太山寺の通夜堂はこぎれいな二間ほどの建物だった。トイレと簡単な流しだけではあるが、電気ポットと急須も置かれていた。布団も押し入れを開ければあったのだろうが、いつもの寝袋を拡げて一畳分のスペースだけで事足りた。翌朝は熱いお茶を頂いて、本堂へ向かう。通夜堂から一度外に出て、手水鉢を使い振り向くと、石段の上に国の重要文化財の指定を受けている仁王門が聳えていた。
五十二番太山寺は、仏教にはじめて帰依された用明天皇の頃に、豊後の長者が高浜沖で難破したとき観音菩薩に救われ報恩のために一宇を建立したのが始まりと言わる。後に聖武天皇の勅願で行基菩薩が十一面観音像を刻み本尊にしたという。鎌倉末期の建築で県下最古の国宝本堂の正面厨子には、七体の十一面観音像が収められている。いずれも、後冷泉、後三条など歴代天皇の勅願で造られた1.5メートルもある御像で、すべて重要文化財に指定されている。
本堂外陣の土間で一人立って理趣経一巻。しんと静まりかえった厳かな贅沢な時間を感じる。外に出ると二、三人の地元の人たちの参詣と出会った。境内は小高い台地になっていて、そこからさらに少し石段を登ると大師堂がある。大師堂では心経一巻。大きな声で唱える。境内には現代を感じさせるものがない。古びた風情に時間が止まってしまったような空間の不思議を感じさせている。錆びて茶色くなった、寺内行事などを記した掲示板を眺めつつ、太山寺を後にする。
来た道を戻り国道に出る。国道を左に海を眺めながら北上する。北条の町を過ぎたあたりで山側の小道に入る。鎌大師と矢印があったためである。鎌大師は、小さな番外札所ではあるが、ここには妙絹さんという尼さんが居られると聞いて訪ねたかったのである。鎌大師は、弘法大師が巡錫の折、鎌をもって泣きながら草を刈る少年がいて訳を聞いたところ、疫病で姉が死に弟も死にそうだという。そこで大師は、その鎌で自分の像を刻み拝むように言ったところ、弟も村人たちも快癒したと言われ、そのご像を祀りお堂が出来たのだという。
しばらく山に入り進んでいくと大きな松の木があり真新しいお堂と庫裏が建っていた。知人が訪ねたときには底の抜けるような建物に居られたと聞いていたので数年のうちに何もかも建て替えられたようだった。お四国病にかかり、ある時期になると四国に行きたくなって気がつくと四国を歩いていましたと語る妙絹尼は当時七十才くらいか少しそれより若かったのであろうか。
上品な物腰で、昔からの知り合いのようにお茶をすすめて下さり、語られた。妙絹さんの遍路はすべて歩くのではなく、女一人旅ということもあり、離れたところへは電車があれば乗るしバスにも乗られながら、その他はなるべく歩いて遍路するというとても自然な遍路旅をされていたそうだ。それでいつの間にか縁あってここに住み着かれたのだとか。
それにしてもこの鎌大師を再興されたのはこの方の魅力、お四国への信仰がかなえさせてくれたものとも言えようか。インドで出会った知人の話をするとよく憶えておられて、自身も若いときにはパキスタンで日本企業の仕事をされていて、懐かしいインドの言葉をいくつか口にされていた。『人生は路上にあり』という、愛媛大学でお話をされた際の講演録を頂戴した。
鎌大師を昼前にはお暇して、山道からまた国道に戻り、ひたすら国道を進む。途中瓦の町菊間町を通り、ところどころ各地のお寺の佇まいなどを眺めながら、今治の町の入り口に位置する五十四番延命寺に着いたのは午後四時過ぎだった。延命寺も行基菩薩によって不動明王が刻まれて祀り開基されたお寺で、その頃は海上を見渡せる近見山山頂にあったという。弘仁年間に嵯峨天皇の勅願で弘法大師によって再興された際に、五十三番と同じ円明寺と号した。江戸時代まで同じ名前の札所が並んでいたのだが、五十四番当寺の俗称を明治以降名のるようになったのだとか。
大きな池が左に現れると、藤堂高虎が伊予二〇万石の居城として築城した今治城城門だったという山門が姿を現した。山門からサツキに囲まれた参道を進む。左側に土産物屋が入り賑やかな境内。正面には唐破風の大きな庇が印象的な本堂に参る。弘法大師再興の後も何度か兵火に焼かれ現在の地には享保十二年(1727)に再建を果たしているから三〇〇年ほどの建物だが、中も暗く威圧感を感じさせている。夕刻に差しかがっていることもあり、急いでお経を唱え、本堂左側の石段上の大師堂に参る。
今治に来たら以前から高野山別院を訪ねようと思っていたので、そそくさと延命寺を後に、遍路道へ。延命寺からは小高い墓地が両側に広がる道を通り、国道に出る。高野山今治別院は、次の札所五十五番南光坊のすぐ隣に位置していると聞いたので、とにかく遍路道を進む。民家や商店がなくなり、大きな木に囲まれた別宮神社が右側に見えてきた。境内を横切り、右側に南光坊を見ながら、別院へ。別院は鉄筋コンクリートの近代的な三階建ての本堂の建物と、 それと別に庫裏があり、幼稚園の建物も大きい。こちらには高野山専修学院の同期生が役僧をされていることもあって、突然の訪問にもかかわらず、歓待を受けたのだった。・・・・
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五十二番太山寺は、仏教にはじめて帰依された用明天皇の頃に、豊後の長者が高浜沖で難破したとき観音菩薩に救われ報恩のために一宇を建立したのが始まりと言わる。後に聖武天皇の勅願で行基菩薩が十一面観音像を刻み本尊にしたという。鎌倉末期の建築で県下最古の国宝本堂の正面厨子には、七体の十一面観音像が収められている。いずれも、後冷泉、後三条など歴代天皇の勅願で造られた1.5メートルもある御像で、すべて重要文化財に指定されている。
本堂外陣の土間で一人立って理趣経一巻。しんと静まりかえった厳かな贅沢な時間を感じる。外に出ると二、三人の地元の人たちの参詣と出会った。境内は小高い台地になっていて、そこからさらに少し石段を登ると大師堂がある。大師堂では心経一巻。大きな声で唱える。境内には現代を感じさせるものがない。古びた風情に時間が止まってしまったような空間の不思議を感じさせている。錆びて茶色くなった、寺内行事などを記した掲示板を眺めつつ、太山寺を後にする。
来た道を戻り国道に出る。国道を左に海を眺めながら北上する。北条の町を過ぎたあたりで山側の小道に入る。鎌大師と矢印があったためである。鎌大師は、小さな番外札所ではあるが、ここには妙絹さんという尼さんが居られると聞いて訪ねたかったのである。鎌大師は、弘法大師が巡錫の折、鎌をもって泣きながら草を刈る少年がいて訳を聞いたところ、疫病で姉が死に弟も死にそうだという。そこで大師は、その鎌で自分の像を刻み拝むように言ったところ、弟も村人たちも快癒したと言われ、そのご像を祀りお堂が出来たのだという。
しばらく山に入り進んでいくと大きな松の木があり真新しいお堂と庫裏が建っていた。知人が訪ねたときには底の抜けるような建物に居られたと聞いていたので数年のうちに何もかも建て替えられたようだった。お四国病にかかり、ある時期になると四国に行きたくなって気がつくと四国を歩いていましたと語る妙絹尼は当時七十才くらいか少しそれより若かったのであろうか。
上品な物腰で、昔からの知り合いのようにお茶をすすめて下さり、語られた。妙絹さんの遍路はすべて歩くのではなく、女一人旅ということもあり、離れたところへは電車があれば乗るしバスにも乗られながら、その他はなるべく歩いて遍路するというとても自然な遍路旅をされていたそうだ。それでいつの間にか縁あってここに住み着かれたのだとか。
それにしてもこの鎌大師を再興されたのはこの方の魅力、お四国への信仰がかなえさせてくれたものとも言えようか。インドで出会った知人の話をするとよく憶えておられて、自身も若いときにはパキスタンで日本企業の仕事をされていて、懐かしいインドの言葉をいくつか口にされていた。『人生は路上にあり』という、愛媛大学でお話をされた際の講演録を頂戴した。
鎌大師を昼前にはお暇して、山道からまた国道に戻り、ひたすら国道を進む。途中瓦の町菊間町を通り、ところどころ各地のお寺の佇まいなどを眺めながら、今治の町の入り口に位置する五十四番延命寺に着いたのは午後四時過ぎだった。延命寺も行基菩薩によって不動明王が刻まれて祀り開基されたお寺で、その頃は海上を見渡せる近見山山頂にあったという。弘仁年間に嵯峨天皇の勅願で弘法大師によって再興された際に、五十三番と同じ円明寺と号した。江戸時代まで同じ名前の札所が並んでいたのだが、五十四番当寺の俗称を明治以降名のるようになったのだとか。
大きな池が左に現れると、藤堂高虎が伊予二〇万石の居城として築城した今治城城門だったという山門が姿を現した。山門からサツキに囲まれた参道を進む。左側に土産物屋が入り賑やかな境内。正面には唐破風の大きな庇が印象的な本堂に参る。弘法大師再興の後も何度か兵火に焼かれ現在の地には享保十二年(1727)に再建を果たしているから三〇〇年ほどの建物だが、中も暗く威圧感を感じさせている。夕刻に差しかがっていることもあり、急いでお経を唱え、本堂左側の石段上の大師堂に参る。
今治に来たら以前から高野山別院を訪ねようと思っていたので、そそくさと延命寺を後に、遍路道へ。延命寺からは小高い墓地が両側に広がる道を通り、国道に出る。高野山今治別院は、次の札所五十五番南光坊のすぐ隣に位置していると聞いたので、とにかく遍路道を進む。民家や商店がなくなり、大きな木に囲まれた別宮神社が右側に見えてきた。境内を横切り、右側に南光坊を見ながら、別院へ。別院は鉄筋コンクリートの近代的な三階建ての本堂の建物と、 それと別に庫裏があり、幼稚園の建物も大きい。こちらには高野山専修学院の同期生が役僧をされていることもあって、突然の訪問にもかかわらず、歓待を受けたのだった。・・・・
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