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日本の古寺めぐりシリーズ第8回若狭神宮寺・明通寺をゆく 1

2010年02月22日 14時43分46秒 | 朝日新聞愛読者企画バスツアー「日本の古寺めぐりシリーズ」でのお話
この古寺めぐりシリーズも、早いもので始めて5年目を迎える。番外編を入れると11回目。今回は3月11日、福井県小浜市に若狭神宮寺と明通寺に参る。案内にあるように神宮寺は東大寺のお水取りのお水を送る寺として有名であり、明通寺は石段の上に国宝の三重塔と本堂が聳える山寺。近代化されていない古風な佇まいにひとときの安らぎを感じる。そんな旅になるであろう。

小浜は「海のある奈良」と言われるほどに、お寺が多い。三万四千の人口に137ものお寺がある。近世までは外交の表玄関として大陸からの先進文化の到着地だった。ロシアから中国沿岸部をリマン海流が南下して、朝鮮半島東部にぶつかり若狭湾へ流れ込んでいる。古代からその流れによって、半島東岸の新羅、高句麗の人々が若狭へやってきていたらしい。

それと別に九州には、朝鮮半島西南部に向けて対馬海流が流れていて、そちら側にあった百済との交流が進んだ。だから北陸は古来大陸からの外来文化が到達しそれを奈良京都や大阪に伝える大切な役割を担っていた。平安時代頃には、筑紫太宰府から難波津への正式外交ルートと別に、渤海から北陸へという交易ルートが頻繁に行われていて、若狭は、敦賀、能登、新潟とともにファッション文化の中心地だったという。

だから、若狭とは、朝鮮語の行き来を意味するワカソ、若狭の中心地だった遠敷は、遠くにやるという意味のウフオンニューの音写だと言われる。その遠敷の産業は昔から漁業、薪炭・鋳物、それに農業・商工業だったといい、中でも海の幸は名産で、若狭小鯛(こだい)、若狭鰈(がれい)は有名で、それらが京都へ送られるので、若狭と京を結ぶ街道十八里は「鯖街道」と呼ばれ、水揚げされた鯖に一塩かけて京へ運ばれたのだという。

神宮寺は、JR小浜駅から東へ6キロ、遠敷川沿いにある。天台宗霊應山根本神宮寺というのが正式な名称だ。和銅七年(714)、元正天皇の勅願により開創。開山は、和朝臣赤麻呂(わのあそんあかまろ)と言われ、時に、赤麻呂の前に若狭彦神が現れ、「我鬼道に落ちその身を逃れん為に悪病を流行らせる止めたくば仏像を安置して寺を造り我が鬼を救え」とのたまわったという。はじめは神願寺と称した。地主神と渡来神が一社に合わせ祀られ「若狭日古神二座一社」または「遠敷明神」として祭祀されてきた神仏両道の寺。

平安時代には桓武天皇、また白河天皇(在位1072-1085)の勅命により伽藍整備が行われ。鎌倉時代には、第四代将軍頼経(よりつね)が七堂伽藍二十五坊を再建。若狭彦神社を造営して別当寺として、根本神宮寺と改称した。その後細川清氏(きようじ、応仁の乱の頃には丹波摂津を領していた。若狭は武田氏)が再興、越前・朝倉氏が本堂再建。しかし秀吉が荘園召し上げ、その後明治の廃仏毀釈によって規模が縮小した。

境内には沢山のかつてあった坊跡が散在している。仁王坊跡というのもあり、北門に鎌倉時代末期に出来た重文仁王門。注連縄が張られ、柿葺き切り妻屋根の高さ5.5メートルの大きな仁王門。南北朝時代の金剛力士像が祀られている。像高2.1メートル。砂利の敷かれた緩やかな坂道を歩く。途中にもいくつもの坊跡。そして、本堂にも注連縄が掛けられている。注連縄は浄と不浄を分ける結界を意味しており、これより神域との表示。本堂の背面には神体山、山内の巨木も神々しい。

本堂は檜皮葺入母屋造り。桁行き15メートル、梁間16.6メートル。天文22年(1553)越前守護朝倉義景の再興。本堂は正に神仏共存の道場。中央は、本尊薬師如来の空間。本尊は若狭彦神の本地仏。日光月光、十二神将が所狭しと祀られている。左手は、千手観音に不動明王、毘沙門天。そして右手に、若狭彦若狭姫の両明神と、手向山八幡(東大寺の鎮守)、白石鵜之瀬明神、那加王日古(本堂後背の長尾山の神)、志羅山日古(真向いの山の神)と大きく書かれた掛け軸が三幅掛けられ、それぞれの後ろに神々が住まわれているという。

境内には、外で焚く護摩の石組みがあり、開山堂、奥の院がある。そして何よりもこのお寺を有名ならしめているお水取りの香水を酌む閼伽井戸が南奥にある。その由来には、実忠というインドからの渡来僧が関わる。実忠は、東大寺初代別当の良弁の弟子で、もとは若狭神宮寺に住し、後に奈良に出て良弁を助けた。そして、摂津灘にて補陀洛山に向けて観音菩薩の来迎を祈念して、ついに十一面観音が閼伽の器に乗って飛び来たり、朝廷に願い二月堂に安置、まさに仏教伝来200年かつ大仏開眼の年、天平勝宝四年2月1日(現在は3月1日より)から二週間の行法を始めた。

これが修二月会と呼ばれ今日に至るまで一度も休むことなく不退之行法として1260年も続いてきた。実忠がその行法中、全国の神の名を読み上げ守護を念じたが、遠敷明神だけが漁に出て遅刻してきた。その詫びとして、十一面観音にお供えする閼伽水を若狭から二月堂へ送ることを約束した。

すると白黒二羽の鵜が飛び出したその穴から泉が湧き、お水取りの霊水になったので、東大寺二月堂下の閼伽井屋を若狭井と言う。神宮寺の閼伽井の湧き水を上流二キロの鵜之瀬に流し、奈良東大寺の若狭井に10日かけて到着すると言われ、3月2日に若狭でお水送りをして3月12日の東大寺の二月堂修二会お水取りに使われるのだと信じられている。

因みに、修二会は、11人の練行衆により一日六座行われ、「十一面悔過(じゅういちめんけか)」と言う、十一面観世音を本尊として人々に代わって罪障を懺悔して、天下泰平・五穀豊穣・万民快楽などを願って祈りを捧げる行法。もとは卒天にて行われていた行法で、天の一昼夜は人間界の400日に当たるので、勤行を速め走って行ずる必要があった。

12日深夜勤行を中断して若狭井に松明をかかげ香水を酌みに行く。十一面観音様へお供えされる香水は、根本香水という毎年汲み足される甕と、次第香水というその年の水を入れた甕と二つあり、次第香水はお水取りの行が終わると参詣者らに頒布されるという。

奈良も朝鮮語の都を意味するナラの音写だという。奈良と若狭おそらくその繋がりをさらに延長して渡来僧実忠が遠くインドから日本に至る神仏の伝承すべてに懺悔祈願する行として位置づける象徴として、若狭から奈良に至る霊水の道があったのではないか。ないしは、神宮寺の霊水を卒天からの香水と見立てたのであろうか。とにかく興味尽きない想像を膨らませてみたくなる伝承である。

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