簡略化の弊害
御歳暮の季節である。お中元御歳暮というのは、もともと室町時代に始まった習慣で、親元にその季節に家の神様をお迎えするための御供えを実家に持ち寄ることがもとだという。そうした習慣が他家にもお裾分けしてお世話になった感謝の気持ちから物を送る仕来りに発展したものらしい。
毎年、こちらに来て25年、盆と暮れに車で1時間かけて御中元御歳暮をお届けしているお寺様がある。初めは敷居が高いというのか、いつも怒られるのではないかというような気持ちもあり、玄関先で置いて帰ろうというなどと思いつつ車を走らせたものだが、先様も忙しい時期でもあり、お会いできないこともあり、それでも毎年二回欠かすことなく通ってきた。
いつの頃からか、連絡をしてから来なさいと言われ、そうした頃からだろうか、好きなお寺の話、仏教の話、本山の話、昔話に花が咲くようになった。行くことがとても楽しみになり、コロナの時期にも迷惑がられながらもお伺いした。先週も遅くなったことを詫びつつ奥の間に通され話し始めた。
今年の行事の話、美術館での特別展の話、他のお寺の御開帳に関してなど話し始めたらあれもこれも、気がつくと2時間が経過していた。慌てて失礼したようなことではあるが、お話のすべてが勉強になる、誠に貴重な時間を過ごさせてもらった。
ところで、コロナ騒動の頃、何でも簡略化、休止、キャンセル、廃止の波が襲ったことがある。未だにその波の影響か、お祭りなどは徐々に元に戻ってきているようには感じるが、旧に復さないものも多くあると感じる。お中元御歳暮の類いもそうかもしれないし、仏事もその一つで、葬儀法事がコロナ前からではあるが、小さく小さくという風習が当たり前になってしまっている。
田舎は隣保と言って、集落の組内で、葬儀やお祭りなど互助する取り組みがなされてきた。しかし、そんな当たり前のことも、今では何の通知もなく、お隣のことであっても、「家族葬で行いました」と回覧板を見て知るような時代となってしまった。良い、悪いの話ではなく、そうして人と人の関係が薄れていくことの意味を考えなくてはいけないのではないかと思う。
日本人が現代にあってもなお、先祖を大切にする数少ない文明社会の一つであると聞いたことがある。今日迄、一つの共同体として、世界で唯一古代から一つの国として存続してこられた礎にそれがあったのではないか。人と人との関係、繋がりの大切さを思う、その大本に親があり先祖があり、皇室があった。それが戦後教育の改変によって、家や親、家族の育みが遠ざけられてしまった。
そうした延長線の上に、様々なキャンセルの大波の余波から、人と人の関係の大本が、いまだに疎かにされている。コロナの時期、それまでしてきた葬儀をせずに火葬だけして済ませてしまった家々がある。それらの家の未だそんなにお歳でもない当主や若い奥様が突然に身罷ることがあると聞く。突然の訃報に多くの近しい人が戸惑い、近親者は自らなしてきたことに思い至る。偶々、偶然のことかもしれない。しかし、先祖がずっと伝えてきた習慣や教えを蔑ろにすることの怖さを感じざるを得ない。
私たちは一人では生きられない。つねに、すべての生きとし生けるものの恩恵を受けつつ生かされている。家族でも、親族でも、師弟でも、地域の方々とも、人と人の関係は何があっても、忘れてはいけない、疎かにしてはいけないことなのだと思う。命の大切さなどと唱えていたのはいつのことであったか。舌も乾かぬ間に、何でも簡単に、簡略にしたらいい、しないで済ました家もあるなどという理屈でなされることの意味を知らねばいけないのではないかと思う。
(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)
にほんブログ村
にほんブログ村
御歳暮の季節である。お中元御歳暮というのは、もともと室町時代に始まった習慣で、親元にその季節に家の神様をお迎えするための御供えを実家に持ち寄ることがもとだという。そうした習慣が他家にもお裾分けしてお世話になった感謝の気持ちから物を送る仕来りに発展したものらしい。
毎年、こちらに来て25年、盆と暮れに車で1時間かけて御中元御歳暮をお届けしているお寺様がある。初めは敷居が高いというのか、いつも怒られるのではないかというような気持ちもあり、玄関先で置いて帰ろうというなどと思いつつ車を走らせたものだが、先様も忙しい時期でもあり、お会いできないこともあり、それでも毎年二回欠かすことなく通ってきた。
いつの頃からか、連絡をしてから来なさいと言われ、そうした頃からだろうか、好きなお寺の話、仏教の話、本山の話、昔話に花が咲くようになった。行くことがとても楽しみになり、コロナの時期にも迷惑がられながらもお伺いした。先週も遅くなったことを詫びつつ奥の間に通され話し始めた。
今年の行事の話、美術館での特別展の話、他のお寺の御開帳に関してなど話し始めたらあれもこれも、気がつくと2時間が経過していた。慌てて失礼したようなことではあるが、お話のすべてが勉強になる、誠に貴重な時間を過ごさせてもらった。
ところで、コロナ騒動の頃、何でも簡略化、休止、キャンセル、廃止の波が襲ったことがある。未だにその波の影響か、お祭りなどは徐々に元に戻ってきているようには感じるが、旧に復さないものも多くあると感じる。お中元御歳暮の類いもそうかもしれないし、仏事もその一つで、葬儀法事がコロナ前からではあるが、小さく小さくという風習が当たり前になってしまっている。
田舎は隣保と言って、集落の組内で、葬儀やお祭りなど互助する取り組みがなされてきた。しかし、そんな当たり前のことも、今では何の通知もなく、お隣のことであっても、「家族葬で行いました」と回覧板を見て知るような時代となってしまった。良い、悪いの話ではなく、そうして人と人の関係が薄れていくことの意味を考えなくてはいけないのではないかと思う。
日本人が現代にあってもなお、先祖を大切にする数少ない文明社会の一つであると聞いたことがある。今日迄、一つの共同体として、世界で唯一古代から一つの国として存続してこられた礎にそれがあったのではないか。人と人との関係、繋がりの大切さを思う、その大本に親があり先祖があり、皇室があった。それが戦後教育の改変によって、家や親、家族の育みが遠ざけられてしまった。
そうした延長線の上に、様々なキャンセルの大波の余波から、人と人の関係の大本が、いまだに疎かにされている。コロナの時期、それまでしてきた葬儀をせずに火葬だけして済ませてしまった家々がある。それらの家の未だそんなにお歳でもない当主や若い奥様が突然に身罷ることがあると聞く。突然の訃報に多くの近しい人が戸惑い、近親者は自らなしてきたことに思い至る。偶々、偶然のことかもしれない。しかし、先祖がずっと伝えてきた習慣や教えを蔑ろにすることの怖さを感じざるを得ない。
私たちは一人では生きられない。つねに、すべての生きとし生けるものの恩恵を受けつつ生かされている。家族でも、親族でも、師弟でも、地域の方々とも、人と人の関係は何があっても、忘れてはいけない、疎かにしてはいけないことなのだと思う。命の大切さなどと唱えていたのはいつのことであったか。舌も乾かぬ間に、何でも簡単に、簡略にしたらいい、しないで済ました家もあるなどという理屈でなされることの意味を知らねばいけないのではないかと思う。
(↓よろしければ、一日一回クリックいただき、教えの伝達にご協力下さい)
にほんブログ村
にほんブログ村