明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (3)
私はかつて新潟県に行ったとき、壁に大きな字で書かれた書軸が掛けられていたことがあります。これは五歳の子供が書いたもので、その運筆が見事で筆勢は力があり、実に大人の書家にも及ばないほどで驚いたことがあります。五歳といっても満三年の子供で、その運筆を習うと言ってもまだ一年足らずとのことでした。しかしその書は大人の書家の数年もの刻苦も及ばないほどで、私の見るところ、世の人のいわゆる原因結果をもって論じるならば、この訳が判ろうというものです。
今私の因果応報の真理をもって見るならば、決して怪しむべきことではなく、その生まれながらに書をよくする人は、いわゆる前生において、かつて書芸に勉めた原因が報いて今日の身に顕れたということでしょう。この理によってこれを見るに、今わが国の四千万の人々が、その苦を味わえるものと楽を味わえるもの、困窮せるものと栄達せるもの、賢こきものとそうでないもの、才能あるものとなきものと、各々四千万種に分かれる様相は、その原因にそれぞれ違いがあるからなのであります。
一切のこの世のことは、一事一物として同じものがないのは、この原因がみな様々だからなのです。だからその結果であるものごとはみなそれぞれに異なるのです。ですから、かの他宗教が一切の万物をもって一神の所造とするようなことは大いにこの真理に反するものであって、奇観を呈するものといえましょう。
今喩えをもってこれを示してみると、ここに金平糖を製造する器械があるとして、一つの銅の鍋の中に一度につくるとその数は百千万粒とはいえ、みな同質同形でその甘味もまた同じになります。決して大小長短はありません。このように百千万粒がこのように皆同じようになるのは他でもなく、その原因である製造する人も、器械も砂糖などの材料もみな同一のものをもってつくるからです。この百千万粒の原因がみな同じだからその結果においてもまた同質同形同一となり大小長短がないのです。もとより原因結果の天則であり、疑うべきことではありません。
ですから、かの天主は何をもって同一の神が同一の人種同一の天地空気世界をもって製造しながら、同一の人間をつくることができず、千万無量に差別されるのでしょうか。今一歩譲って、同一の日本人にあっては、同一の人種であるのでまさかその身の丈一丈六尺などということなく、ただ五六尺と大差なくよしとするとしても、そのこころ性質はみな少しも似通っているということはありません。その心のはなはだ甘いものがあれば辛いものもあり、はなはだにがいものも、渋いものも固いものもあります。薬となるものがあり、毒を含むものもあり、はなはだしいものは日本人にして日本人ではないようなものもあります。
どうしてこのような違いが生じるのでしょうか。一つの器械の中で一度につくる金平糖が辛かったり、苦かったりあるいは毒気を含むものがあればそれはまた奇妙なものといえましょう。物理に適さないこととはこうしたことでしょう。ですから、いまこの因果応報の真理、原因結果の天則をもってこれらを見ていくならば晴天に太陽を望むがごとく、まことに明瞭なことなのです。
このように深く因果応報の真理をあきらかなものと認識したならば、たとえ人が十善は行わないと言っても行はざるを得ず、十悪をなそうと努力したとしてもできないものなのです。ですからつまり善なることにはたとえ少しでも喜び励んで務め、悪いことにはわずかなことでも恐れて避けるべきなのです。このように了解したならば、この応報の真理ほど愉快に喜ばしいものはないのです。さすればこのことを父母親族はもちろんのこと、一郡一国に及ぼして、この世のすべての人たちにこの真理に安住してもらうように勉めるべきであり、それは教主釈尊の説かれた自利利他の善行による最も大事な因縁の教えなのであります。
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