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日に日に亡くなられた人が増え続けている。その中で、9日目にして八〇歳の女性とお孫さんが救出されたというニュースも伝わっている。避難所の態勢もまだ整わないところが多く、まったく取り残されている人たちも居られるようだ。政府は何をやっている足りないものばかりだという声も漏れ伝わっている。確かにその通りなのであろう。しかしそう言うのは簡単だが、このような事態で全てが上手いように進むことを望むのもいかがなものか。おそらくそれは、被災者と自治体、政府を結ぶ中間にいてそれらの手配をすべく努力している人たちから漏れ出た言葉だと思う。実際に被災して避難している人たちの声はまた違うのではないか。
毎日被災地での様子に心痛めながらも私たちの生活は進行していく。お彼岸になり、また通常の仕事も当然のことながら進めていかねばならない。そうしていながらも誰もが被災地を思い、またそれが自分の身近で起こることを考え、様々なことを考えさせられることであろう。すべてのものは無常であり、苦しみは突然やってくる。この世の中はそんなものだと頭では分かっていながらも、突然の場面では誰でもがとてつもない苦しみを感じる。しかしその苦を何とか長引かせることなく、また出来れば軽いものとして受け取ることはできないものだろうか。
私たち誰にでも、いつそのような苦しみがやってくるか分からない。それは今回のような天災かもしれないし、災害かもしれない、また、病気や、身近な人の不幸かもしれない。とにかくそうしたことごとが今回の地震や津波の被害のように、それらがいくつも重複して起こる事態に追い込まれないとも限らない。日々、私たちは心構えとして、この世は無常なのだという真理を心の片隅に、頭の隅に留めておくことが必要ではないかと思う。
そして、何かあったとき、それがこの世の習いとすることであると、誰にでもやってくることであると思うことが出来たなら、絶望したり、パニックになったり、自暴自棄にならずに済むのではないか。今回の東北関東大震災で被災した人たちの多くが冷静な対応が取れたのも、多くの人たちがそのような思いをお持ちであったればこそ、大きなトラブルもなく粛々と行動されたのであろうかと思う。それをおそらく海外のメディアは日本人はみな水を汲むのにも取り合いにならずパニックを起こすこともなく列を作り冷静であると称賛しているのであろう。
そして、前回も書いたとおり、無常だからこそ、そのどん底にあるような思いから必ず回復していける、立ち直っていける、よい方向に変わっていけると信じられる。それは運命などでないと。これからの行い、考え方次第で換えられるのだと思える。それが大切なのではないかと思う。
同じような境遇にあっても、生と死を分けることがある。それをその人の持った功徳である、行い、つまり業なのだと言う人もある。すべてのことに原因ありとも言い、生き残れた方にはよいが、亡くなられた方には誠に無礼な冷酷な物言いに聞こえる。しかし、それほどこの世の中の現象は単純ではないだろう。一人一人の今生での行い、その方たちの過去世の因縁、それがこの天災とどう関係しどう結果していくのか、そんなことがお分かりになられるのはおそらくお釈迦様だけであろう。安易に言うべきことではない。
しかし、増一阿含経の中にある『業道経』という経には、同じ事をしても地獄に行く人と行かない人がある。それを分けるのは、その人の日々の行い、心を修め、智慧の教えを学び、功徳豊かであったかどうかにあると書かれている。人として生まれたからには善きことをせよとも教えられるように、行い次第によってよくあれるのは私たち人間だけなのであるから、たくさんの善いことをしておいて悪いことはないとも考えられる。仏を拝むことも大切かもしれないが、それよりも行いが大切なのだとお釈迦様もおっしゃられていることにも通じる。
五歳の女の子が家族が皆亡くなり、家も流され天涯孤独になった。避難所でインタビューに応じたその子は、「それまでの生活がいかに幸せであったかが分かりました」とコメントしたという。だから私たち被災しなかった者たちは今こうしてつつがなく暮らせることに幸せを見出すことが大切だという人もある。漫然と何もかも当たり前、不満ばかりを言うことに対する反省の弁として聞くことは出来よう。
しかし、事はそれほど簡単ではないというのが本当のことであろう。何もかにも整い、なんでも当たり前の生活をしている天人のような生活に興じている人たちにそのありがたさを思えと言っても、簡単にそう思えるものではない。この世の中はそんなに生ぬるいものではないだろう。やはり苦しみの現実を身をもって体験して初めてそのありがたさが分かるものではないか。幸福を食べて生きる天界の住人がやはりこの苦楽ある人間界に地獄の苦しみを味わいつつ降りてきて、やはりそこで努力しなくては悟れないというのはそうした意味でもあろうと思えるから・・・。
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毎日被災地での様子に心痛めながらも私たちの生活は進行していく。お彼岸になり、また通常の仕事も当然のことながら進めていかねばならない。そうしていながらも誰もが被災地を思い、またそれが自分の身近で起こることを考え、様々なことを考えさせられることであろう。すべてのものは無常であり、苦しみは突然やってくる。この世の中はそんなものだと頭では分かっていながらも、突然の場面では誰でもがとてつもない苦しみを感じる。しかしその苦を何とか長引かせることなく、また出来れば軽いものとして受け取ることはできないものだろうか。
私たち誰にでも、いつそのような苦しみがやってくるか分からない。それは今回のような天災かもしれないし、災害かもしれない、また、病気や、身近な人の不幸かもしれない。とにかくそうしたことごとが今回の地震や津波の被害のように、それらがいくつも重複して起こる事態に追い込まれないとも限らない。日々、私たちは心構えとして、この世は無常なのだという真理を心の片隅に、頭の隅に留めておくことが必要ではないかと思う。
そして、何かあったとき、それがこの世の習いとすることであると、誰にでもやってくることであると思うことが出来たなら、絶望したり、パニックになったり、自暴自棄にならずに済むのではないか。今回の東北関東大震災で被災した人たちの多くが冷静な対応が取れたのも、多くの人たちがそのような思いをお持ちであったればこそ、大きなトラブルもなく粛々と行動されたのであろうかと思う。それをおそらく海外のメディアは日本人はみな水を汲むのにも取り合いにならずパニックを起こすこともなく列を作り冷静であると称賛しているのであろう。
そして、前回も書いたとおり、無常だからこそ、そのどん底にあるような思いから必ず回復していける、立ち直っていける、よい方向に変わっていけると信じられる。それは運命などでないと。これからの行い、考え方次第で換えられるのだと思える。それが大切なのではないかと思う。
同じような境遇にあっても、生と死を分けることがある。それをその人の持った功徳である、行い、つまり業なのだと言う人もある。すべてのことに原因ありとも言い、生き残れた方にはよいが、亡くなられた方には誠に無礼な冷酷な物言いに聞こえる。しかし、それほどこの世の中の現象は単純ではないだろう。一人一人の今生での行い、その方たちの過去世の因縁、それがこの天災とどう関係しどう結果していくのか、そんなことがお分かりになられるのはおそらくお釈迦様だけであろう。安易に言うべきことではない。
しかし、増一阿含経の中にある『業道経』という経には、同じ事をしても地獄に行く人と行かない人がある。それを分けるのは、その人の日々の行い、心を修め、智慧の教えを学び、功徳豊かであったかどうかにあると書かれている。人として生まれたからには善きことをせよとも教えられるように、行い次第によってよくあれるのは私たち人間だけなのであるから、たくさんの善いことをしておいて悪いことはないとも考えられる。仏を拝むことも大切かもしれないが、それよりも行いが大切なのだとお釈迦様もおっしゃられていることにも通じる。
五歳の女の子が家族が皆亡くなり、家も流され天涯孤独になった。避難所でインタビューに応じたその子は、「それまでの生活がいかに幸せであったかが分かりました」とコメントしたという。だから私たち被災しなかった者たちは今こうしてつつがなく暮らせることに幸せを見出すことが大切だという人もある。漫然と何もかも当たり前、不満ばかりを言うことに対する反省の弁として聞くことは出来よう。
しかし、事はそれほど簡単ではないというのが本当のことであろう。何もかにも整い、なんでも当たり前の生活をしている天人のような生活に興じている人たちにそのありがたさを思えと言っても、簡単にそう思えるものではない。この世の中はそんなに生ぬるいものではないだろう。やはり苦しみの現実を身をもって体験して初めてそのありがたさが分かるものではないか。幸福を食べて生きる天界の住人がやはりこの苦楽ある人間界に地獄の苦しみを味わいつつ降りてきて、やはりそこで努力しなくては悟れないというのはそうした意味でもあろうと思えるから・・・。
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私は、どんなに自分の思う様にならずとも、神様に愚痴をこぼした事は、生まれてこの方一度たりともありません。
神様の御意志は人の都合など関係なく、ただ、粛々と万物の営みを管理なさっておられる事を知っているから。無常であるからこそ、この世の秩序が保たれているのであって、人のご都合主義で神が動いていては、忽ちこの世の秩序は崩れてしまうでしょう。生、老、病、死は、生きとし生ける者全てに平等に訪れ、雨も、日の光も、月の光も、生きとし生ける者全てに降り注ぐ。
そんな事を知らずに神に愚痴をこぼす等とは失礼の極み。
愚痴を垂れる前に、生まれて来た事、今日一日を迎える事が出来た事、今日の糧に有り付く事が出来た事に対して神様に一向に感謝すべきではないかと私は思います。
愚痴を垂れる者が何を願おうとて、神はその者の願いに耳を貸す事はありません。
神様が好意を抱くのは、感謝し、御自身の御意志を理解する人だけ。
人は神様とのお付き合いを見直すべきだと私は思います。
ただちに健康には影響ないとはどういうことなのか、それは本当なのか、そのように言う彼らがまったくものが分かっていないということがよく分かります。
http://www.ustream.tv/recorded/13509353
茉莉花さん、コメントありがとうございます。普通に考えられている神とは人間の作り出した物に過ぎないでしょう。私たちも善い心をつくれば来世で神にもなりうると考えるのが仏教の考えです。