。不審に思った女は尋ねる、なぜ、そんなことをしているのかと。大作は、その場に手をついて謝る。「堪忍して下さい。わし悪いやつです。売れんかったんやないんです。物を売る気持ちもできてなかったんです。」女は彼の涙をぬぐいながら、その鍋蓋を売ってくれというのだった。」
そして、鍋蓋を買ってくれた女は、近所の人たちにも声をかけてくれて、おかげで大作の鍋蓋は売り切れ、「売る者と買う者の心が通わなければ物は売れない」という商いの神髄を知ることができたのでした。大作は父もしたようにてんびん捧に“大正十三年六月某日”と鍋蓋の売れた日付を書き込み、父や母の待つ家へと帰っていきました。商いに関すること以上に、親の子に対する思い、世間の他所の子に対する接し方、幼い主人公の心の葛藤など、学ぶべきことの多い作品でしたが、今の時代、教育という観点からも一度は若いうちに見ておきたい映画の一つではないかと思います。
主人公が農家の井戸の洗い場にあった鍋蓋を見て考えて、思い改めて涙があふれ、そのときその鍋蓋はただ自分が売るための商品ではなく、自分にとってかけがえのないものであり、ただただ、いとおしくなった鍋蓋。気がつくと無意識のうちにその場に下りていき汚れた鍋蓋を一心に洗っていました。自分は何もわかっていなかった、商いということがわかっていなかった、鍋蓋のことも、それを使う人の気持ちも。その素直な気持ちが農家の奥さんの気持ちを動かし、鍋蓋を売ることにつながりました。
売り手と買い手、そして、その周りの人たちにも、お父さんお母さんや店の人たちにも喜びや安どの気持ちをもたらしたことでしょう。主人公の少年から鍋蓋を買った奥さん方はその鍋蓋を大切に使用したであろうことも想像されます。まさに三方よしといえましょうか。
ところで、たとえばお堂の材木は伐採され製材した材木の売り手があり、その材を買い手として大工さんや工務店があり、お堂の一材として建設されます。勿論買い手と売り手が適正な価格取引に満足してのことであり、そして、そこに集う参拝する人々が世間としてそのお堂で様々な祈願をなし、多くの人の集う場となることによって、三方よしが成立します。
また様々な病気や感染症に対する薬やワクチンがあります。まず、それを作る製薬会社があり、それを症状ある人や感染を危ぶむ人が購入し、飲用したり投与する。それにより世間の人たちは安心し健康な生活を享受できる。それで快復改善されるばかりなら問題はなく三方よしとなりますが、その価格が適正なものではなく、さらに副作用が想定よりも多くなり、社会に不安を与えるようなら、それは三方よしとはならないでしょう。
広島県では昨年、県が許可した三原市の産廃最終処分場から染み出した水の汚染度が法定の水質基準の二倍を超えているなどとして地域住民による訴えがなされました。地裁にて県の審査の不備が指摘され建設と操業差し止めの仮処分が決定したにもかかわらず、それに対し県は控訴するとした問題がありました。処分場建設会社と土地を提供した県の二方に、世間としての地域住民がよければ三方よしとなるのでしょうが、残念ながらそうはならなかったケースといえます。当事者だけ良い取引ではやはり後々問題が生じ世間からは後ろ指をさされる可能性があるということでしょう。
日本の仏教は、その教えの基本的な考え方として自力とか他力とか言われることがあります。ですが、真言宗では三力という考え方をいたします。修行する自らの功徳力とそれに対して仏の側からの救済の力、それに宇宙の万物に宿る生命力によって悟りは成し遂げられると考えるのです。やはり三方の力が総合されて初めて良しとする考え方といえるでしょうか。
さらに慈悲も自らがよくあってこそ他を慈しむことができるわけですが、慈悲の心を養う瞑想法では、まずは自らの幸せを願い、身近な人たちの幸せを願い、そして生きとし生けるものの幸せを願います。やはり三方がよくあらねば慈悲も成り立たないということです。何事にもこの三方よしを確認することによって、当事者だけでなく周囲の人たちや社会にとってもよい、間違いのない行いをなすことができるということにもなります。
近江商人が育てあげた総合商社に伊藤忠商事があります。その創業者伊藤忠兵衛の言葉に『商売は菩薩の業(行)、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの』という言葉があるといいます。これは近江商人の先達たちに尊敬を込めて語ったとされるのですが、いにしえの商人方は実業も仏行と捉えられていたということです。仏の心にかなう行いを心掛けたいと思うなら、近江商人に倣い、この三方よしを確認すべしということであろうと思います。
國分寺に掛けられている書画について
まず、仁王門の上には「國分寺」と書かれた大きな扁額がかかっています。本堂正面には畳二畳ほどの大きさの扁額に「醫王閣」とあります。ともに戦前の京都大覚寺門跡谷内清巌猊下の書と伝えられています。寺内には、山号「唐尾山」の額がかかり、これは清巌猊下の銘があります。
本堂の額の裏には仏教のシンボル「法輪」が彫刻されています。法輪はお釈迦様の教えの中でも最も実践的な八正道を表現したものです。
玄関から上がった部屋に衝立が置いてあります。平成三十年の仁王尊解体修理の際に台座から出てきた墨書きを表裏に数枚はめ込んだ衝立に仕立てていただきました。
「欧州大戦乱為日本農民側不景気武器被服商人等大好景気」などとあり、大正四年に仁王門を修復した際に、寒水寺を兼務し後に宮島の大聖院に転住した、時の中興十一世住職快雄師により前回の仁王門修理の際の様子や当時の世情を書いた貴重な記録となっています。
左上に目をやると、小さめの額に梵字で大きく「Yu」とあり、右には「Om mogha samudraya svaha」と弘法大師の種字と真言が書かれています。書かれたのは私の出家の師となってくださった高野山高室院斎藤興隆前官(こうりゆうぜんかん)です。梵字の大家と言われ宝寿院門主も務められた高僧でした。
客間に入ると、正面上に「南山寿」の額。戦後最初の大覚寺門跡草繋全宜(くさなぎぜんぎ)猊下の書となります。広島県深安郡加茂町出身で、國分寺を中興する快範師が國分寺に晋山する前に住職をしていた芦田の福性院で出家得度し、その後明治の傑僧と言われる釈雲照律師(しやくうんしようりつし)によって倉敷の宝嶋寺に開設されていた連島僧園(つらじまそうえん)にて修養の後、律師の居られる東京の目白僧園に移られて薫陶を受け、その後真言宗の要職を歴任されました。
この書は高野山の執行長(しぎようちよう)時代の書となります。南山とは中国にある終南山という山のことで、長寿や堅固の象徴とされていることから、事業が栄え続けること、または、長寿を祝う言葉です。
そして仮床には同じく全宜門跡の書軸「虚心」が掛けられています。
同じく客間の東側には、深安郡道上出身で平野の法楽寺から明王院に転住され、のちに大覚寺門跡、高野山座主を歴任された龍池密雄(りゆうちみつおう)猊下の書額で、「歓喜」とあります。西側には、明治時代に編集された『廣島県名所図録』に掲載された当寺の様子をもとに福山の画家柳井睦人氏が國分寺の伽藍全体を描いた額があります。
そして東側に置かれた屏風は、明治時代の名僧が扇面に書いた書を二曲屏風に仕立てたもので、明治時代にのちに京都仁和寺門跡、高野山管長となられる土宜法龍(どきほうりゆう)師の書もあります。師は明治二十六年(一一八九三年)にシカゴで開催された万国宗教会議に日本代表として出席され、その後パリのギュメ美術館で仏教関係資料の調査研究にあたり、南方熊楠とも交友がありました。明治二十九年現在の高野山福山別院の前身蓮華院改築の折に来福して法会導師をお勤めになられています。
そしてそれに対する西側の屏風は、明治時代の福山の画家長谷川画伯が描いた虎の図と、龍池密雄猊下の書で、「厳護法城(ごんごほうじよう)」と書かれています。法城とはお寺のことで厳しく護りなさいということだと先代から聞かされてきました。
この客間の後ろの部屋の床には、香川県の八栗寺の住職で、後に高野山管長になられる中井龍瑞(りゆうずい)猊下が書かれた軸がかかっています。弘法大師の『性霊集補欠抄第十』に残されている一節、「閑林(かんりん)に独座す草堂の暁(あかつき) 三宝の声を一鳥に聞く 一鳥声有り 人心あり 声心雲水倶(とも)に了々たり」と二行に書かれています。
また南側には江戸末期の儒学者佐藤一斎の書額「達観」があります。誠に凛とした隷書の字ですが、一斎は幕末に活躍する佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠らの師として門下三千人とも。天保十二年(一八四一年)に昌平黌の儒官(総長)を命じられ儒学の大成者とも言われています。
そして、客殿中之間には、襖絵として江戸時代の女流画家平田玉蘊(ぎよくうん)の花鳥画が二面に貼り付けられており、この絵の斜め上には玉蘊と交際があったとされる頼山陽の「雄飛」と書かれた額がかかっています。
同じく中之間の床にかかる書軸は、明治期に我が国から初めてイギリスに留学し、当時最高の仏教学者マックス・ミューラーに師事して近代仏教学を学ばれた、東本願寺の学僧・南条文雄(ぶんゆう)師の書となります。インド・鹿野園・初転法輪の地に参詣したときの感激を七言絶句に認めたものです。内容も書も素晴らしい書軸です。「鹿園の一涯に久しく座る 今朝又恒河を渡り来る 世尊初転法輪の處 懐古して去るを躊躇しまた回る (鹿野苑の聖蹟を詣でて)」
北側には雲照律師が安政六(一八五九)年に書かれた貴重な書額があり、弘法大師の著作『般若心経秘鍵』の中にある一節で「蓮(はちす)を観じて自浄を知り、菓(このみ)を見て心徳を覚る」と書いてあります。
それから、客殿広間にかかる大きな額の中に書かれた流麗な字は、薩摩の西郷隆盛と談判の末江戸城無血開城を成し遂げた幕臣であり維新後は明治政府に仕えた山岡鉄舟の書で「褰霧見光」とあります。霧をかかげて光を見る、と読みます。
弘法大師の著作『秘蔵寶鑰(ひぞうほうやく)』の序にある言葉で、この後に、無尽の宝ありと続きます。意味は、「執着の霧を除き真理の光がさしかけるとそこに無尽の宝が秘められている(『訳注秘蔵宝鑰』松長有慶著)」となります。
この書は、福山草戸明王院復興のために、この地にやってきた鉄舟が福山地区の多くの真言寺院のために書いたとされているものの一つです。鉄舟は、北陸の禅宗の大寺復興のためにもたくさんの書を書き、資金集めの手助けをしてくださった方です。三舟の一人と称され書と坐禅に生きた人として有名ですが、明治期の混迷した仏教界にとっての大恩人と言えるでしょう。
そして、上段の間に進むと、まずは正面の床には、製作者年代不明の『如来荒神像』の掛け軸がかかり、その前には坐禅会本尊のタイ製の釈迦如来が半跏坐してゆったりと両手を臍の前に置きお座りになっています。
北側上に、「戒為清涼池」と雲照律師の大きな鮮やかな字で書かれた書額がかけられています。明治時代になると仏教が排斥され、僧侶も戒律を軽視する時代に目白僧園、連島僧園、那須僧園の三ヵ所に戒律を重視した僧侶養成学校を作り、戒律主義を唱えた律師の気迫が感じられる書です。この世の中を清らかな池とすべく、まずは僧自らが戒を守ることの大切さを戒められているように感じます。
そして東側の壁には、江戸時代の湯田村寳泉寺の住持から高野山に登られ法印職から金剛峰寺座主になられた乗如丹涯(じようによたんがい)猊下の漢詩が見事な行書で綴られた六曲屏風があります。
「中秋月前連日雨 正至中秋天漸晴 小風徐来拂秋霧 暮色凉爽露華清
東林吐月々更明 此夕何夕最多清 床頭旦設杯中物 風流恨只乏詩鑒
独在香楼費吟句 何厭翫月至五更 天保二年夏四月 南山前寺務七三叟 丹涯」と、先代が書き残してくれていました。
ご参詣の折に、是非ゆっくりとご覧ください。
【國分寺通信】
朝な朝な 出づる日影は 我ために
こことをしふる 西の山端 (慈雲尊者和歌集より)
「極楽願求のこころを」と題する和歌となります。
毎朝拝む朝日に手を合わせ、一日の安穏を祈り、尊者が提唱された十善の生活の中で、十悪を避け、たくさんの徳を積む。そして、一日の終わりには沈む夕日に西方浄土の方角を教えられ、一日無事に過ごせたことに感謝の心を捧げつつ、合掌する。そうした極楽を思い信仰の生活を送る人の営みが自然と目に浮かぶ一句と言えましょうか。
○今年は御涅槃です。そして、平成六年以来のご本尊の御開帳を予定しています。当日は朝九時には御開帳し、夕方五時に扉を閉じる予定です。この間に、九時過ぎからお釈迦様の涅槃会を厳修し、十一時ころから稚児行列・御開帳記念法会、午後一時からは土砂加持法会、御法話となります。
この間にいつでも本堂に参詣できますので、ご都合の良い時間にお越しになり、是非お姿をご覧になりお詣りください。御稚児さんは、参道を歩き本堂内にお詣りします。たくさんのご参加をお待ちしています。若い方々へお声がけくださいますようよろしくお願い申し上げます。
◎ 坐禅会 毎月第一土曜日午後三時~五時
◎ 理趣経読誦会 毎月第二金曜日午後二時~三時
◎ 仏教懇話会 毎月第二金曜日午後三時~四時
◎ 御詠歌講習会 毎月第四土曜日午後三時~四時
●毎月二十一日は作務の日です。(午前中のお越しになれる時間自主的に境内などの清掃作業をしています。)
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