住職のひとりごと

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煩悩について 2

2021年09月04日 10時14分41秒 | 仏教に関する様々なお話
煩悩について 2


前回煩悩について、お釈迦様の時代から部派仏教、そして大乗仏教にいたり、次第に増えるたくさんの煩悩を数え上げてその内容にも触れ見てきました。今回は、懇話会でのご質問「煩悩を取り去るにはどうしたらよいのか」ということについて、順に考えてまいりましょう。

まずお釈迦様の説かれる煩悩の断ち切り方について見てまいります。パーリ中部経典の第二・『一切煩悩経』に、あらゆる煩悩を防止する法門について説かれています。邪な思惟をする者には、煩悩が生じ増大するけれども、正しく思惟する者には煩悩は新たに生じず生じている煩悩は断たれるとあります。そして煩悩を防止する方法として、見ること、防護、受用、忍耐、回避、除去、修習の七種あるとしています。

では、まず①見ることによってどのように煩悩を断つのか。思惟すべきもの思惟すべきでないものをわきまえる聖者、賢者をこそ見て、その法を熟知すべきであると教えています。そうしなければ、例えば、過去の自分にとらわれ何になりどうなったか、未来の自分にとらわれ何になりどうなるか、現在の自分は何になりどうなるかと、このような思惟をなすことになり、私に我があるとかないとか、この我は常住で堅固で不変であるとの邪見が生じ、憂い悩み苦しみから解放されることはないと説かれます。

そして、外から五官に入る形あるもの、音、香り、味、皮膚の感触などによる刺激に欲を増大させる思惟をせず、来世での善趣への欲求を増大させる思惟をせず、無常なものを常とし、苦なるものを楽と見、無我なるものを我と捉え、不浄なるものを浄と思うことによって生じる無智なる思惟をしないことによって、煩悩が新たに生じないように、すでに生じている諸々の煩悩は断つべきであるとあります。そして、これは苦である、これは苦の生起である、これは苦の滅尽である、これは苦に至る行道であると、四聖諦を正しく思惟する者には身見、疑、戒禁取が断たれると説かれています。

次に、②防護によってどのように煩悩を断つのか。眼耳鼻舌身意の六根に対する外界からの刺激に煩悩や破壊、苦悩が生じないように防護することです。好ましいものを見たり聞いたり味わうことで欲しい、もっと沢山という思い、煩悩を生じさせ、逆に好ましくないものなら怒りや嫌悪の心が生じ、過剰となればそれがもとで心身に影響したり、社会生活に支障をもたらす原因ともなるものです。

例えば対象が目(色)に入り認識(識)し、それを感じ取り(受)、それが何かととらえ(想)、それをどうかしたいと意欲(行)をもつ、これらの過程(五蘊)で欲や怒りなど様々な煩悩を生じさせていくわけですが、ただ見る聞く嗅ぐ味わう触れるにとどめ、そこに何の煩悩も起こさないように心を観察し防護するということです。そのためには対象となりがちなものをどう捉えるべきかをわきまえておくことも大切となるわけですが、それは次の受用にヒントがあります。

受用とは何か。煩悩を起こすもととなりがちな、着るもの、食べるもの、住まい、薬について、それらをどのように捉え受け取るのかということです。衣は、寒さを防ぎ、虻や蚊、風邪や熱、蛇類に触れることを防ぐため、陰部を覆うためでしかないとあります。これは出家比丘のための説明ではありますが、本来着るものとはそうあるべきと考え、形や豪華さ色などにとらわれることで煩悩や破壊苦悩をもたらすと考えられています。

食は、戯れ、心酔、魅力、美容のためでなく、身体の存続、維持のためであり、空腹を克服し、食べ過ぎの苦痛を起こさず、仏行を支えるために食を受用する。住まいは、寒さ暑さを防ぎ、虻や蚊、風や熱、蛇類に触れることを防ぐためであり、薬は、病気の苦痛を防ぎ、苦痛がなくなるためであるとしています。

忍耐によって断たれる煩悩とは何か。寒さ、暑さ、飢え、渇きに耐えること、虻や蚊、風邪や熱、蛇類に触れることに耐えること。罵倒、誹謗の言葉に、また苦しい、激しい、粗悪な、味気ない、不快な、身体の感受に耐え忍ぶこと。こうしたことに少しでも不平不満を持つならば諸々の煩悩が生じ破壊と苦悩をもたらすとあります。

回避によって断たれるべき煩悩とは何か。狂暴な馬、牛、犬、蛇を避け、切り株、棘の地、穴、断崖、沼、溝など危険な場所を避ける。座るべきでないところに座ったり、行くべきでない悪しきところに行ったり、悪友に親しんだり、そのような煩悩や危険をもたらす場に至ることを回避することで煩悩や破壊をもたらす苦悩が生じることはないと説いています。

除去によって断たれるべき煩悩とは。欲の考え、怒りの考え、害意の考え、不軽蔑に関わる考え、利得尊敬名声に関わる考え、同情に関わる考え、不死の考え、地方の考え、親族の考えなど不善の考えを認めず、断ち除き、終わりにし、除去することで煩悩や破壊をもたらす苦悩が生じることはないとあります。

修習によって断たれるべき煩悩とは。ここでは七覚支という最も高いレベルの修行法が記されており、それは、念・択法・精進・喜・軽安・定・捨の七つの悟りを得るための条件とも言われるものです。

念覚支とは、四念処(いまある身・感覚・心・真理)について細かく観察すること。
択法覚支とは、その観察について真実なるものを選び、他を捨てること。
精進覚支とは、前の二つの修行に集中努力すること。
喜覚支とは、実践することで精神的喜びが生じること。
軽安覚支とは、心身を軽やかに安らかにすること。
定覚支とは、一つの対象に心を集中させること。
捨覚支とは、対象へのとらわれを捨て、苦楽を離れて中道を歩むこと。

これらは正しく観察し、世間を離れ、貪りを離れ、悟りに基づき、煩悩が遮断されつつ修習されるものであるとあります。

これら七種の煩悩を防止する法門によって諸々の煩悩が断たれるならば、その人は渇愛を断ち、束縛を取り除き、正しく慢心を見て、苦の終わりを作った者であると、この経を締めくくっています。

このように、仏行に生きる者が日常に出くわす様々なケースを検討し、それによって煩悩が生じ、苦悩にいたることがないように、どのような手立てによって気をつけるべきであるかという観点から説かれていることがわかります。

それでは、次に、五世紀中頃に世親によって著された教理綱要書『倶舎論』に説く煩悩の対治法について見ていきます。分別随眠品第五に「煩悩の断滅」と題する章があり、そこには、対治に四種ありとして、断、持、遠、厭とあります。

とは、六根に入る六境を好ましいものと捉えることにより渇愛が生じ苦しむ過程を遍知して煩悩を断じます。
は、その断じている状態を持続すること。
とは、煩悩を生ぜしめる対象を遠ざけること。
とは、迷い煩悩に取り巻かれ禍を生じることを予見して厭い離れること。

断は、パーリ中部経典『一切煩悩経』に説く①見ること②防護に該当し、持は、③受用④忍耐、遠は、⑤回避⑥除去、厭は、⑦修習となるのでしょうか。

前回述べたとおり、戒を持して修行を重ね、四双八輩というような聖者の階梯を進むことで段階的に煩悩は消えていくと教えられており、阿羅漢果に至ればすべての煩悩は消滅していることになります。専門的な修行をする環境にない私たちにおいても、これらを参考に、ことあるごとに七つの煩悩防止の教えを思い出し、煩悩を避ける生活を心掛けてまいりたいと思います。

そのためには、煩悩に限らず、仏教の教え全般について学び、善友と親しみ、心の修行を実践することを生活の基本に置き、心を防護して余計なことを思惟せず、慈悲の瞑想を心掛け、坐禅瞑想して世間を離れた心の静寂を知り、善行功徳を積みつつ精進することが肝要であろうと思います。ともに励んでまいりましょう。
 

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