次に、明通寺は、真言宗御室派棡山(ゆずりさん)明通寺という。若狭街道から離れた丘陵の谷間、松永川沿いの奈良室生寺を思わせる佇まい。開山は坂上田村麻呂だと伝承されている。彼は、蝦夷を平定した最初の征夷大将軍で、それは三度にわたる激戦の末のことだった。田村麻呂は敵の首長アテルイの助命を朝廷に嘆願するものの採りいれられずに死刑とされ、その四年後に過去に殺戮した蝦夷の鎮魂のために、また桓武帝の女御であった娘に皇子誕生を願い寺院建立を発願した。
「お寺を建てるに相応しい地を示せ、その地に薬師如来を造立す」と願うと、鏑矢が神通力で放たれ、その矢を坂上田村麻呂が追ってこの地にやってくると矢はユズリギに当たっていた。大同元年(806)のことだった。そこで一人の山中に住む老居士と出会い、その老人から最近火のような光明を見たので近づいてみると生身の薬師如来だったが喜びの余り抱きつくとユズリギに変わってしまったと聞いた。
そこでその大樹で等身の薬師如来、降三世明王、深沙大将を彫って寺院を建立した。それで棡山(ゆずりさん)と山号するが、棡の古葉は新葉に譲って散るといわれ、新たな命への継承が含意されているという。そして、その後も光明は山河を通し照らしたので、光明通寺と称するのだと言い伝えられている。
その後20あまりの坊舎が建ち栄える巨大寺院となり門前町まであったというが、その後火災に遭い衰退。鎌倉時代に、頼禅法印が現在の伽藍を中興した。武家と密接な関係を保ち寺領を拡大し、鎮守堂、大鳥居、湯屋など24坊など伽藍整備を行っていった。古くから明通寺は勅願寺として国の祈願を担っていたが、この時代には、坂上田村麻呂の寺ということで、武士たちから特に崇敬を受けたという。
異国降伏の祈願もしたと言うが、 元弘三年(1333)には後醍醐天皇側に組して兵糧米を献上し、朝敵退散の祈祷をするなど戦勝祈祷を繰り返し、若狭・能登野の内乱においては住僧も巻き込まれ討ち死にしている。鎌倉・室町時代を通じて幕府、守護、地頭の崇敬を受け、歴代守護の祈願寺として隆盛を極めた。近在の土豪百姓らによる先祖供養のための如法経料足寄進札などで信仰を集めた。
大永八年(1528)の寺領目録によるば8町1反の寺領があったというが、江戸期以降は除々に衰退。しかし、その後火災にあうこともなく、鎌倉時代の国宝が存続できたことは幸いであった。古代から中世においては、天台宗・真言密教・修験道などの法灯を伝え、比叡山や高野山、吉野・熊野の両峯との交流もあったというが、今日では真言宗御室派に属す。
松永川にかかるゆずり橋を渡り山門へ。市指定文化財の山門は、明和九年(1772)江戸時代中期再建の瓦葺き重層。金剛力士像も市指定文化財で、文永元年(1264)鎌倉時代中期の作。山門手前の坂両側には、老杉の巨木か聳える。左手には小振りの鐘楼堂。ユズリハ、ノウゼンカズラ、ギボシ、アジサイの木を眺めつつ、三つ四つ石段を上がる。本堂は国宝。檜皮葺入母屋造り。正嘉二年(1258)頼禅法印の再建。桁行き14.7メートル、梁間14.9メートル。鎌倉時代の荘重な力感溢れる名建築と評されている。
本尊は、薬師如来、像高144,5㎝平安時代後期の作、重文。ヒノキの寄木造り穏やかな相好でゆったりとした量感、にこやかな表情を浮かべているかのよう。十二神将は室町時代の作。薬師如来の脇侍は普通日光月光菩薩だが、ここは、右に降三世明王、左に深沙大将の立像が祀られている。四つの顔と八本の腕を持ち、252,4㎝の巨像。インドの三世を支配するシヴァ神・大自在天を降伏させた力強い明王。シヴァ神と妃ウマを踏みつけている。明王像としては静かな品格を備えた名作。
深沙大将とは、玄奘三蔵(600-664)がインドに向かう際に、砂漠で救われたという護法神で、多聞天の化身とも言われる。西遊記の沙悟浄のモデルでもある。頭にドクロをのせ、右手に戟、左手に蛇をつかみ、腹部に人面を付ける異形の姿ではあるが、忿怒の相も穏やかで、太い足で悠然と立つ姿は、おおらかな落ち着きがある。像高256.5㎝。この像は他には、岐阜県揖斐郡横蔵寺、京都府舞鶴市金剛院などにしかない貴重な尊像。
この三尊の取り合わせは、おそらくその時代には所謂薬師三尊というような今日に見る日光月光の菩薩の配置が定着する前の古い時代のありようをそのままに継承してきたが為のものではないかと思う。それがおそらく寺創建の由来となり記述され伝承されたが為にそのままの形が残されたのであろう。薬師如来が本願功徳経によって役割が定まる前からある古い如来であることを考えればこのような配置はかなり沢山大陸や朝鮮半島ではその時代結構あり得たのではないかと思われる。
本堂左手奥には弁天堂がある。本堂前からは左手上、石段正面に美しく三重塔か聳えて見える。高さ22.1メートル。文永七年(1270)の再建。国宝。かつては瓦葺きだったが、昭和32年の解体修理の際に本堂と同じは檜皮葺きに。内部には釈迦三尊坐像、極彩色の十二天像壁画がある。塔を囲むように杉の巨木が立つ。塔正面には権現山の美景が望める。室生寺の五重塔は16メートルの小塔だが、同じ山寺の木々に囲まれた風情は共通する。見比べてみるのも面白い。
ところで、明通寺のご住職中嶌哲演師は、「原発銀座」と呼ばれる若狭で、長年にわたり原発反対運動の中心として活動され、「現場」から全国に向けて深いメッセージを発信してこられた。明通寺は、蝦夷征伐を行った坂上田村麻呂がアテルイたちの鎮魂のために創建した寺院といわれるが、そのお寺の住職として、若狭の核廃棄物を青森に押し付けることに心を痛めているとも言われる。
地球温暖化問題が叫ばれ、石油の高騰に不安を煽られ、原子力の必要性に世論が傾くよう仕向けられ、欧米でも原発を終息させていく方向が改められようとしている現在、被曝労働をはじめ、いのちを蝕まれる人々や自然と常に向き合っている明通寺ご住職に対面し、出来ればそうした市民活動家としての一面からの話も是非伺いたいと思う。
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「お寺を建てるに相応しい地を示せ、その地に薬師如来を造立す」と願うと、鏑矢が神通力で放たれ、その矢を坂上田村麻呂が追ってこの地にやってくると矢はユズリギに当たっていた。大同元年(806)のことだった。そこで一人の山中に住む老居士と出会い、その老人から最近火のような光明を見たので近づいてみると生身の薬師如来だったが喜びの余り抱きつくとユズリギに変わってしまったと聞いた。
そこでその大樹で等身の薬師如来、降三世明王、深沙大将を彫って寺院を建立した。それで棡山(ゆずりさん)と山号するが、棡の古葉は新葉に譲って散るといわれ、新たな命への継承が含意されているという。そして、その後も光明は山河を通し照らしたので、光明通寺と称するのだと言い伝えられている。
その後20あまりの坊舎が建ち栄える巨大寺院となり門前町まであったというが、その後火災に遭い衰退。鎌倉時代に、頼禅法印が現在の伽藍を中興した。武家と密接な関係を保ち寺領を拡大し、鎮守堂、大鳥居、湯屋など24坊など伽藍整備を行っていった。古くから明通寺は勅願寺として国の祈願を担っていたが、この時代には、坂上田村麻呂の寺ということで、武士たちから特に崇敬を受けたという。
異国降伏の祈願もしたと言うが、 元弘三年(1333)には後醍醐天皇側に組して兵糧米を献上し、朝敵退散の祈祷をするなど戦勝祈祷を繰り返し、若狭・能登野の内乱においては住僧も巻き込まれ討ち死にしている。鎌倉・室町時代を通じて幕府、守護、地頭の崇敬を受け、歴代守護の祈願寺として隆盛を極めた。近在の土豪百姓らによる先祖供養のための如法経料足寄進札などで信仰を集めた。
大永八年(1528)の寺領目録によるば8町1反の寺領があったというが、江戸期以降は除々に衰退。しかし、その後火災にあうこともなく、鎌倉時代の国宝が存続できたことは幸いであった。古代から中世においては、天台宗・真言密教・修験道などの法灯を伝え、比叡山や高野山、吉野・熊野の両峯との交流もあったというが、今日では真言宗御室派に属す。
松永川にかかるゆずり橋を渡り山門へ。市指定文化財の山門は、明和九年(1772)江戸時代中期再建の瓦葺き重層。金剛力士像も市指定文化財で、文永元年(1264)鎌倉時代中期の作。山門手前の坂両側には、老杉の巨木か聳える。左手には小振りの鐘楼堂。ユズリハ、ノウゼンカズラ、ギボシ、アジサイの木を眺めつつ、三つ四つ石段を上がる。本堂は国宝。檜皮葺入母屋造り。正嘉二年(1258)頼禅法印の再建。桁行き14.7メートル、梁間14.9メートル。鎌倉時代の荘重な力感溢れる名建築と評されている。
本尊は、薬師如来、像高144,5㎝平安時代後期の作、重文。ヒノキの寄木造り穏やかな相好でゆったりとした量感、にこやかな表情を浮かべているかのよう。十二神将は室町時代の作。薬師如来の脇侍は普通日光月光菩薩だが、ここは、右に降三世明王、左に深沙大将の立像が祀られている。四つの顔と八本の腕を持ち、252,4㎝の巨像。インドの三世を支配するシヴァ神・大自在天を降伏させた力強い明王。シヴァ神と妃ウマを踏みつけている。明王像としては静かな品格を備えた名作。
深沙大将とは、玄奘三蔵(600-664)がインドに向かう際に、砂漠で救われたという護法神で、多聞天の化身とも言われる。西遊記の沙悟浄のモデルでもある。頭にドクロをのせ、右手に戟、左手に蛇をつかみ、腹部に人面を付ける異形の姿ではあるが、忿怒の相も穏やかで、太い足で悠然と立つ姿は、おおらかな落ち着きがある。像高256.5㎝。この像は他には、岐阜県揖斐郡横蔵寺、京都府舞鶴市金剛院などにしかない貴重な尊像。
この三尊の取り合わせは、おそらくその時代には所謂薬師三尊というような今日に見る日光月光の菩薩の配置が定着する前の古い時代のありようをそのままに継承してきたが為のものではないかと思う。それがおそらく寺創建の由来となり記述され伝承されたが為にそのままの形が残されたのであろう。薬師如来が本願功徳経によって役割が定まる前からある古い如来であることを考えればこのような配置はかなり沢山大陸や朝鮮半島ではその時代結構あり得たのではないかと思われる。
本堂左手奥には弁天堂がある。本堂前からは左手上、石段正面に美しく三重塔か聳えて見える。高さ22.1メートル。文永七年(1270)の再建。国宝。かつては瓦葺きだったが、昭和32年の解体修理の際に本堂と同じは檜皮葺きに。内部には釈迦三尊坐像、極彩色の十二天像壁画がある。塔を囲むように杉の巨木が立つ。塔正面には権現山の美景が望める。室生寺の五重塔は16メートルの小塔だが、同じ山寺の木々に囲まれた風情は共通する。見比べてみるのも面白い。
ところで、明通寺のご住職中嶌哲演師は、「原発銀座」と呼ばれる若狭で、長年にわたり原発反対運動の中心として活動され、「現場」から全国に向けて深いメッセージを発信してこられた。明通寺は、蝦夷征伐を行った坂上田村麻呂がアテルイたちの鎮魂のために創建した寺院といわれるが、そのお寺の住職として、若狭の核廃棄物を青森に押し付けることに心を痛めているとも言われる。
地球温暖化問題が叫ばれ、石油の高騰に不安を煽られ、原子力の必要性に世論が傾くよう仕向けられ、欧米でも原発を終息させていく方向が改められようとしている現在、被曝労働をはじめ、いのちを蝕まれる人々や自然と常に向き合っている明通寺ご住職に対面し、出来ればそうした市民活動家としての一面からの話も是非伺いたいと思う。
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