救われるということ
先月の仏教懇話会で、DVD『親鸞・白い道』(三國連太郎監督作品)を皆さんとともに拝見しました。今日では大きな宗派の開祖として祀りあげられている祖師ではありますが、そのどん底の生活ながら己の信じる教えを説き続けた生涯の、一時代を切り取った作品でした。
時代背景人間関係も繋がらないいままに見終わり消化不良ではありましたが、苦労された祖師があり今があることを忘れてはいけないのだと思えました。
鑑賞会の後に、「仏様を信じれば本当に救われるのでしょうか」と問われる方がありました。時間もかなり超過していたこともあり、きちんとお答えする間もなく終えてしまいましたが、この一ヶ月、ずっとそのことを考え続けていました。
仏様を信じるとはどんなことだろうか、救われるとはどんなことだろうかと考えました。漠然とそう思っているようにも思えますし、しかしそれは本当に切実な問題なのだろうと思えます。
仏様を信じるとは、仏様の何を信じるのでしょうか。仏様という存在でしょうか。仏様の慈悲心でしょうか。それともその教えでしょうか。
仏様というものに対する私たちの漠然とした思いは、もう少しはっきり言うとやはりそのお力、救って下さるであろうと思えるその働きということではないかと思います。仏様のそうしたやさしい心を信じるということであるならば、何もしなくても救って下さるのだろうか、どのようにしていたら仏様はお救い下さるのかと考えねばならないのではないかと思います。
また、仏様の教えを信じるということになれば、お釈迦様がどんなことをお話になられたのか、どんなことを私たちに願っているのかということを知らねばなりません。
お釈迦様は、この世の中はどういうものか、私たちが生きるとはどのようなことで、なぜそのような不安の中にあるのか、その心を安らかにするためにはどのように考え、どのようにしたらよいかということを教えられています。無常、縁起、四諦、十善などなど。
そして私たちに早く自分のところへ来ること、つまりは悟ることを願っています。日々少しずつでも研鑽し近づいてくるように願われています。
普通、私たちが何かを得ようと思ったら、金品なり、何かすることによって、実現する、かなえられるということになります。人に何かをお願いすることを考えても、それなりに筋を通し礼を尽くしてお願いするということが必要でしょう。
仏様に何かお願いする場合でも、やはり何か必要でしょう。お供えをしたり、お経を唱えたりということはだからこそなされるものなのだと思います。お経を唱え、教えを学び、一心にお唱えするところに心静まり、心清まる。
つまり信じるということは、そうした自らの心が改まる、清まる、変質することを伴うものなのだとも言えます。それこそが信じるということなのであろうかと思います。
それでは、救われるとは何でしょうか。どうなれば救われたと私たちは思えるのでしょうか。死後の救済ということでしょうか。死んでから仏様のところへいくということでしょうか。死後、仏国土にいけたら幸せでしょうか。仏様の世界とはどんなところなのでしょうか。浄土三部経にはきらびやかな荘厳世界が描かれていますが、私たちはそこへいけたら本当に幸せなのでしょうか。
仏の世界、それは悟りの境地のことだそうです。パラダイスのような、夢のような、何でも願い通りになるような快適な世界ではなく、逆に何もなくても憂いのない世界と表現した方がよいのだと思います。
それは心の次元の話ですから、仏様の世界というのはとても清らかで簡素な品行方正な厳粛な世界なのだろうと思います。私たちの心が想像する快適な世界と思ってしまうと少し違うのだと思います。仏様方にとって快適な世界なのでしょうから。
たとえば、今でも、ものすごく心を清らかなものにするために、山に入り修行を重ねる人たちがいます。スリランカやミャンマー、タイなどでは一日瞑想ばかりして、毎日毎日それだけの生活をされている人たちがいます。その人たちは何もなくても、瞑想して心が穏やかで静かな毎日が心地よいのです。一時的にそんな生活に憧れてその場にいれたとしても、一週間、一ヶ月が普通の人には眼界ではないでしょうか。
一生そこで、周りの人たちの供養を受けていられる人たちの心はどれだけ高次元のものなのか想像もつかないのです。仏様の世界とはそうした人たちよりもさらに心のレベルの高い人たちの世界だと思ったらよいのではないでしょうか。
ですから、簡単に仏様の世界にいきたい、安楽な世界にいきたいと思っても、ちょっと普通にいられるところではないと思った方がよいのではないかと思えます。それにかなう心を作らねばいられない、安易に立ち入ることが出来ないところとも言えるのではないでしょうか。
ですから、死後のことよりも、今いるこの世界で、私たちのこの居やすいところで、少しでも救われてあるようにした方がよいのかもしれません。今が不安でつらいならば、死後の世界もその不安のままにそれに相応しいところに身罷ることになります。
それでは今が安心できるようにするにはどうしたらよいのでしょうか。安心できるとはどういうことでしょうか。
安心とは、今のこの自分、そのままで良いと思えることではないかと思います。何の心配することもなく、憂えることもなく、苦しみもなく、不安もなく。満ち足りていると思えること。それは、とても難しいと思えるかもしれません。
誰にも不安があり、心配があり、憂いがあるものなのかもしれません。ですが、たとえ何かあったとしても、それで良い、そんなことがあっても当然だと、世の中とはそんなものですと思えるならば、それはそれで自分にとっては今の自分で良いのだと思えるのではないでしょうか。
逆に、何かあると、ちょっとでも不満なことがあると面白くない、つまらないと思ってしまったら、どんなことがあっても喜べず、幸せは永遠にやってきません。
お釈迦様がこの世の中は苦しみばかりですよと言われるように、大変なことばかりなんだと諦めて、何があっても、それで当然なんだと思えたら、何があってもその人はいつも平静な心でいられますし、そうした自分でいいんだとも思えるでしょう。
そして、少しでも、お経などを唱えたり、お釈迦様の教えを学んだり、日々の生活の中からその教えに得心がいく、そうしていろいろな人や者たちのお蔭で自分は生かされている、大きなそうした存在に自分は支えられているのだと思えるとき、心は清まり、心改まっている自分にも気づくことが出来るでしょう。そのとき、既にその人は救われてあるのではないでしょうか。
みんな誰もが、毎日大変なことばかりの世の中です。それでもやらなければ生きていけません。言いたいことが山ほどあっても、言ってどうなるものでもないのですから、いずれ何も思わないようになるでしょう。
何も思わず毎日頑張っている自分にこれでいいのだと思える。そうしてあるからこそ生かされている自分に気づく。今に満足し安心し、自分に納得する。死後のことにも思い煩うこともなく、そうして大切に一日一日を生きたらよいのだと思います。
それはそうそう簡単ではないのかもしれませんが、日々飽きずに、大変だとは思っても、嫌だと思わずにやり遂げている、そんな自分を誇らしく思え、そんな自分だからこそまた生かされているんだと思えるならば、それこそが救いなのではないでしょうか。そうして、その人はすでに仏様に救われてある自分に気づくことでしょう。
ですから、今こうしてあることがすでに救われているのだと思えるようでありたいものだと思うのであります。
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先月の仏教懇話会で、DVD『親鸞・白い道』(三國連太郎監督作品)を皆さんとともに拝見しました。今日では大きな宗派の開祖として祀りあげられている祖師ではありますが、そのどん底の生活ながら己の信じる教えを説き続けた生涯の、一時代を切り取った作品でした。
時代背景人間関係も繋がらないいままに見終わり消化不良ではありましたが、苦労された祖師があり今があることを忘れてはいけないのだと思えました。
鑑賞会の後に、「仏様を信じれば本当に救われるのでしょうか」と問われる方がありました。時間もかなり超過していたこともあり、きちんとお答えする間もなく終えてしまいましたが、この一ヶ月、ずっとそのことを考え続けていました。
仏様を信じるとはどんなことだろうか、救われるとはどんなことだろうかと考えました。漠然とそう思っているようにも思えますし、しかしそれは本当に切実な問題なのだろうと思えます。
仏様を信じるとは、仏様の何を信じるのでしょうか。仏様という存在でしょうか。仏様の慈悲心でしょうか。それともその教えでしょうか。
仏様というものに対する私たちの漠然とした思いは、もう少しはっきり言うとやはりそのお力、救って下さるであろうと思えるその働きということではないかと思います。仏様のそうしたやさしい心を信じるということであるならば、何もしなくても救って下さるのだろうか、どのようにしていたら仏様はお救い下さるのかと考えねばならないのではないかと思います。
また、仏様の教えを信じるということになれば、お釈迦様がどんなことをお話になられたのか、どんなことを私たちに願っているのかということを知らねばなりません。
お釈迦様は、この世の中はどういうものか、私たちが生きるとはどのようなことで、なぜそのような不安の中にあるのか、その心を安らかにするためにはどのように考え、どのようにしたらよいかということを教えられています。無常、縁起、四諦、十善などなど。
そして私たちに早く自分のところへ来ること、つまりは悟ることを願っています。日々少しずつでも研鑽し近づいてくるように願われています。
普通、私たちが何かを得ようと思ったら、金品なり、何かすることによって、実現する、かなえられるということになります。人に何かをお願いすることを考えても、それなりに筋を通し礼を尽くしてお願いするということが必要でしょう。
仏様に何かお願いする場合でも、やはり何か必要でしょう。お供えをしたり、お経を唱えたりということはだからこそなされるものなのだと思います。お経を唱え、教えを学び、一心にお唱えするところに心静まり、心清まる。
つまり信じるということは、そうした自らの心が改まる、清まる、変質することを伴うものなのだとも言えます。それこそが信じるということなのであろうかと思います。
それでは、救われるとは何でしょうか。どうなれば救われたと私たちは思えるのでしょうか。死後の救済ということでしょうか。死んでから仏様のところへいくということでしょうか。死後、仏国土にいけたら幸せでしょうか。仏様の世界とはどんなところなのでしょうか。浄土三部経にはきらびやかな荘厳世界が描かれていますが、私たちはそこへいけたら本当に幸せなのでしょうか。
仏の世界、それは悟りの境地のことだそうです。パラダイスのような、夢のような、何でも願い通りになるような快適な世界ではなく、逆に何もなくても憂いのない世界と表現した方がよいのだと思います。
それは心の次元の話ですから、仏様の世界というのはとても清らかで簡素な品行方正な厳粛な世界なのだろうと思います。私たちの心が想像する快適な世界と思ってしまうと少し違うのだと思います。仏様方にとって快適な世界なのでしょうから。
たとえば、今でも、ものすごく心を清らかなものにするために、山に入り修行を重ねる人たちがいます。スリランカやミャンマー、タイなどでは一日瞑想ばかりして、毎日毎日それだけの生活をされている人たちがいます。その人たちは何もなくても、瞑想して心が穏やかで静かな毎日が心地よいのです。一時的にそんな生活に憧れてその場にいれたとしても、一週間、一ヶ月が普通の人には眼界ではないでしょうか。
一生そこで、周りの人たちの供養を受けていられる人たちの心はどれだけ高次元のものなのか想像もつかないのです。仏様の世界とはそうした人たちよりもさらに心のレベルの高い人たちの世界だと思ったらよいのではないでしょうか。
ですから、簡単に仏様の世界にいきたい、安楽な世界にいきたいと思っても、ちょっと普通にいられるところではないと思った方がよいのではないかと思えます。それにかなう心を作らねばいられない、安易に立ち入ることが出来ないところとも言えるのではないでしょうか。
ですから、死後のことよりも、今いるこの世界で、私たちのこの居やすいところで、少しでも救われてあるようにした方がよいのかもしれません。今が不安でつらいならば、死後の世界もその不安のままにそれに相応しいところに身罷ることになります。
それでは今が安心できるようにするにはどうしたらよいのでしょうか。安心できるとはどういうことでしょうか。
安心とは、今のこの自分、そのままで良いと思えることではないかと思います。何の心配することもなく、憂えることもなく、苦しみもなく、不安もなく。満ち足りていると思えること。それは、とても難しいと思えるかもしれません。
誰にも不安があり、心配があり、憂いがあるものなのかもしれません。ですが、たとえ何かあったとしても、それで良い、そんなことがあっても当然だと、世の中とはそんなものですと思えるならば、それはそれで自分にとっては今の自分で良いのだと思えるのではないでしょうか。
逆に、何かあると、ちょっとでも不満なことがあると面白くない、つまらないと思ってしまったら、どんなことがあっても喜べず、幸せは永遠にやってきません。
お釈迦様がこの世の中は苦しみばかりですよと言われるように、大変なことばかりなんだと諦めて、何があっても、それで当然なんだと思えたら、何があってもその人はいつも平静な心でいられますし、そうした自分でいいんだとも思えるでしょう。
そして、少しでも、お経などを唱えたり、お釈迦様の教えを学んだり、日々の生活の中からその教えに得心がいく、そうしていろいろな人や者たちのお蔭で自分は生かされている、大きなそうした存在に自分は支えられているのだと思えるとき、心は清まり、心改まっている自分にも気づくことが出来るでしょう。そのとき、既にその人は救われてあるのではないでしょうか。
みんな誰もが、毎日大変なことばかりの世の中です。それでもやらなければ生きていけません。言いたいことが山ほどあっても、言ってどうなるものでもないのですから、いずれ何も思わないようになるでしょう。
何も思わず毎日頑張っている自分にこれでいいのだと思える。そうしてあるからこそ生かされている自分に気づく。今に満足し安心し、自分に納得する。死後のことにも思い煩うこともなく、そうして大切に一日一日を生きたらよいのだと思います。
それはそうそう簡単ではないのかもしれませんが、日々飽きずに、大変だとは思っても、嫌だと思わずにやり遂げている、そんな自分を誇らしく思え、そんな自分だからこそまた生かされているんだと思えるならば、それこそが救いなのではないでしょうか。そうして、その人はすでに仏様に救われてある自分に気づくことでしょう。
ですから、今こうしてあることがすでに救われているのだと思えるようでありたいものだと思うのであります。
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空海上人のみ言葉に、
『禽獣卉木は、是法音。安楽覩史は本来我が胸中に在る事を頓悟せしめん。』
という言葉があります。
身近に在る事象は、皆仏の言葉。本当の安楽は自分の心の中に存在する、と。
地獄も極楽も、自分の心の在り方で変わるのではないかと私は思います。
大抵の人は、極楽や地獄を彼の世の事の様に考えてしまいがちです。
しかし、地獄も極楽も自分自身の心の中に在るのだという事に意外と誰も気付いていない。
考え方や行動次第で、この世が浄土にも地獄にもなる。そこ迄他の人が認識出来ているかは私には分かりません。
何処やらの教団の様に『我が信仰をやれば成仏出来るが、我が信仰以外を信じると堕地獄となる』などと言って勧誘して来る輩が居ます。大抵の人は、来世の地獄を怖れて入ってしまうでしょう。しかし、正しい浄土、地獄観を持てば、そういった脅しに屈する事はありません。
それ以前に、来世の心配をしている暇があるのなら、今を懸命に生きる事の方が大事なのではないでしょうか?神仏は、我々をより良い人生に導く為のアドバイザーと考えた方が私は良い様に思います。
『何かをしてくれる』ではなく、『事を成就する為のヒントをくれる存在』と思えば良いと私は思います。
浄土はどこにあるのかというのはとても大問題のはずなのです。ですが、誰もはっきり言おうとしないですね。弥勒浄土とかは天界の中に位置づけても、弥陀の浄土を天界の中にあるはずだと言える先生も限られています。
そのような書き方をされている先生の著作はとても貴重ですから、付箋を入れていつでも取り出せるようにしておりますが、何故そうした大事なことをみんな言わないのか不思議なのです。
余りにも杜撰、安易、暗黙の了解のようなものがあって、はっきりと言わないことにしているとしか見えないのです。仏教の世界観の中の浄土教ですから、当然衆生世界は六道の中になくてはいけません。ですから、人間界よりも上となれば天界、悟っていないのですから仏界ではないということを確認すべきです。
心の中にあるとするのは、人間界でも、そのような心を体験する、その心のまま死ねばその世界に生まれ変わるということになります。ですから、人間として相応しい、恥ずかしくない心でいることが大切なのです。
いつも適切な指摘をありがとうございます。