放下に生きる
謹賀新年。一年の経つのがとてつもなく早く感じる。そういう歳になってしまったということか。時代がそうさせるのであろうか。総理の年頭所感にある「時代の転換点にある」という言葉は重たい意味が込められているのであろう。私自身も一昨年末頃からそう感じるようになった。これまでのような戦後市民が自由に気儘にどこにでも行き、好きなことをして何の不自由も感じなかった時代は終わらせようと考える人々がいるようだ。
嫌な世の中になりつつある。コロナコロナが日常になり、誰もがマスクをすることに躊躇いがなくなってしまった。どこに行っても、マスクをしなければならない世の中はおかしいと気づかねばならないのに誰も疑問にも思わない。少し前には風邪もひいていないのにマスクをしている人は不審者と思われた。それが今では誰もが自ら不審者になっている。
昨年末に、ある施設に入館しようとしたらワクチン接種証明はあるかと聞かれた。一度も接種していないのだからあるはずもないので、ないが何か問題はありますかと問うと、いやどうぞということになったが、どうぞと言われない時代が来るのかもしれないと思うとただ事では済まされない。ひところ言われたジョージ・オーウェルの1984の世界が現実になるのであろうか。
お上の言うことに間違いはないと思いたいのだが疑問に感じることだらけである。しかし世の中の人は間違いないと思う人ばかりのようだ。はたして、それでよいのであろうか。先の戦争や福島の原発事故の現実から何も私たちは学んでいないことにはならないか。自分で調べる、そして考える、何が真実なのか自分で判断できないでこれからをどう生ききれるのか。
言われるままにマスクをして、何の疑問も感じずにワクチンを打ち、ウクライナと同じ立場に立ってはならないと扇動され、また同じ過ちを犯すことに突き進んでいくのだろうか。仏教は先の戦争で戦争に加担し戦意発揚に協力した。二度と過ちは繰り返しません。そう誓って戦後復興に邁進してきたのではなかったか。過ちとは、外の力に翻弄されて抗いきれずにその場に追い込まれていく事態に陥ることではないだろうか。当時は今よりもはるかに気骨ある人々が国を率いていたのにかかわらず引きずり込まれていった。
二度と過ちは繰り返しません、私たちにとっては、そうした統制された報道による時勢に乗り、むやみに体制に加担することではないか。誰もが右を向いて歩けと言われ、その通りにすることのおかしさに今も気づかねばならない。何の疑問も持たずに今の時世に身をゆだねていたら、行き着く先には同じ過ちを繰り返すところまでいくと気づかねばならない。
こんな時代だからこそ、私たちは時代に翻弄されない生き方を模索しなくてはいけないのではないか。禅語に「放下着」という言葉がある。放下とは願い、悩み、苦しみ、様々な思い計らい、一切の執着を仏様に預けて、放り捨てて、只信仰一筋に生きることであろう。しかし、私たちの心にはそうした仏様にお願いしたり、悩みを解決して欲しいと願うようなもの以外にも、外部の情報によって日々様々な不安や嫌悪感や悲しみや恐怖を煽られ心の負担を増しつつある。
サッカーワールドカップで、あれだけの人々がノーマスクで観戦している映像を見せられても、つまりコロナ騒動は日本だけで継続されていている不可解に気づこうとしない。そういう人には、毎日報道される感染者数などに未だに一喜一憂する不安をのがれないだろう。戦争報道にしても、そこにどれだけの真実があるのか、その戦争の本質は何かと見ていく人は少ない。
それは世界の経済構造を一気に変えてしまうものであり、時代の変化をもたらすためにあると捉えねばならないのではないか。もちろんそうした大国の事情に巻き込まれる市民の苦しみははかりしれない。私たち同胞も同じ苦しみをかつて経験させられた。さらに気候変動問題、食糧危機。国内では物価上昇や防衛費の増額、税金の上乗せ。これら課題が山積する中で、それらの報道に惑わされず、不安を煽られることなく、それらの本質に視点を合わせるためにも、それらの情報に触れた時、放下という手段によって、心乱されることの無いように自己防衛を図らねばならないのではないかと思う。
不安をあおる数字、映像、恐怖をあおる言説に接した時、それらを不安や恐怖に感ずる前に手放すことで自分を守ることが必要であろう。そうして冷静に冷徹に、決して騙されることなく時代の推移をみて、これまで同様平穏に生活を続けていく。そのためには、目の前にある今あることに集中して、自分の行為に徹する、そのためには一つ一つの行為に言葉で確認するくらいの手間も必要かもしれない。『一夜賢者経』にもあるように、過去はすでに過ぎ去り未来はいまだ来たらず、ただいますべきことをせよ。今年は、見たもの聞いたものを自分の中に取り入れてしまう前に手放し今に徹して生きる、こうした技術を養う年としてはいかがであろうか。
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謹賀新年。一年の経つのがとてつもなく早く感じる。そういう歳になってしまったということか。時代がそうさせるのであろうか。総理の年頭所感にある「時代の転換点にある」という言葉は重たい意味が込められているのであろう。私自身も一昨年末頃からそう感じるようになった。これまでのような戦後市民が自由に気儘にどこにでも行き、好きなことをして何の不自由も感じなかった時代は終わらせようと考える人々がいるようだ。
嫌な世の中になりつつある。コロナコロナが日常になり、誰もがマスクをすることに躊躇いがなくなってしまった。どこに行っても、マスクをしなければならない世の中はおかしいと気づかねばならないのに誰も疑問にも思わない。少し前には風邪もひいていないのにマスクをしている人は不審者と思われた。それが今では誰もが自ら不審者になっている。
昨年末に、ある施設に入館しようとしたらワクチン接種証明はあるかと聞かれた。一度も接種していないのだからあるはずもないので、ないが何か問題はありますかと問うと、いやどうぞということになったが、どうぞと言われない時代が来るのかもしれないと思うとただ事では済まされない。ひところ言われたジョージ・オーウェルの1984の世界が現実になるのであろうか。
お上の言うことに間違いはないと思いたいのだが疑問に感じることだらけである。しかし世の中の人は間違いないと思う人ばかりのようだ。はたして、それでよいのであろうか。先の戦争や福島の原発事故の現実から何も私たちは学んでいないことにはならないか。自分で調べる、そして考える、何が真実なのか自分で判断できないでこれからをどう生ききれるのか。
言われるままにマスクをして、何の疑問も感じずにワクチンを打ち、ウクライナと同じ立場に立ってはならないと扇動され、また同じ過ちを犯すことに突き進んでいくのだろうか。仏教は先の戦争で戦争に加担し戦意発揚に協力した。二度と過ちは繰り返しません。そう誓って戦後復興に邁進してきたのではなかったか。過ちとは、外の力に翻弄されて抗いきれずにその場に追い込まれていく事態に陥ることではないだろうか。当時は今よりもはるかに気骨ある人々が国を率いていたのにかかわらず引きずり込まれていった。
二度と過ちは繰り返しません、私たちにとっては、そうした統制された報道による時勢に乗り、むやみに体制に加担することではないか。誰もが右を向いて歩けと言われ、その通りにすることのおかしさに今も気づかねばならない。何の疑問も持たずに今の時世に身をゆだねていたら、行き着く先には同じ過ちを繰り返すところまでいくと気づかねばならない。
こんな時代だからこそ、私たちは時代に翻弄されない生き方を模索しなくてはいけないのではないか。禅語に「放下着」という言葉がある。放下とは願い、悩み、苦しみ、様々な思い計らい、一切の執着を仏様に預けて、放り捨てて、只信仰一筋に生きることであろう。しかし、私たちの心にはそうした仏様にお願いしたり、悩みを解決して欲しいと願うようなもの以外にも、外部の情報によって日々様々な不安や嫌悪感や悲しみや恐怖を煽られ心の負担を増しつつある。
サッカーワールドカップで、あれだけの人々がノーマスクで観戦している映像を見せられても、つまりコロナ騒動は日本だけで継続されていている不可解に気づこうとしない。そういう人には、毎日報道される感染者数などに未だに一喜一憂する不安をのがれないだろう。戦争報道にしても、そこにどれだけの真実があるのか、その戦争の本質は何かと見ていく人は少ない。
それは世界の経済構造を一気に変えてしまうものであり、時代の変化をもたらすためにあると捉えねばならないのではないか。もちろんそうした大国の事情に巻き込まれる市民の苦しみははかりしれない。私たち同胞も同じ苦しみをかつて経験させられた。さらに気候変動問題、食糧危機。国内では物価上昇や防衛費の増額、税金の上乗せ。これら課題が山積する中で、それらの報道に惑わされず、不安を煽られることなく、それらの本質に視点を合わせるためにも、それらの情報に触れた時、放下という手段によって、心乱されることの無いように自己防衛を図らねばならないのではないかと思う。
不安をあおる数字、映像、恐怖をあおる言説に接した時、それらを不安や恐怖に感ずる前に手放すことで自分を守ることが必要であろう。そうして冷静に冷徹に、決して騙されることなく時代の推移をみて、これまで同様平穏に生活を続けていく。そのためには、目の前にある今あることに集中して、自分の行為に徹する、そのためには一つ一つの行為に言葉で確認するくらいの手間も必要かもしれない。『一夜賢者経』にもあるように、過去はすでに過ぎ去り未来はいまだ来たらず、ただいますべきことをせよ。今年は、見たもの聞いたものを自分の中に取り入れてしまう前に手放し今に徹して生きる、こうした技術を養う年としてはいかがであろうか。
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