俄かに、終わったはずのコロナが日本においてのみ流行っているようだ。
なぜだろう。この10月から自己増幅型mRNAワクチンの定期接種が開始されるというタイミングで。
その危険性について、相互フォロワーのさくらもち様から提供いただいた
一般社団法人日本看護倫理学会による緊急声明を是非ご覧いただきたい。謎が解けよう。
https://www.jnea.net/news/cat-statement/post-655/
下記は3年前に執筆したものではありますが、真言宗情報誌新年号に掲載されたものです。
六大新報
令和四年新年特別号掲載(令和三年十一月執筆)
いま、あらためて
仏教徒に求められること
江戸から明治となって、今年で百五十四年。先の戦争からは七十七年目となり、大きな時代の転換点を迎えているように感じる。
一時代のあり方に対し、私たちはどのような態度でいるべきか。時代に翻弄されるしかないとはわかっていながらもすべきことは何か。損得や立場でしか判断できないが故に、主体性を失い、誰もが言いなりになってはいまいか。
二〇二一年八月二八日、二〇一六年まで五年間バチカンの米国教皇大使を務めたカルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、世界に向けたビデオメッセージで次のように語った。
「世界中のほぼすべての国の政府が行ってきた感染対策で、約束された成果をあげたものは存在しない。緊急事態、有事の名の下に、コロナとコロナワクチンは宗教となった。
二〇二〇年二月、世界的に妥当性を認められていた医学の原則は、即興医学に取って代わられた。医師倫理綱領の宣誓に対して忠実な医療関係者たちが異端とされる一方で、犯罪的な利益相反や製薬会社との癒着があるウイルス学者や科学者たちが不問に付されている。
マスメディア、ジャーナリストたちも同罪である。現在起きている出来事はごく一握りの人々が自分たちの目的と利益のために行っていることを理解する必要がある。…(抄録)」と。
二〇二一年七月から十一月にかけて、イタリヤやフランス、オーストリアなどヨーロッパでワクチンの義務化やワクチンパスポート導入に反対する市民による大規模な抗議活動が起きている。オーストラリアでは、平和的な抗議活動を警察が弾圧し、基本的人権や自由を侵害しているとして複数の国から非難されている。
アメリカでは、フロリダやテキサス、サウスダコタなど二十州が、ワクチンパスポート導入は個人の自由を奪うものとして、ワクチンパスポート導入禁止法案や行政命令により、企業、政府機関、学校などが個人にワクチン接種証明の提示を求めることを禁じた。…
世界中が二年にもわたるこうした混迷を深める時代に、私たち仏教徒はいかにあるべきなのか。ここでは原点に立ち返って、私たちにとっての仏陀であるお釈迦様の事績に則り考えてみたい。
①世間の通説にとらわれず自ら考える
お釈迦様は、御存じの通り、生後間もなくに母を亡くし継母に養育されたこともあってか、幼少の頃からよく沈思瞑想にふける方であったという。
世間の仕来りにとらわれず、人として最高に価値ある生き方とはいかなるものかと思索されたのではないか。そして、子息が生まれ跡取りができたことを確認すると城を出て出家なされた。
私たちも、様々な怖れ悩み苦しみ違和感を感じつつ生きている。そうした日々感じられる生きづらさ、悩み苦しみのもとを自ら問う、世間の通説にとらわれず考えることが大切であろう。
この二年、コロナコロナに明け暮れ、様々な疑問に出会う。そもそも症状のない気道感染症とはいかなるものか。検査に、なぜ発明者であるキャリー・マリス博士が「感染症の診断に使ってはならない」としたPCR法が使われるのか。PCR陽性者は感染者とされるのはどうしてか。
無症状感染者から感染する可能性があるとするのは本当か。ウイルス感染予防に効果がないとされるマスクが推奨されるのはなぜか。季節性のインフルエンザ程度の死者数にもかかわらずパンデミックといい、毎日都道府県別市町村別の感染者数、死者数を報道し続けるのはどうしてか。などいくつもの疑問に出会う。
そうした疑問を、新聞テレビの報道を鵜呑みにすることなく、それらひとつ一つについて自ら考える、情報を収集し、思索するということが何よりも大切なのではないか。
②祈りではなく真実を知る
そして、お釈迦様は、人々が神々の世界を信じ、ヴェーダ聖典に規定された祭祀儀礼を厳粛に勤めねばならないとしていた時代に、祈りではなく、この世の真実、真理を発見し開悟された。
私たちも、悩みの元となることの真実に気づくと、それまでモヤモヤしていた気持ちが嘘のように解消したりするが、真実を見極めることにより心は静まり平穏になる。
いま私たちは、世界中の人々を恐怖に陥れていることの根本原因について探求しなくてはならない。このパンデミックはなぜ発生したのか、自然発生のものであろうか。二〇一九年十月十八日、ニューヨークで各界の識者を集めて「イベント201」という、世界的な感染症によるパンデミックのシミュレーション会議が開催されているが、その経緯はいかなるものか。
二〇二〇年四月十日安倍総理が「この感染拡大こそ第三次大戦だと認識している」と語ったのはどういう意味だったのか。世界経済フォーラムが二〇二一年のアジェンダとするグレートリセットは、人々をどのような未来に導こうとしているのか。
税金で負担してまで治験途中のワクチンを全国民に打たせようとする背景には何があるのか。二〇二一年五月二四日、国内の医師ら四五〇人が、既に三百五十人もの死者(当時、現在千三百人超)を出している危険なワクチン接種の中止を求めて嘆願書を厚労省に提出した。そのとき記者会見までしているのに、報道すらされないのはどうしてか。などと探求を進めていかねばならない。
異常な世間の状況に怯え恐怖し不安になるのも、この事態に至る真実、真相を知ろうとしていないからではないか。祈りも大切ではあるが、何よりも私たち仏教徒は真実を知ることを優先するべきである。
③お釈迦様を人生の理想とする
お釈迦様は、成道後この真理は世間の生きることに耽溺している人々には理解できないと考えられた。がその時、インドの最高神である梵天が現れて、説法することを懇請する。そこで、世の人々を改めて見渡してみると、確かに煩悩薄き者たちが存在し、彼らは説法により解脱することが可能であるとわかり法を説くことを決意したとされる。
お釈迦様は、説法した相手に最高の悟りを得て欲しいが故に法をお説きになったのである。その法を頼りに生きる仏教徒は、お釈迦様の願いである悟りを実現すべく生きる人ということになる。
人生の生きがいや目標の先にはいつも悟りという最終目標があるのだと思って生きることが必要であろう。そう捉えられるならば、たとえどんな時代になったとしても、目標を失わずに生きることができる。
体温を計られ、マスクを強要され、人との距離を測られる。さらに自宅軟禁を強いられるような不自由な時期をすでに経験した。
さらに二〇二〇年五月に参議院で、個人のプライバシーと権利を侵害すると懸念される「スーパーシティ法」が可決成立し、今後施行されていく。顔認証によるキャッシュレス決済が義務化され、個人情報が断りなくデータ連携基盤事業者に開示されるような管理監視社会に向けて歩みを進めることになるという。
しかし、そうしてたとえ将来自由が制限されて、検査やワクチン接種により選別されるような時代になっても、最終的な目標を失うことなく生きることが私たちには必要であろう。
④自他の考えの違いを認める寛容な社会を目指す
お釈迦様は、その後生涯にわたり縁あった人々に法を説かれるが、その説き方は対機説法といわれるように、法を説く相手に相応しい説き方をされた。
それぞれの性質や機根に応じ、個々の立場考え方を尊重しながら法を説かれた。
仏教徒は、自らの考え、生き方を持つ人々であり、権威ある人の発言にとらわれず、むやみに多数意見に同調することなく、他者の個性や意向を尊重する人であらねばならない。
すでに、特措法の改正により時短命令に服さない飲食店などに罰則を科すところまで社会がいびつになった。多くの人が何の疑問を抱くことなくマスク着用が社会に浸透し、ノーマスク者を異端とみなす風潮も生まれている。
医療機関だけでなく企業などの職場でも、厚労省が「あくまで本人の意思に基づくもので、強制や差別的扱いがあってはならない」としているのに、ワクチン接種を拒否すると職場から締め出されるような雰囲気があるという。
ワクチン接種が必要か否かも議論されないまま、全国民の七割を超える人たちが二度の接種を済ませたとされる。そして、ワクチン接種証明提示による、不平等な利益を提供する措置が進んでいる。
病院や介護施設などでは、入院入居している人を家族を含む外部者に面会させない規則を当然のごとくに続けている。海外にも自由に渡航できない状態が続く。
他者の考え思いを拒絶する、人と人の分断を生む社会になりつつある。お互いに監視し合うような恐ろしい時代になりつつあることを知らねばならない。
故に仏教徒ならば、そうならぬよう他者の考えを認め合う寛容な社会を目指すべきであると考える。
⑤妄想の中に生きるのではなく、今の現実を生きる
最後に、お釈迦様は入滅に際し、「もろもろの現象は移ろいゆく、怠ることなく修行を完成させよ」と遺言された。怠ることなくというのは、特に出家の弟子たちに説いた不放逸という教えのことであるという。
普段何かしているときにも、そのことに心がなく、様々な刺激に心が移り変わり、過去を回想し未来を勝手に思い描く。
心の中で思考が転々と続いていく習慣はよくないこととされる。自分が今の瞬間にしていることに意識して気づき、放逸に妄想する心の癖を止めることが肝要であろう。仏教徒は、そうして常に、ここにある今に生きることが求められている。
もちろん、それは簡単なことではない。だが、そうあってこそ、かつてのような大衆扇動の道具と化したメディア報道を静観し、周囲に惑わされることなく、真実なるものを探求しつつ、本来あるべき自分を生きることができるであろう。
以上、混迷する世界で、私たち仏教徒はいかにあるべきか、何が求められているのかと愚考してみた。
海外の報道が真実なら、民衆が自由に往来できる社会から全体主義的な社会へと歴史の揺り戻しともいえる時代に差し掛かっているように感じる。
もとより鎖国などあり得ない時代なれば、私たちの身にも切実なる未来が待ち受けているであろう。これまでの生活には戻れないといわれる意味を問わなければならない。
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なぜだろう。この10月から自己増幅型mRNAワクチンの定期接種が開始されるというタイミングで。
その危険性について、相互フォロワーのさくらもち様から提供いただいた
一般社団法人日本看護倫理学会による緊急声明を是非ご覧いただきたい。謎が解けよう。
https://www.jnea.net/news/cat-statement/post-655/
下記は3年前に執筆したものではありますが、真言宗情報誌新年号に掲載されたものです。
六大新報
令和四年新年特別号掲載(令和三年十一月執筆)
いま、あらためて
仏教徒に求められること
江戸から明治となって、今年で百五十四年。先の戦争からは七十七年目となり、大きな時代の転換点を迎えているように感じる。
一時代のあり方に対し、私たちはどのような態度でいるべきか。時代に翻弄されるしかないとはわかっていながらもすべきことは何か。損得や立場でしか判断できないが故に、主体性を失い、誰もが言いなりになってはいまいか。
二〇二一年八月二八日、二〇一六年まで五年間バチカンの米国教皇大使を務めたカルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、世界に向けたビデオメッセージで次のように語った。
「世界中のほぼすべての国の政府が行ってきた感染対策で、約束された成果をあげたものは存在しない。緊急事態、有事の名の下に、コロナとコロナワクチンは宗教となった。
二〇二〇年二月、世界的に妥当性を認められていた医学の原則は、即興医学に取って代わられた。医師倫理綱領の宣誓に対して忠実な医療関係者たちが異端とされる一方で、犯罪的な利益相反や製薬会社との癒着があるウイルス学者や科学者たちが不問に付されている。
マスメディア、ジャーナリストたちも同罪である。現在起きている出来事はごく一握りの人々が自分たちの目的と利益のために行っていることを理解する必要がある。…(抄録)」と。
二〇二一年七月から十一月にかけて、イタリヤやフランス、オーストリアなどヨーロッパでワクチンの義務化やワクチンパスポート導入に反対する市民による大規模な抗議活動が起きている。オーストラリアでは、平和的な抗議活動を警察が弾圧し、基本的人権や自由を侵害しているとして複数の国から非難されている。
アメリカでは、フロリダやテキサス、サウスダコタなど二十州が、ワクチンパスポート導入は個人の自由を奪うものとして、ワクチンパスポート導入禁止法案や行政命令により、企業、政府機関、学校などが個人にワクチン接種証明の提示を求めることを禁じた。…
世界中が二年にもわたるこうした混迷を深める時代に、私たち仏教徒はいかにあるべきなのか。ここでは原点に立ち返って、私たちにとっての仏陀であるお釈迦様の事績に則り考えてみたい。
①世間の通説にとらわれず自ら考える
お釈迦様は、御存じの通り、生後間もなくに母を亡くし継母に養育されたこともあってか、幼少の頃からよく沈思瞑想にふける方であったという。
世間の仕来りにとらわれず、人として最高に価値ある生き方とはいかなるものかと思索されたのではないか。そして、子息が生まれ跡取りができたことを確認すると城を出て出家なされた。
私たちも、様々な怖れ悩み苦しみ違和感を感じつつ生きている。そうした日々感じられる生きづらさ、悩み苦しみのもとを自ら問う、世間の通説にとらわれず考えることが大切であろう。
この二年、コロナコロナに明け暮れ、様々な疑問に出会う。そもそも症状のない気道感染症とはいかなるものか。検査に、なぜ発明者であるキャリー・マリス博士が「感染症の診断に使ってはならない」としたPCR法が使われるのか。PCR陽性者は感染者とされるのはどうしてか。
無症状感染者から感染する可能性があるとするのは本当か。ウイルス感染予防に効果がないとされるマスクが推奨されるのはなぜか。季節性のインフルエンザ程度の死者数にもかかわらずパンデミックといい、毎日都道府県別市町村別の感染者数、死者数を報道し続けるのはどうしてか。などいくつもの疑問に出会う。
そうした疑問を、新聞テレビの報道を鵜呑みにすることなく、それらひとつ一つについて自ら考える、情報を収集し、思索するということが何よりも大切なのではないか。
②祈りではなく真実を知る
そして、お釈迦様は、人々が神々の世界を信じ、ヴェーダ聖典に規定された祭祀儀礼を厳粛に勤めねばならないとしていた時代に、祈りではなく、この世の真実、真理を発見し開悟された。
私たちも、悩みの元となることの真実に気づくと、それまでモヤモヤしていた気持ちが嘘のように解消したりするが、真実を見極めることにより心は静まり平穏になる。
いま私たちは、世界中の人々を恐怖に陥れていることの根本原因について探求しなくてはならない。このパンデミックはなぜ発生したのか、自然発生のものであろうか。二〇一九年十月十八日、ニューヨークで各界の識者を集めて「イベント201」という、世界的な感染症によるパンデミックのシミュレーション会議が開催されているが、その経緯はいかなるものか。
二〇二〇年四月十日安倍総理が「この感染拡大こそ第三次大戦だと認識している」と語ったのはどういう意味だったのか。世界経済フォーラムが二〇二一年のアジェンダとするグレートリセットは、人々をどのような未来に導こうとしているのか。
税金で負担してまで治験途中のワクチンを全国民に打たせようとする背景には何があるのか。二〇二一年五月二四日、国内の医師ら四五〇人が、既に三百五十人もの死者(当時、現在千三百人超)を出している危険なワクチン接種の中止を求めて嘆願書を厚労省に提出した。そのとき記者会見までしているのに、報道すらされないのはどうしてか。などと探求を進めていかねばならない。
異常な世間の状況に怯え恐怖し不安になるのも、この事態に至る真実、真相を知ろうとしていないからではないか。祈りも大切ではあるが、何よりも私たち仏教徒は真実を知ることを優先するべきである。
③お釈迦様を人生の理想とする
お釈迦様は、成道後この真理は世間の生きることに耽溺している人々には理解できないと考えられた。がその時、インドの最高神である梵天が現れて、説法することを懇請する。そこで、世の人々を改めて見渡してみると、確かに煩悩薄き者たちが存在し、彼らは説法により解脱することが可能であるとわかり法を説くことを決意したとされる。
お釈迦様は、説法した相手に最高の悟りを得て欲しいが故に法をお説きになったのである。その法を頼りに生きる仏教徒は、お釈迦様の願いである悟りを実現すべく生きる人ということになる。
人生の生きがいや目標の先にはいつも悟りという最終目標があるのだと思って生きることが必要であろう。そう捉えられるならば、たとえどんな時代になったとしても、目標を失わずに生きることができる。
体温を計られ、マスクを強要され、人との距離を測られる。さらに自宅軟禁を強いられるような不自由な時期をすでに経験した。
さらに二〇二〇年五月に参議院で、個人のプライバシーと権利を侵害すると懸念される「スーパーシティ法」が可決成立し、今後施行されていく。顔認証によるキャッシュレス決済が義務化され、個人情報が断りなくデータ連携基盤事業者に開示されるような管理監視社会に向けて歩みを進めることになるという。
しかし、そうしてたとえ将来自由が制限されて、検査やワクチン接種により選別されるような時代になっても、最終的な目標を失うことなく生きることが私たちには必要であろう。
④自他の考えの違いを認める寛容な社会を目指す
お釈迦様は、その後生涯にわたり縁あった人々に法を説かれるが、その説き方は対機説法といわれるように、法を説く相手に相応しい説き方をされた。
それぞれの性質や機根に応じ、個々の立場考え方を尊重しながら法を説かれた。
仏教徒は、自らの考え、生き方を持つ人々であり、権威ある人の発言にとらわれず、むやみに多数意見に同調することなく、他者の個性や意向を尊重する人であらねばならない。
すでに、特措法の改正により時短命令に服さない飲食店などに罰則を科すところまで社会がいびつになった。多くの人が何の疑問を抱くことなくマスク着用が社会に浸透し、ノーマスク者を異端とみなす風潮も生まれている。
医療機関だけでなく企業などの職場でも、厚労省が「あくまで本人の意思に基づくもので、強制や差別的扱いがあってはならない」としているのに、ワクチン接種を拒否すると職場から締め出されるような雰囲気があるという。
ワクチン接種が必要か否かも議論されないまま、全国民の七割を超える人たちが二度の接種を済ませたとされる。そして、ワクチン接種証明提示による、不平等な利益を提供する措置が進んでいる。
病院や介護施設などでは、入院入居している人を家族を含む外部者に面会させない規則を当然のごとくに続けている。海外にも自由に渡航できない状態が続く。
他者の考え思いを拒絶する、人と人の分断を生む社会になりつつある。お互いに監視し合うような恐ろしい時代になりつつあることを知らねばならない。
故に仏教徒ならば、そうならぬよう他者の考えを認め合う寛容な社会を目指すべきであると考える。
⑤妄想の中に生きるのではなく、今の現実を生きる
最後に、お釈迦様は入滅に際し、「もろもろの現象は移ろいゆく、怠ることなく修行を完成させよ」と遺言された。怠ることなくというのは、特に出家の弟子たちに説いた不放逸という教えのことであるという。
普段何かしているときにも、そのことに心がなく、様々な刺激に心が移り変わり、過去を回想し未来を勝手に思い描く。
心の中で思考が転々と続いていく習慣はよくないこととされる。自分が今の瞬間にしていることに意識して気づき、放逸に妄想する心の癖を止めることが肝要であろう。仏教徒は、そうして常に、ここにある今に生きることが求められている。
もちろん、それは簡単なことではない。だが、そうあってこそ、かつてのような大衆扇動の道具と化したメディア報道を静観し、周囲に惑わされることなく、真実なるものを探求しつつ、本来あるべき自分を生きることができるであろう。
以上、混迷する世界で、私たち仏教徒はいかにあるべきか、何が求められているのかと愚考してみた。
海外の報道が真実なら、民衆が自由に往来できる社会から全体主義的な社会へと歴史の揺り戻しともいえる時代に差し掛かっているように感じる。
もとより鎖国などあり得ない時代なれば、私たちの身にも切実なる未来が待ち受けているであろう。これまでの生活には戻れないといわれる意味を問わなければならない。
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