住職のひとりごと

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明治の傑僧・雲照和上の「十善の法話」現代語訳 (1)

2023年11月15日 08時43分48秒 | 仏教に関する様々なお話

雲照大和上遺墨展によせて - 住職のひとりごと

雲照大和上を学ぶ会の松本宣秀師が23日来訪された。来月14日から18日まで倉敷市立美術館にて、倉敷仏教会主催「雲照大和上遺墨展と講演・明治150年を雲照大和上に問う...

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『十善の法話』 東京十善会蔵版  明治二十八年四月十五日十善会福田慈海編輯発行 

『十善の法話』 雲照和上の御講演 (東京三浦家において)

さて、十善(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見)とは、人の人たる道であり、一切万善の根本道徳の標準であります。仮にも人の道徳の標準であるならば、世界のどこにあっても修めなくてはならないものです。富める人はますます修すべきであり、貧しい人もますます行わなければならない生き方であります。ですが、この十善は自然に表れる徳であり、この世の真理が顕われるものであるので、ことさら仏教の十善ということではありません。仮にも人として生まれ人としてあるからには、この十善に依らねばならないのです。

君主に仕えて忠誠を尽そうとする者、父母に仕えて孝をなそうとする者、官僚となりて人々を指導する者、教師となって生徒を教育する者、上は天皇陛下をはじめ、下は一般市民に至るまで、等しく行わねばならないものはただこの十善のみなのです。ですからこの十善を他にして忠も孝も願っても決して得られるものではないのです。

私が以前京都から東京に来るときに、船中で津田何某という人があり、私に、自分は幼少の頃西洋に行き数年過ごしたことがあり、外国の言葉などに不自由はないが、自分の国のことを知らないのです。あちらにある時友人が私に、日本の宗教の教えはどのようなものかと問われましたが、答えられず赤面したようなことなのです。今仏教を学ぼうとするなら何宗によるなら仏教の大意を知ることができるでしょうかと。

私は答えるに、いま諸宗の中の何宗を学んでも仏教の大意、そのおおよそのことを知ることはできないでしょう。どうしてかと言えば、例えばここに樹木あって、東にある枝は枝葉が東を向いて西には向かわず、西にある枝は枝葉がみな西に向かって東には向いていません。南北の枝葉もまた皆同様です。もしも人がその枝葉に、その樹木の方向を問うならば、東の枝はこの木は東の方向に向かっていて西には向かわないと言うでしょう。西の枝はこの木は西の方向に向かっていて東には向かわないと言うでしょう。南北の枝もまた同じように言うことでしょう。

一日中このことを尋ねていても結局樹木の方向を知ることはできません。ですが、もしもその枝葉を捨てて、その根幹について見てみるならば木の中心は上に立ち上がり空に向かっている様が見えてきます。すると東に出る枝もあり、西に向いている枝もあることがわかります。あるいは、南北に出ている枝もあります。しかも東西南北の各々向かう方向は異なりますが、その幹は一つであって、背いて離れることもないことが知られるのです。もしもその根本を捨てて、むだに枝葉について見るならば東西南北それぞれ誤り、ついにその樹木の全体を知ることはできないでしょう。

このことと同様に、もしも仏教の根本を知らないのに、たとえ八宗九宗を研究しても、またついに仏教のおおよそのことを知ることはできません。どうしてかと言えば、甲という宗派は念仏によらなければ成仏することはできないとして、題目など唱えてはいけない、唱えれば妨げとなる行となって往生できなくなると。乙なる宗派はいや題目でなければ成仏しない、念仏すれば題目を唱える功徳が消えてしまうと。

丙なる宗派は念仏を唱えたり題目を唱えたりというのはこれはみな顕教の説くところであって、今生で成仏する教えではないのです。ひたすら真言を唱えなさいと。あるいは、念仏も題目も真言もみなだめであると、本当の自分の、心の中の仏心を見つめそれになりきることこそ、この道の真実であるといい、ただ黙して坐りなさいと。つまり甲のよしとすることは乙が否定し、乙の正しいとすることを丙は正しくないとする。一日中八宗を探し九宗の門を叩くとも、ついに仏教の何たるかを知ることができないばかりか、疑念を抱いて、かえって学ばない方がよかったということになるでしょう。

では、いかにしたらよいのでしょうか。それは、ただその根本を求めればよいのであります。もしもその根本のところがわかるならば、枝葉はおのずから明らかになり、天台を学ぶもよし、そうすれば天台の教えから仏教の本来のあり方がわかることでしょう。あるいは禅や浄土の教えを学ぶのもよいでしょう。禅浄土の教えから仏教の本来がわかるというものです。さらに、甲の言うことも乙の言うことも、それぞれの主旨がわかり互いに妨げるものでもなく、甲をまっとうすることも仏教、乙をまっとうすることも仏教であるとわかります。あたかも東の枝もあって、西の枝もあることで同じ一樹木であるようなものです。つまりそれは他でもなく、仏教の根本のおおよそを了解することです。

その根本とは何かといえば、十善十悪因果応報の真理のことであります。お釈迦様が三大阿僧祇と言われる果てしない時間の間修行してこられたのもこの真理を研究し体得するためだったのです。五十年余りの説法である八万四千の法門もこの真理をおし広げて説明し、展開したものであって、この天地世界に起こる様々な出来事、苦も楽も、窮することも達成されることも、各々その違いが起こる所以、広く十方世界にわたり様々に異なる理由を探求するとき、この真理に依らなければ到底知りえないのであります。


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