大法輪7月号特集「これでわかる仏教の歴史」掲載
『戒律復興と慈雲尊者』
江戸時代に檀家制度が定着すると、僧侶は官僚化し安逸をむさぼり、腐敗堕落を招いた。そして社会から反感の声があがると、僧風の粛正と戒律の復興運動が各宗に起こってくる。
諸宗の中、特に真言宗は戒を持せずば霊験なしとして戒を重んじたので、この時代の戒律復興にも、いち早く先鞭をつけた。叡尊の戒律を奈良西大寺に受法した明忍(みょうにん)らは、慶長七年(一六〇二)、京都栂尾(とがのお)にて自誓受戒。戒律の復興を誓い、多くの学徒を養成した。そしてこの真言宗内での戒律運動は、やがて他宗へも伝播されていく。
寛文から元禄の頃、天台宗では妙立、霊空が大乗小乗律兼学の護持を主張し「安楽律」を唱え、真言宗では淨厳(じょうごん)が戒律を仏道修行の根本に据えた「如法真言律」を唱導。浄土宗では慈空、霊潭が「浄土律」を、日蓮宗の元政らは「法華律」を提唱して、律を広め僧風の刷新をはかった。
そして宝暦から寛政の頃、釈尊在世時の戒律復興を目指した慈雲尊者飲光(おんこう)(一七一八―一八〇四)が登場する。尊者は、釈尊当時の僧団に回帰するための戒律として、「正法律(しょうぼうりつ)」を創唱。僧侶の生活規律、禁止条項などについて、私意を交えず、時代や場所の不相応を論ずることなく仏説のままに行じることを旨とした。
僧団の組織や袈裟の縫い方かけ方、日々の誦経坐禅まで釈尊在世時の如くに行う「正法律」に従う限り、その出身宗派にとらわれることがないため、宗派を越えた沢山の僧尼が尊者を師と仰ぎ雲集したのであった。
正法を仏説の経文律蔵にもとめ、受戒僧坊による自派他派の別を立てず、宗派宗旨の深浅を論ずることを禁じた。そして、十善戒をすべての戒の根本であるとして、身を治め家を治め国を治める大本の教え、人の人たる道であると平易に説いて、数多の道俗を教化。特に多くの皇室関係者が帰依するなど、その徳風は一世を風靡したのであった。
『梵学津梁』(ぼんがくしんりょう)一千巻、『十善法語』十二巻など多くの著作をなし、特に十善戒に関する著作は近代の仏教者に多大な影響を与えたのである。
『廃仏毀釈と肉食妻帯』
江戸時代の仏教は、国教ともいえる地位にあった。しかし、明治新政府は、国家の礎を神道に求め、神武の古に復(かえ)すということを理想としたため、おのずから神仏分離という方針が立てられた。
慶応四年(九月より明治と改元)三月、諸国大小神社に別当・社僧と称して神勤している僧職の復飾(ふくしょく)(還俗(げんぞく))を命じ、さらに、神号を権現(ごんげん)など仏教語を用いている神社はそれを改め、御神体としての仏像、また鰐口、梵鐘、仏具などは取り払うことが布告された。
これを世に神仏分離令と言うが、これを背景に、明治五年頃まで全国に展開された仏教排斥の破壊行為を廃仏毀釈という。
この布告の数日後には、はやくも比叡山麓坂本の日吉山王社では、長年隷属してきた僧職への怨恨もあり、武装した神官出身の志士たちが、当時仏教様式で祀られていた神域に乱入し強引な破壊行為を行った。
そして、津和野藩、隠岐、薩摩藩、苗木藩など一部の藩や地方では、廃仏毀釈の方針をとったため、寺院の廃止・合併や僧侶の還俗、神葬祭への強制が行われた。国宝に比すべき貴重な品々も含め、寺院や家々の仏壇の仏像、経巻、法具などが壊され、焼かれたり、路傍の石仏・庚申塚もことごとく破壊されたのであった。
そしてさらに、新政府は近代国家の基礎を確立する一端として、明治五年四月、「自今僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべきこと」と布告した。
これは古来僧尼令で定めた肉食妻帯の禁を解く法令であり、出家を基本とする仏教僧の宗教的な特質を国家として否認するものであった。
本来、戒律は国家によって制定されるものではなく、各宗僧団によって厳守されるべきものである。しかし、長く国法により統制されてきたがために、この法令をもって肉食妻帯に踏み切る僧侶が少なからず現れたのである。
明治三十年代には僧侶の妻帯が一般化したこともあり、各宗派宗議会でこの肉食妻帯問題が度々取り沙汰され、公認すべきか否か議論紛糾した。が、結局は自然の成り行きに順じるのが至当との解釈が大勢を占め、今日に至っているのである。
廃仏毀釈が物理的な排仏とすれば、肉食妻帯の解禁は内容的な排仏と言えよう。事実、この法令が日本仏教の世俗化に一層の拍車を掛けたのであった。
『近代仏教学の成立』
我が国における伝統的仏教は漢訳経典による仏教であった。しかし近代には、十九世紀頃から仏教文献の学問的な研究を始めた西欧から、あらたに梵語(サンスクリット)やパーリ語などインド語の原典による仏教研究が導入された。
近代的な梵語学研究は、明治九年、東本願寺の俊英・南条文雄と笠原研寿が英国に留学したことに始まる。二人は、インド学の幅広い分野で研究の基礎を築いたマックス・ミューラーのもとで研鑽し、始めて西洋の近代梵語学を輸入した。
続いて、同じくミューラーの門下であった高楠順次郎が欧州留学から帰朝すると、明治三十年頃から東京大学で梵語とパーリ語を講じ、初期仏教研究に不可欠なパーリ語の研究に着手。『巴利語仏教文学講本』を著し、後に多くの研究者の総力を結集して南方上座仏教所伝のパーリ聖典を邦訳して『南伝大蔵経』を出版。我が国のインド学仏教学研究の基礎を築いた。また、姉崎正治はパーリ聖典と漢訳経典の比較研究を開拓し、日本人による漢パ梵の仏典比較研究は世界の学界に貢献することになる。
さらに河口慧海がチベットに潜入して、チベット語大蔵経はじめ膨大な文物をもたらし、チベット学の始祖となった。また、織田得能らの努力で『仏教大辞典』が編纂されるなど、近代仏教学研究の基礎が完備されていった。
そして、こうした梵語やパーリ語の原典を文献学的になす研究と相俟って、明治二十年代から西洋の科学的方法論による仏教研究が登場する。
西洋の哲学的方法によって仏教を解釈して仏教の真実性とキリスト教に対する優位性を論証した井上円了、西洋の研究法に従って仏教史研究の基礎を開いた村上専精、精神主義を標榜し心の内面を凝察して真理を探究した清沢満之など多くの開明的仏教学者が現れた。
欧化主義が蔓延する近代国家の形成期に、このように新しい仏教研究が導入され近代仏教学が成立し、その意義を広く社会に示したのである。
(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)
にほんブログ村
『戒律復興と慈雲尊者』
江戸時代に檀家制度が定着すると、僧侶は官僚化し安逸をむさぼり、腐敗堕落を招いた。そして社会から反感の声があがると、僧風の粛正と戒律の復興運動が各宗に起こってくる。
諸宗の中、特に真言宗は戒を持せずば霊験なしとして戒を重んじたので、この時代の戒律復興にも、いち早く先鞭をつけた。叡尊の戒律を奈良西大寺に受法した明忍(みょうにん)らは、慶長七年(一六〇二)、京都栂尾(とがのお)にて自誓受戒。戒律の復興を誓い、多くの学徒を養成した。そしてこの真言宗内での戒律運動は、やがて他宗へも伝播されていく。
寛文から元禄の頃、天台宗では妙立、霊空が大乗小乗律兼学の護持を主張し「安楽律」を唱え、真言宗では淨厳(じょうごん)が戒律を仏道修行の根本に据えた「如法真言律」を唱導。浄土宗では慈空、霊潭が「浄土律」を、日蓮宗の元政らは「法華律」を提唱して、律を広め僧風の刷新をはかった。
そして宝暦から寛政の頃、釈尊在世時の戒律復興を目指した慈雲尊者飲光(おんこう)(一七一八―一八〇四)が登場する。尊者は、釈尊当時の僧団に回帰するための戒律として、「正法律(しょうぼうりつ)」を創唱。僧侶の生活規律、禁止条項などについて、私意を交えず、時代や場所の不相応を論ずることなく仏説のままに行じることを旨とした。
僧団の組織や袈裟の縫い方かけ方、日々の誦経坐禅まで釈尊在世時の如くに行う「正法律」に従う限り、その出身宗派にとらわれることがないため、宗派を越えた沢山の僧尼が尊者を師と仰ぎ雲集したのであった。
正法を仏説の経文律蔵にもとめ、受戒僧坊による自派他派の別を立てず、宗派宗旨の深浅を論ずることを禁じた。そして、十善戒をすべての戒の根本であるとして、身を治め家を治め国を治める大本の教え、人の人たる道であると平易に説いて、数多の道俗を教化。特に多くの皇室関係者が帰依するなど、その徳風は一世を風靡したのであった。
『梵学津梁』(ぼんがくしんりょう)一千巻、『十善法語』十二巻など多くの著作をなし、特に十善戒に関する著作は近代の仏教者に多大な影響を与えたのである。
『廃仏毀釈と肉食妻帯』
江戸時代の仏教は、国教ともいえる地位にあった。しかし、明治新政府は、国家の礎を神道に求め、神武の古に復(かえ)すということを理想としたため、おのずから神仏分離という方針が立てられた。
慶応四年(九月より明治と改元)三月、諸国大小神社に別当・社僧と称して神勤している僧職の復飾(ふくしょく)(還俗(げんぞく))を命じ、さらに、神号を権現(ごんげん)など仏教語を用いている神社はそれを改め、御神体としての仏像、また鰐口、梵鐘、仏具などは取り払うことが布告された。
これを世に神仏分離令と言うが、これを背景に、明治五年頃まで全国に展開された仏教排斥の破壊行為を廃仏毀釈という。
この布告の数日後には、はやくも比叡山麓坂本の日吉山王社では、長年隷属してきた僧職への怨恨もあり、武装した神官出身の志士たちが、当時仏教様式で祀られていた神域に乱入し強引な破壊行為を行った。
そして、津和野藩、隠岐、薩摩藩、苗木藩など一部の藩や地方では、廃仏毀釈の方針をとったため、寺院の廃止・合併や僧侶の還俗、神葬祭への強制が行われた。国宝に比すべき貴重な品々も含め、寺院や家々の仏壇の仏像、経巻、法具などが壊され、焼かれたり、路傍の石仏・庚申塚もことごとく破壊されたのであった。
そしてさらに、新政府は近代国家の基礎を確立する一端として、明治五年四月、「自今僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべきこと」と布告した。
これは古来僧尼令で定めた肉食妻帯の禁を解く法令であり、出家を基本とする仏教僧の宗教的な特質を国家として否認するものであった。
本来、戒律は国家によって制定されるものではなく、各宗僧団によって厳守されるべきものである。しかし、長く国法により統制されてきたがために、この法令をもって肉食妻帯に踏み切る僧侶が少なからず現れたのである。
明治三十年代には僧侶の妻帯が一般化したこともあり、各宗派宗議会でこの肉食妻帯問題が度々取り沙汰され、公認すべきか否か議論紛糾した。が、結局は自然の成り行きに順じるのが至当との解釈が大勢を占め、今日に至っているのである。
廃仏毀釈が物理的な排仏とすれば、肉食妻帯の解禁は内容的な排仏と言えよう。事実、この法令が日本仏教の世俗化に一層の拍車を掛けたのであった。
『近代仏教学の成立』
我が国における伝統的仏教は漢訳経典による仏教であった。しかし近代には、十九世紀頃から仏教文献の学問的な研究を始めた西欧から、あらたに梵語(サンスクリット)やパーリ語などインド語の原典による仏教研究が導入された。
近代的な梵語学研究は、明治九年、東本願寺の俊英・南条文雄と笠原研寿が英国に留学したことに始まる。二人は、インド学の幅広い分野で研究の基礎を築いたマックス・ミューラーのもとで研鑽し、始めて西洋の近代梵語学を輸入した。
続いて、同じくミューラーの門下であった高楠順次郎が欧州留学から帰朝すると、明治三十年頃から東京大学で梵語とパーリ語を講じ、初期仏教研究に不可欠なパーリ語の研究に着手。『巴利語仏教文学講本』を著し、後に多くの研究者の総力を結集して南方上座仏教所伝のパーリ聖典を邦訳して『南伝大蔵経』を出版。我が国のインド学仏教学研究の基礎を築いた。また、姉崎正治はパーリ聖典と漢訳経典の比較研究を開拓し、日本人による漢パ梵の仏典比較研究は世界の学界に貢献することになる。
さらに河口慧海がチベットに潜入して、チベット語大蔵経はじめ膨大な文物をもたらし、チベット学の始祖となった。また、織田得能らの努力で『仏教大辞典』が編纂されるなど、近代仏教学研究の基礎が完備されていった。
そして、こうした梵語やパーリ語の原典を文献学的になす研究と相俟って、明治二十年代から西洋の科学的方法論による仏教研究が登場する。
西洋の哲学的方法によって仏教を解釈して仏教の真実性とキリスト教に対する優位性を論証した井上円了、西洋の研究法に従って仏教史研究の基礎を開いた村上専精、精神主義を標榜し心の内面を凝察して真理を探究した清沢満之など多くの開明的仏教学者が現れた。
欧化主義が蔓延する近代国家の形成期に、このように新しい仏教研究が導入され近代仏教学が成立し、その意義を広く社会に示したのである。
(↓よろしければ、クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)
にほんブログ村
なぜかこの時代を簡潔に書く人があまり他にないようで、頼まれました。別に専門でもありませんし、詳しいわけでもないのですが。ただ大変興味があるという程度なのですが。今に続く前時代の流れというのはとても大切なものです。
今に続く、戦後、戦中、それに明治、幕末。国内政治もそれは同じ事なのでしょう。今を知るにはその前のことを知らねばなりませんから。