住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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幅広く仏教について考える

2/26越智淳仁先生・教学研修会講義に学ぶ

2015年02月27日 16時02分29秒 | 仏教に関する様々なお話
昨日大覚寺派中国教区の教学研修会が催され、高野山大学名誉教授越智淳仁先生による密教の視点から般若心経の核心に迫る講義を受けた。平成16年に大法輪閣から出版された「密教瞑想から読む般若心経」に基づいた話ではあったが、その話の端々にはほぼ半世紀にわたり研究研鑽なされなければ得られない奥深い話がちりばめられ、誠に有意義な時間であった。お釈迦様から密教に至る教えの中から現代にも通じる教えの要点を二時間半に凝縮してわかりやすく解説して下さり、書物を渉猟してもたどり得ない得難い話の数々であった。

はじめに、日本での般若心経の功徳について話があった。心経にはいくつもの訳があり、玄奘訳の前に支謙、鳩摩羅什の訳があるが、それらは般若波羅蜜呪経、般若波羅蜜多大明呪経といった。心を入れた般若心経を翻訳したのが玄奘三蔵であるが、彼が聖典を求めて西域を通ってインドへ歩を進めるときに、魑魅魍魎に出くわして唱えたのは観音経であった。しかし、観音経は効き目なく、そこで般若心経をサンスクリットで唱えると、たちまちにそれらは退散したという。つまり心経には、怨霊を封じる功徳がある。

耳無し芳一の話の中で、平家の怨霊の前で夜ごと琵琶を弾く芳一の身を案じ書かれたという経文は何かと言われるが、今日では心経であったと分かってきた。怨霊から身を守る効能がある。また死者の枕経の際に、東北地方では千巻心経を唱える風習があり、死者の罪障がすべて消えてなくなると信じられている。村中の人が集まり一晩中心経を唱えるという。

ところで、信には二つあり、純粋に神仏がありがたいという信仰としての信があり、知識に裏付けされた信仰としての信がある。後者は僧侶にとって不可欠であるけれども、一般の人々による純粋な信仰心は大切にする必要がある。大日経の中にも、一般の人々の信の中に仏はあり、最高のものであって、それをこそ礼拝すべしとある。

紀元前後に八千頌般若経ができ、心経は四世記頃に出来たと言われている。

次に心経の経題についての話があり、心経の経題の仏説とはどうしてつけられたか。心経には小本と大本があり、大本にあるように、お釈迦様の瞑想中の加持力によって、それが頭頂に入った舎利弗と口に入った観音菩薩とが問答する形式になっている。つまり心経はすべてお釈迦様のムネにある悟りの境地を舎利弗に質問させ観音菩薩に説明させたのが心経であるので、仏説とされた。

摩訶は、大・多・勝の意で、勝れたもの。般若は智慧、波羅蜜多はパーラミタ彼岸に渡ることとされるが、密教としては、叡智の完成を成し遂げた女神、偉大なる般若仏母を指す。

心経の心は、胸、体の中心、心臓のことである。法身大日如来というが、法身とは、法は教え、説法、身はかたまり、本体のこと。初期仏教では、お釈迦様の悟りの集合体のことであった。心経の心は、フリーダヤというサンスクリットを訳した言葉で、中心という意味ではあるが、お釈迦様の教えの中心、それは心(ムネ)にあるものである。そこから口に出るものが説法であり、法身説法はお釈迦様の時代からあった言葉である。

釈迦滅後、お釈迦様の身体は荼毘に付されたけれども、法身は三劫に法界に遍満していると考えられ、一つのかたまりとなって、それは身口意の教えとなり、三種の曼荼羅として象徴される。お釈迦様の滅後、大智度論中の仏伝によれば、ムネにあった法身は、法界に遍満して、それはシッダルタ義成就菩薩とサルヴァルタシッディ一切義成就菩薩が生み出される。シッダールタは、お釈迦様の出家前のお名前で、父王がこれで願いが叶ったと慶び名付けた名前である。サルヴァルタシッディは、すべての国民の願いが叶ったという意味で、金剛頂経に説かれる五相成身観では、この一切義成就菩薩が悟り大日如来になる。釈迦と大日は同じか別かとの議論があるが、お釈迦様と大日如来は一緒のものと見て間違いない。

仏教では心に二つあり、チッタとフリーダヤであり、頭でものを考えるチッタに対し、フリーダヤはムネに感じるもののことである。心経中にある、心呪とは、真言のことだが、般若心経の種子チクマンのあるところがフリーダヤ・ムネであり、それが心真言であり、その心真言について説くお経が般若心経であるとするのが弘法大師の心経解釈である。通常はこの経題にある心とは真髄や中心との意味から、心経は般若経六百巻のエッセンスを説くものだとするが、密教ではそのようには解さない。

経、スートラは、貝葉による最初期の経典は長い貝葉(棕櫚に似たターラの葉に鉄筆で文字を彫った、幅7~8センチ、長さ60センチ)の左右の中央に穴を開け糸を通して閉じたものである。そこで中国ではスートラを経、つまり縦糸と呼んだのである。しかし、世界で最古の貝葉と言われる法隆寺に残る貝葉の中の心経にはスートラの文字がない。それは心経とは経ではなく一つの陀羅尼、瞑想法としてあったからである。ところで、弘法大師の『般若心経秘鍵』には、心経は14行とある。近年西安の青龍寺から出土した石仏の裏に心経が書かれてあり、それは19文字14行となっている。

また、心経の解釈には、空とは何か、色即是空とは何かということがつきものではあるが、空をいくら探し回っても分からないものであり、悟りとは何かと探し回り探し回るとき、とらえられずに、一歩後退したらそこにあったという話もある。「おさなごの しだいしだいに 智慧つきて 仏に遠くなるぞ 悲しき」という古歌にあるように頭の中で考えて到達できるものではなく、それは自ら静かに修する瞑想の中に見いだされるものであるという。

かつて吉野に旅した一休禅師が、山伏から短刀を突きつけられ、空とはいずこにありやと問われたとき、この胸にありと答えたところ、刀を振りかざされ、「春ごとに さくや吉野の 山桜 木を割りて見よ 花のありかを」と古歌を口ずさんだという。空とは探し求めるものにあらずということであろう。

そして、弘法大師の『般若心経秘鍵』に関する解説がなされた。

「チクマンの真言を種子とす」後に述べるように、心経は密教の瞑想法として大師は解釈を進めるにあたって、初めからその主尊である文殊菩薩と般若菩薩の種子について述べられている。文殊菩薩と般若菩薩は共に共通の種子として、チクとマンをインドの般若心経系の瞑想法に用いていたという。弘法大師が唐に留学した際には漢訳されたもので心経の瞑想法にはマンを種子とするものはなかったという。しかし、恵果和尚に入門する前に、インドの学僧・般若三蔵についてサンスクリットを学ばれたときにおそらく耳学問として、マンを種子とするインドの般若経系の瞑想法について学ばれていたであろうとのことであった。

「それ仏法遙かにあらず心中にして即ち近し」悟りとは心の外、遙か彼方にあるとされてきた。しかし、お釈迦様は成道前に四魔を降伏する。その四魔とは、心悩ます煩悩魔、身心を苦しめる陰魔、死の恐怖をもたらす死魔、善行を妨げる天子魔のことであり、それは本来の清らかな心を覆っている魔であるのだから、それは心中で四魔を降伏して悟りを得たことに他ならない。

心経の大意として、「大般若波羅蜜多心経といっぱ即ちこれ大般若菩薩の大心真言三魔地法門なり」とあり、心経とは般若菩薩の偉大なムネにある真言の瞑想の教えであるという。行者のムネにある般若仏母の心真言を説き、般若仏母の曼荼羅を観想し瞑想し悟りを得る教えこそが心経であるとする。

秘鍵は心経を五つに分けて、弘法大師による独特の解釈を加えていく。

「観自在菩薩から度一切苦厄まで」が①人法総通分であり、行者観音菩薩とその般若波羅蜜多の真理の教えについてまとめて示した部分のことである。

「色不異空から無所得故まで」が②分別諸乗分であり、この中に五つの内容がある。「色不異空から亦復如是まで」が華厳、「是諸法空相から不増不減まで」が三論、「是故空中無色から無意識界まで」が法相、「無無明から無老死尽まで」が二乗(声聞縁覚)のうち縁覚、「無苦集滅道」が声聞、「無智から無所得故まで」が天台の各々の教えにより導く悟りの境地が示されているとする。それらは、二乗を除いてそれぞれ、普賢菩薩、文殊菩薩、弥勒菩薩、観自在菩薩という金剛界曼荼羅中台八葉院の四菩薩に該当し、それら悟りの境地を表したものであるとする。

「菩提薩埵から得阿耨多羅三藐三菩提まで」が③行人得益分であり、この心経から得られる利益について、先に述べた華厳、三論、法相、縁覚、声聞、天台の六つに、真言の行者を併せ修行者に七つの別があり、教えの違いによってそれらは四つに分けられるが、そうして悟りの因をもともと持っている菩薩が般若波羅蜜多の瞑想法によって、悟りを得て、煩悩の火が消え悟りの涅槃に入る利益が示される。

「故知般若波羅蜜多から真実不虚まで」が④総帰持明分であり、心経の悟りの境地を説く。大神呪は声聞の真言、大明呪は縁覚の真言、無上呪は大乗菩薩の真言、無等等呪は密教の菩薩の真言の名前を指しており、それらはその本質として真実にして虚しからず、作用として唱えればすべての苦しみが除かれるので、自ずから悟りの境地はそれぞれの真言に含まれているとする。

「故説般若波羅蜜多呪から菩提薩婆訶まで」が⑤秘蔵真言分であり、最後の真言の部分を指す。最初のギャーテイは声聞が修行して得た悟りの果を賞賛するもので、第二のギャーテイは縁覚、ハーラーギャーテイは大乗の、ハラソウギャーテイは、密教の瞑想で得たマンダラの悟りの世界を賞賛し顕現させる真言であるという。そして最後のボージソワカは、声聞から密教の行者に至るすべての者達が究極の悟りに入った悟りを表すとされる。そしてこの真言の部分こそが最も心経中で大切な中心であり、この真言だけ唱えても功徳あり何度も唱え祈念すべきものであるという。出来れば下にあるように日本なまりではなくインドのサンスクリットの発音で唱えることがのぞましい。

なお、般若菩薩とは、般若経の本尊であり、智慧を本誓とし諸仏が悟りを得る際に必要とする般若の力そのもののこと。諸仏を生み出すとして仏母という。最後に般若心経は瞑想であると述べてきたが、参考までに、先生の著作の中にある「般若心経瞑想法在家用次第」の中から、要点を抜き書くと、まず般若仏母のマンダラの諸尊へ帰依し、般若仏母を観想し供養して、懺悔し、五大願を唱え、四無量心観、そして空性を学ぶとして、「オーン・ガテー・ガテー・パーラガテー・パーラサンガテー・ボーディ・スヴァーハー」と二十一遍唱えて、「すべての存在は、肉体・感覚・心に浮かぶ像・意志・認識の五つ五蘊が合わさって仮の姿をとる存在であり、実体はない」と想う。それから般若仏母を中尊に東に釈迦牟尼、南に舎利弗、西に観音、北に阿難陀を配したマンダラを観想し、月輪観、本尊般若仏母の加持、それから種子を、「オーン・マン・スヴァーハー」と百八遍唱え、最後に心経一巻を唱え、マンダラ諸尊にもとの住所にお帰りいただき終了するというもの。在家用といえどもかなり煩瑣な内容に思える。

以上、昨日の講義の際に筆記したメモと先生の著作「密教瞑想から読む般若心経」を参考に昨日の講義の感激をここに記してみた。間違いもあるかもしれないがその責は浅学非才の筆者にあることを記しておきたい。




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3 コメント

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諸人のために (通りがけ)
2015-03-17 19:49:10
仏教聖典p229第三節もろ人のために から八項目を転載する。

一、ここに国家を栄えさせる七つの教えがある。

 一つには、国民はしばしば会合して政治を語り、国防を厳にして自ら守り、

 二つには、上下心を一つにして相和し、ともに国事を議し、

 三つには、国風を尊んでみだりにあらためず、礼を重んじ義を尊び、

 四つには、男女の別を正し、長幼の序を守って、よく社会と家庭の純潔を保ち、

 五つには、父母に孝し、師長に仕え、

 六つには、祖先の祭壇をあがめて祭儀を行い、

 七つには、道を尊び徳をあがめ、徳の高い師について教えを仰ぎ、厚く供養することである。

 どんな国でも、この七つの教えをよく守って破ることがないならば、その国の栄えることは疑いがなく、外国の侮りを受けることはないであろう。

二、昔、大光王は、自分の王道を次のように説いた。

 「自分の国家を治める道は、まず自分を修めることである。自ら慈の心を養って、この心をもって国民に臨み、人びとを教え導いて心の垢を除き去り、身と心を和らげて、世の中の楽しみにまさる正しい教えの喜びを得させる。

 また、貧しいものが来たときには、蔵を開いて心のままに取らせる。そしてこれを手がかりとして、すべての悪から遠ざかるように戒める。

 人びとは各々その心をもととして、見るところを異にする。この城中の民にしても、この都を美しいと見るものもあれば、また汚いと見るものもある。これは各々、その心、その環境がそうさせるのである。

 教えを尊び、心の正しい素直な人は、木石にも瑠璃の光を見るのであるが、欲が深くて自分を修めることを知らない者は、どんな立派な御殿でもなお美しいと見ることはできない。

 国民の生活は、万事みなこのとおり、心がもとになっているから、わたしは国を治める大もとを、民にその心を修めさせることに置いている。」


三、大光王のことばどおり、政道の大もとは、民にその心を修めさせることにある。

 この心を修めることはさとりの道に進むことであるから、政治の上に立つ人は、まず仏の教えを信じなければならない。

 もし政治を行う人が、仏を信じ、教えを信じて、慈悲深く徳のある人を敬い、これに供養するならば、敵もなく、恨みもなく、国家は必ず栄えるに違いない。

 そして、国が富み栄えるならば、他の国を貪り攻めることもなく、また他を攻める武器の必要もなくなるであろう。

 したがって国民も満足して楽しみを受け、上下和らいでむつみあい、善を増し徳を積んで互いに敬愛し喜び合うから、いよいよ人は栄え、寒さ暑さもととのい、日も月も星も常の程度を失わず、風雨が時に従うようになり、こうしていろいろの災いも遠ざかるようになるであろう。

四、王たるものの勤めは、民を守ることにある。王は民の父母であり、教えによって民を守るからである。民を養うことは、父母が赤子を養うようなもので、父母が赤子のことばを待たず、湿ったものを取り替えて新しい布を当てがうように、いつも民に幸いを与えて悩みを去るよう慈しみ養うのである。まことに王は、民をもって国の宝とする。これは、民が安らかでなければ政道が立たないからである。

 だから、王たるものは、民を憂えてしばらくも心を離さない。民の苦楽を察し、民の繁栄をはかり、そのためには常に水を知り、風、雨を知り、実りの善悪を知り、日照りを知り、民の憂いと喜びを知り、罪の有無と軽重、功績の有無などをよく知って、賞罰の道を明らかにする。

 このように民の心を知って、与えなければならないものは時をはかって与え、取るべきものはよく量って取り、民の利を奪わないよう、よく税を軽くして民を安らかにする。

 王は力と権威によって民を守り、このようにして民の心になって民をよく見守るものが王と呼ばれる。


五、この世の中の王を転輪王というが、転輪王とはその家系が正しく、身分が尊くてよく四辺を統御し、また教えを守るところの王である。

 この王のゆくところには、戦いもなく恨みもなく、よく教えによって徳をしき、民を安らかにして邪と悪を下す。

 また転輪王は、殺さず、盗まず、よこしまな愛欲を犯さず、偽り、悪口、二枚舌、むだ口を言わず、貪らず、瞋らず、愚かでない。この十善を行って民の十悪を去らせる。

 また、教えによって政治を正すから、天下において思いのままになすことができ、そのゆくところには戦いがなく、恨みもなく、互いに相犯すこともない。したがって、民は和らぎ、国は安らいで、民にいよいよその生を楽しませることができる。だから教えを守る王といわれるのである。

 また転輪王は、王の中の王であるから、もろもろの王はみなその徳を喜び、その教えに従って各々その国を治める。

 このように転輪王は、もろもろの王をして各々その国に安んじさせ、正しい教えのもとに王の任を果たさせる。

六、また王は罪を裁決するにも、慈悲の心をもととしなければならない。明らかな智慧をもってよく観察し,五つの原則をもってよく処置しなければならない。

 五つの原則というのは、

 一つには、実によって不実によらない。これは、事実を調べて、その事実によって処断することである。

 二つには、時(じ)によって非時(ひじ)によらない。これは、王に力のあるときが時(じ)であり、力のないときが非時(ひじ)である。力のあるときは罰しても効果があるが、力のないときには罰しても混乱があるだけであるから、時を待たなければならない。

 三つには、動機によって結果によらない。これは、罪を犯すものの心に立ち入って、それが故意であるか故意でないかを見きわめ、故意のことでなければ許すのをいう。

 四つには、親切なことばによってあらいことばによらない。これは、罪が規則のどれに当たるかを明らかにして罪以上の罰を与えないようにし、また柔らかい優しいことばで諭してその罪を覚(さと)らせるのをいう。

 五つには、慈悲の心によって瞋(いか)りの心によらない。罪を憎んで人を憎まず、慈悲の心をもととして、罪を犯したものにその罪を悔いあらためさせるように仕向けるのである。


七、もし王の重臣であって国家の大計を思わず、ただ自分の利ばかりを求め、賄賂を取って政道を曲げ、人民の気風を頽廃させるならば、人民は互いに相欺くようになり、強い者は弱い者をしいたげ、貴い者は卑しい者を軽んじ、富んだ者は貧しい者を欺き、曲がった道理をもって正しいものを曲げることになるから、災いがいよいよ増長するようになる。
 
 すると忠実な重臣は隠れ退き、心あるものも危害を怖れて沈黙し、ただへつらう者だけが政権をとって、みだりに公権を用いて私腹を肥やし、民の貧しさは少しも救われないようになる。

 このようになると、政令は行われなくなり、政道はまったくゆるんでしまう。

 このような悪人こそ、民の幸福を奪う盗賊であるから、国家のもっとも大きな悪賊といわなければならない。なぜなら、上を欺き下を乱して、一国の災いの源となるからである。王はこのような者を、もっとも厳しく処罰しなければならない。

 また教えによって政治をしく王の国において、父母の生育の恩を思わず、妻子にだけ心を傾けて父母を養わず、あるいはまた、父母の所有を奪ってその教えに従わないものは、これをもっとも大きな悪の中に数えなければならない。

 なぜなら、父母の恩はまことに重くて、一生心を尽くして孝養しても、し尽くせないものだからである。主君に対して忠でなく、親に対して孝でない者は、もっとも重い罪人として処罰しなければならない。

 また教えによって政治をしく王の国の中においては、仏と教えと教団(仏法僧)の三宝に対して信ずる心がなく、寺を壊し経を焼き、僧侶を捕らえて駆使するなど仏の教えを破る行いをする者は、もっとも重い罪の者である。

 なぜなら、これらはすべての善行のもとである民の信念を覆すものだからである。これらの者は、みなすべての善根を焼き尽くして、自ら自分の穴を掘るものである。

 この三種の罪がもっとも重く、したがってもっとも厳しく処罰しなければならない。その他の罪は、これらに比べると、なお軽いといわなければならない。」


八、正しい教えを守る王に対して逆らう賊が起こるか、あるいは外国から攻め侵すものがあるときは、正しい教えの王は三種の思いを持たなければならない。

 それは、第一には、逆賊または外敵は、ただ人を損い人民を虐げることばかりを考えている。自分は武力をもって民の苦しみを救おう。

 第二には、もし方法があるなら、刃(やいば)を動かさないで、逆賊や外敵を平らげよう。

 第三には、敵をできるだけ生け捕りにして、殺さないようにし、そしてその武力をそごう。

王はこの三つの心を起こして、それから後に部署を定め訓令を与えて戦いにつかせる。

 このようにするとき、兵はおのずから王の威徳をおそれ敬ってよくその恩になずき、また戦いの性質をさとって王を助け、そして王の慈悲が後顧の憂いをなくすことを喜びながら、王の恩に報いるために戦いに従うから、その戦いはついに勝利を得るだけでなく、戦いもかえって功徳となるであろう。

(了)
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「四年目の311」 (通りがけ)
2015-03-11 23:25:56
今日は311です。

私は過去自衛隊の災害救助活動で成功したのは池田整治統合幕僚長指揮の有珠山噴火防災出動だけであると思います。あれは素晴らしかった。直ちに池田幕僚長が現場に飛んで最前線に司令部を設けて自衛隊の全装備と人員を投入し、最大限の人的安全確保しつつ的確に現地の状況に即応したのです。

しかし311は自衛隊の能力限界を超えていました。私は3月の寒風吹きすさぶ中全身津波の海水泥流につかって命からがら山によじ登った多くの人たちを夜間のうちに発見して救出できるのは、赤外線暗視装置を備え夜間の作戦行動に訓練の行き届いた米軍の攻撃ヘリしかないと思いました。菅総理は311当日福一の冷却電源が地震と津波で停止したとの第一報で時をおかず全国民へ緊急テレビで原子炉非常事態宣言と国家非常事態宣言を行い、自衛隊全部隊の投入および在日米軍に緊急出動要請して被災直後の危険地帯に寒さと放射能被曝の生命の危険にさらされて取り残されている多くの被災者を、昼はヘリから目視で捜索発見し夜間は米軍ヘリが赤外線暗視装置で個別に山中の被災者を発見し、一人残らずしらみつぶしに救出して近くの自衛隊基地と米軍基地あるいは沖合の病院施設ある艦船へ緊急収容すべしと考えたのです。

あの状況で使えるのはヘリしかありませんでした。ゆえに自衛隊の能力を超えた巨大災害であると申しました。暗視装置を備えたヘリは攻撃用だから自衛隊には殆ど装備されていなかったし、夜間戦闘を想定した危険な飛行訓練も自衛隊には経験がないはずだったからです。昼間ならともかく。

その目視発見が容易な昼間に、NHKの報道ヘリが津波で水浸しになった被災地に孤島の如く取り残された病院上空を、屋上にSOSの大きな文字を描いてNHKヘリに緊急着陸を要請する手振り信号を目撃撮影したにもかかわらず素通りして、人っ子一人いない海岸へ津波見物報道するため向かったのです。親戚や友人の安否を断腸の思いで心配していた私はNHKに対し怒髪天を衝きました。病院の屋上で手を振っているのはNHKが俸給としてもらっている国家予算や受信料を払ってくれている公僕NHKのご主人さま主権者国民であるのに、その生命の危急時にこともあろうに下僕NHKのヘリが素通りするとは何事か。これ以上の不忠義があろうか。天地人ともに許さぬ大逆犯罪である、と。

あの時電源喪失した病院内には、衰弱した病人が暖房もなくふるえていたのです。緊急に治療が出来る病院へ搬送すれば助かるだろう。ゆえにこその屋上SOSであり上空を通りがかるヘリへ手を振っての着陸要請だった。NHKヘリが着陸すれば何人緊急搬送が必要かがすぐわかりヘリの無線で自衛隊や米軍ヘリに緊急通報すれば増援ヘリが訪れて全員の搬送が可能だった。NHKはカメラを下ろして病院にいる全員を撮影しながら住所氏名を訊けば、電話通信網無くともテレビ放送による安否確認がリアルタイムで即行われたのである。テレビの使命は津波見物ではまったくない。NHKに人の心があるならば必ず着陸したのに、素通りしたNHKヘリは人の心を持たない無慈悲冷酷な未必の故意の殺人者という人間以外の魔物外道に過ぎないことがよくわかりました。

地デジ切り替えの7月NHKに電話しておまえのとこの糞電波未来永劫絶対に受信しないためにデジタルテレビは買わないから、きれいさっぱり解約しろと告げて、NHK解約しました。以来、我が家では一秒たりともNHK+民放戦争プロパガンダテレビ番組は映りません。

福一不通告ベント開放核物質拡散放射能棄民テロについては別に書きます。

  南無釈迦牟尼仏
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Unknown (コトタマ学)
2015-03-11 19:28:33
今晩は、ブログ・ランキングから参りました。昔禅のお寺の写経会に参加しておりましたが、今は時折室内で書写しております。お茶の初釜の時、すごい長い時間座っておりましたので、心の中で心経を唱えて何とかしのいだ事が思い出されます。
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