住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

万燈会法話③

2018年08月26日 15時40分32秒 | 仏教に関する様々なお話
三日目にお訪ねしたお寺では、やはり多くのお参りがあり、本堂よりも境内のテントの中に沢山の檀信徒が椅子に掛けてお参りされていた。何か質問があればと申すと、早速に、「木魚はなぜ魚なのか」との質問があり、「もともと禅宗寺院で、実際に魚の形をした木製の叩いて時を知らせる木魚の原型があり、それがのちのち音を響かせる為に形が丸くなり、経を唱えるときに調子を取る現在の木魚になったのです」と申すと、「なぜ魚がもちいられたのか」とのことで、法話後に法会に参加された他のお坊さんに教えられたところによると、魚は寝るときにも目を開けているところから、魚は眠らないものと考えられていたようで、修行中に眠くなる修行者を戒める為に魚が用いられたとのことでした。

次には、「なぜ仏飯には箸をつけないのか」との質問がありました。「御霊供膳には箸をつけますが、普段仏壇の仏様や先祖のお位牌に御供えする仏飯には箸をつけません。それは、仏飯を差し上げる心、供養する心、日頃の感謝であったり、お礼の心を差し上げているのであって、実際にご飯を食べるのではないことから普段は箸をつけていないのだと思います。」

「その他に質問がなければ昨日までにお話ししたことなどを織り交ぜて、お話し申し上げます。一日目には餓鬼とは何か、二日目には私たちは死後生まれ変わるのかという質問があり、お話し申し上げました。

生まれ変わりの研究というのは日本では余り知られていませんが、実は世界的に進んでおりまして、アメリカのヴァージニア大学では、二千件を超える生まれ変わりの事例が蓄積されているとのことです。自分は前世では、どこどこ村の何という人で、親の名前や奥さん子どものことまで話すので、実際にその村に調査に行くと本当に近年に亡くなったその人物が存在したというような事例です。インドなどでは村が離れていたら言葉も違い、習ってもいない親も知らない言葉を話し出す子どももいたりして、生まれ変わりということがごく当たり前に思えるそういう文化圏もあるのです。

ですが、日本でも、池川明さんという東京の産婦人科医の先生が『子どもは親を選んで生まれてくる』(日本教文社)という本を書かれています。日本人の子どもでも二三歳になって言葉が話せるようになると前世の記憶を思い出したり、お母さんのお腹の中にいたときの記憶や生まれるとき産道を通ってくる記憶を語り出す子どもがいるのだと沢山の事例が報告されています。

僕がお腹の中にいるときお母さんはビールを飲んでいたねとか、お腹にいるときお母さん結婚式してたね、ということまで話す子がいるとも書かれています。そして、その多くの子が、雲の上の方から、このお母さんがいいと自分で決めてそのお母さんのお腹の中に入っていくんだということです。

仏教は悟りを求める教えです。悟りとは何か、解脱とも言われるように、なかなか思い通りにならない苦戦を強いられる人生の苦しみからの解放であり、何度も生まれ変わる苦しみ多い輪廻から脱することです。それは、お釈迦様のように、すべてのことに知悉して、何があっても何が無くても動じない、いつも平穏で生きとし生けるものに優しい慈しみの心でいられる、そんな完璧な幸せな心を得ることです。

ですから、仏教とは、はじめからこの輪廻、生まれ変わる、終わらない生命の連続から解き放たれる、解脱を求めるという、そのための教えであると言うことができます。・・・」

そして、ここからはまた次回の話として話さなかったのですが、余談として続けてみますと。お釈迦様の悟り、それは仏教の原点ともいえる体験ですが、その悟りを得る晩にお釈迦様はどのような思索のもとに悟られたのかということについて話してみたいと思います。これはとても大事なことのはずなのに、なぜか日本の仏教書にはまるっきり書かれていません。英文のオックスフォード新書というシリーズの中の『Buddhism A Very Short Introduction』第三章Karma and Rebirthの冒頭にさえきちんと書かれているのに、誠にふがいないことです。

日本では仏教さえもが正しくきちんと伝えられていないということです。それこそ忖度、宗派になのか社会の風潮になのかはわかりませんが、残念なことです。これはパーリ語という初期仏教の経典語により残された記録です。『中部経典・第36大サッチャカ経』(大蔵出版)などに収録されています。この長い経典の中に、お釈迦様が自ら悟りに至った晩の瞑想の内容について語る場面があります。

六年もの苦行によっても悟れず、粗食を口にして体力を整え、昔体験した禅定こそが悟りへの道であると考えられ、ある晩に第一禅定から第四禅定へと深い瞑想状態に入っていかれます。そして、まず、自らの過去の生涯について心を向けると、それぞれの時の名前や身体や食べ物、苦や楽、寿命、そこから死んであそこに生まれたということまで思い出したというのです。何回も何回も百生、千生、十万生も生まれ変わってきたことを回想されたということです。これによって無明が滅ぼされ明智が生じたとあります。

次に、他の者たちの生まれ変わる様子を天眼という超能力によって見たということです。劣った者も優れた者も、美しい者も醜い者も、幸せな者も不幸せな者も、みなその業に応じて生まれ変わっていく様子をご覧になったのでした。身と口と心による悪行があり、聖者を誹謗し、邪な見解をもち、そうした邪な見解による業を引き受けている者は、死後、苦処・悪道・破滅の地獄に生まれ変わり、逆に、身と口と心による善行があり、聖者を誹謗せず、正しい見解を持ち、正しい見解による業を引き受けている者は、死後善道の天界に生まれ変わった様子など、沢山の生きとし生けるものたちが業に応じて生まれ変わるのを知ったとあります。

さらに、煩悩を滅する智について心を傾注すると、「これは苦である、これは苦の生起である、これは苦の滅尽である、これは苦の滅尽にいたる行道である」「これらは煩悩である、これは煩悩の生起である、これは煩悩の滅尽である、これは煩悩の滅尽にいたる行道である」と如実に知ったとあります。そして、このように知ると欲の煩悩、生存の煩悩、無明の煩悩からも心が解脱し、解脱したという智が生じて、「生まれは尽きた、梵行は完成された、すべきことはなされた、もはやこの状態の他にはない」と自ら知ったということです。

最高の悟りを得られたときの感慨ですが、この「生まれは尽きた」という一言が、輪廻の世界からの解放を意味しているのであり、六道の世界から抜け出て、死後は再生しないということを示しています。仏教の教えの根幹とも言える大切な部分のお話です。これを取り違えると仏教とは何なのか、いかなる教えかということがあやふやになり、何が仏教かわからないということになります。たかが輪廻転生、インドの古来の風習を説法のために採用したなどという説を吹聴していては、仏教のなんたるかは見えてこないでしょう。いかに生きるべきか、何のために生きているのか、しあわせとは何か、仏教を信奉する者として、そうしたことを考えるためにも仏教の生命観、世界観が不可欠になることは言うまでもないでしょう。



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