唐招提寺
唐招提寺は、律宗総本山唐招提寺が正式な名称。律宗は、奈良時代の南都六宗の一つで、六宗とは、三論、成実、法相、倶舎、華厳、律の六つ。 律宗は、唐から本式の戒律を伝えられた鑑真和上が開かれた宗派で、主に四分律という戒律を学び実践することを僧侶に学ばせるための教育機関であった。今では、この律宗と華厳、法相宗を残すのみとなった。唐招提寺は平城京の右京五条二坊という地にあり、同じ西の京にある薬師寺の北に位置する。境内およそ二万坪、当時は中程度の寺であった。七大寺に入らず十五か寺の一つ。末寺は30ほど。
開山の鑑真和上(688-763)は、唐の屈指の学徳兼備の名僧で皇帝から庶民に至る多くの信仰の対象であった。天台教学、南都四分律、さらには金剛智三蔵から金剛頂経系の密教を付法し一行禅師とは同門でもあり真言密教にも通じていた。にもかかわらず、日本から派遣された留学僧で、大安寺の普照(ふしょう)と興福寺の栄叡(ようえい)の懇願により自ら渡日を決意された。当時既に55歳。日本には仏教は伝えられても、僧侶たちの授戒を正式に行う機関が無く、税や労役を逃れるために僧侶になりすます人も多く、律令体制の維持のためにも国家機関としての授戒制度を確立する必要に迫られていたのであった。僧に大戒を授けるためには、三師七証という授戒が必要だった。
当初、栄叡、普照は鑑真和上に我が国への伝戒の師として弟子の紹介を懇請したが、航海技術の未熟な時代でもあり、また、不法出国となるなど誰も行く者無く、鑑真和上自らが日本へ渡航することなった。来日する予定のメンバーには僧、仏師、画師なども含まれた大団体であり、命がけの渡日のうえ、2度と故郷の地を踏めない恐れがある遠く離れた異国の地に、不法出国までして鑑真和上に随行したことは鑑真和上にそれだけの威徳があったということなのであろう。
鑑真和上の渡航歴は、以下の通り。①743年弟子僧の密告で失敗。②743年遭難・難破。③744年弟子僧の密告で失敗、栄叡官憲に逮捕されるが釈放。④ 744年弟子僧の密告で阻止され失敗。⑤748年台風に遭遇し海南島に漂着。⑥753年第10次遣唐使の帰国に便乗、薩摩国(現在の鹿児島県)に上陸す。渡日を決意してから実に12年目にして念願を果たす。
渡航を阻止しようと常に鑑真和上の行動には官憲の目が光っているのにも屈せず、しかも高齢ゆえ異国の地で生涯を閉じる事が分かっているのに意志を貫かれた鑑真和上の不屈の精神は想像を絶するものがある。度重なる渡航失敗にもかかわらずその都度、仏像、経典、仏具、薬品、食料品など我が国では得られない貴重な品々を用意し船に積み込んでいた。この間に鑑真和上は両目を失明、鑑真和上に我が国への招来を熱心に嘆願した栄叡が死亡、更なる6回目の渡航に挑戦され無事我が国に入国。普照は20年振りに無事帰国した。詳しくは、井上靖著「天平の甍」を参照されたい。
754年「聖武上皇」は、「いまより授戒伝律はひとえに和上にまかす」と曰われ、最初に東大寺大仏殿前の戒壇で聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇を始め多くの僧ら約400人の授戒が行なれた。東大寺の戒壇から離れた土地での受戒希望者のための戒壇を、東方には「下野(しもつけ)薬師寺(栃木県)」、西方には「筑紫観世音寺(福岡県)」に築かれて天下の三戒壇と呼ばれた。下野薬師寺は僧道鏡が左遷、観世音寺は、僧玄が左遷された地としても知られる。しかし、その後、平安時代には比叡山延暦寺に大乗戒壇が創設されて、三戒壇は有名無実化する。
朝廷は鑑真和上の偉大な功績に応えるべく鑑真和上のために天平宝字3年(759年)、官が没収していた新田部(にいたべ)親王の旧邸宅を下賜。純粋な律宗の研修道場とすべく、鑑真和上は「唐律招提」と名付けられた。唐は大きい広々したという意味で、招提とはインドの言葉で、四方からあつまる修行者に誰彼となく衣食を用意して学ばせるという意味。広く戒律を教える私寺ということから唐律招提と称されたのであろう。
鑑真和上が入寂されるまで金堂は建立されておらず、唐律招提のままであった。戒律を学ぶ道場としては講堂があればよく、平城京の朝集殿が下賜され講堂らしく改造、戒律を学ぶ講堂は朝廷から、食堂は藤原仲麻呂から、寝起きをする僧坊は藤原清河家から施入された。鑑真和上亡き後は弟子の義静、如宝が唐招提寺の伽藍の充実に尽力して、金堂、経楼、鐘楼、金堂の仏像などが整備され宝亀10年(779)に今寺になると言う記録がある。延暦24年(805)には十五大寺に加えられ私寺から官寺扱いとなった。
まず境内には、 「南大門」から入る。これは、昭和35年の復元。「五間三戸」の横に大きな門で、創建当初入ると同等の大きさの中門があり、回廊が巡らされ、薬師寺と同じように複廊だったといわれている。中門は、地震により倒壊したまま再建されず。南大門から砂利を敷き詰めた参道を金堂に向かう。
天平時代の金堂と講堂が残るのは唐招提寺だけで、金堂と中に納まった9体の尊像すべてが国宝と言うのも唐招提寺だけという。金堂は天平時代では唯一の遺構という極めて価値のある建築である。10年という長い歳月をかけての解体修理が昨年終わったところでもある。鑑真和上と共に来日した如宝によって建てられたという。
金堂
正面間口七間(中央間は約4.7m、両端へは次第に狭くなり、3.3m)、奥行き四間の寄棟造で、前面一間通りが吹き放ち、軒を支える組み物は三手先(みてさき)と呼ばれる形式で、その建立年代を示している。本瓦葺き。高い基壇の上に建ち、屋根の上に鴟尾を置く、向かって左の鴟尾は創建当時のものとして有名だったが、解体修理後、新宝蔵に移されている。
前面の吹き放ちの列柱はエンタシスの太い柱がやはり両端に狭められて立つ。天平時代の法要は堂の前庭で行う庭儀であり、金堂は聖なる大仏壇という閉鎖された空間だったため、堂内で沢山の人が参拝する構造にはなっていない。簡単な法要や参詣者の礼拝のために吹き放ちの空間があるのであろう。
中央に本尊・盧舎那仏坐像、右に薬師如来立像、左に千手観音立像(いずれも国宝)が並ぶ姿は、天平時代を彷彿させる厳かな雰囲気に包まれている。金堂の本尊は、国宝・盧舎那仏座像。奈良時代(8世紀)、脱活乾漆、漆箔、像高は3.04m、光背の高さは、5.15mにもおよぶ巨像。奈良時代に盛んに用いられた脱活乾漆造でその造形は雄大さとやわらかさを併せ持ち、唐代の仏像に通じる唐招提寺のご本尊にふさわしい。また、背後の光背の化仏の数は、864体あるが、本来は1000体であったという。
後に述べる鑑真和上像で有名な脱活乾漆造りとは、粘土で芯型を作り、その上に布を張り漆で混ぜた香木の粉末泥で細部を仕上げ、乾き上がって後に内部の粘土を砕いて取り出し、形が歪まないように木枠を入れた手法で造ったものを言う。そして、最後に乾漆上に彩色を施して完成となる。大変手間が掛かりなおかつ金と同価と言われた純度の高い漆を多量に使うので費用を莫大に要する。天平時代には霊木信仰から一木造りの木彫仏が求められたため、一木造りでは巨像が出来ず、鎮護国家のための巨像制作には脱活乾漆造りが必要だったとも言えよう。
本尊、盧舎那仏坐像の向かって右側に安置される国宝・薬師如来立像、平安時代(9世紀)、木心乾漆、漆箔、高さ3.36m。薬壺はない。本尊、千手観音像にやや遅れる平安時代初期に完成したと考えられている。伏目がちな表情などから全体的に重厚な印象がある仏像。昭和47年の修理の際に左手掌から3枚の古銭が見つかり、その年代から平安初期の完成であることが明らかになった。
本尊、盧舎那仏坐像の向かって左側に安置される国宝千手観音立像。奈良時代(8世紀)、木心乾漆、漆箔、高さ5.36m。丈八の大像。大脇手42本、小脇手911本、合わせて953本の腕は、バランスよく配され不自然さを感じさせない。また、本来は1000本あったと考えられていて、この度の改修で千本に改められた。本当に千の手を持つ千手観音はこの像と西国五番の葛井寺の本尊のみ。全体的にのびやかな印象と、すずし気な目鼻立ちが印象的な御像。
金堂に祀られている盧舎那仏坐像、薬師如来立像、千手観音立像は経典には見当たらない三尊仏の配置で、天下の三戒壇すなわち、東側の薬師如来立像は「東方の下野薬師寺」、中央の盧舎邦仏坐像は「東大寺盧舎那仏像」、西側の千手観音立像は「西方の筑紫観世音寺」を表しているのではないかと言う説もあるという。
国宝・四天王像、奈良時代(8世紀)木造・乾漆併用、彩色、高さ1.85~1.88m。四天王は仏教世界を四方から護る護法神。本来は金堂の須弥壇の四隅に安置され、梵天・帝釈天立像と同時期、同一工房の作とされる。四像とも丸みを帯びた顔は、やや平板な目鼻立ちながら重厚な表情で、体つきは全体に力強い印象を与える。東南に持国天、東北に毘沙門天、北西に広目天、南西に増長天。
金堂本尊・盧舎那仏坐像の右に梵天、左が帝釈天。国宝・奈良時代(8世紀)木造・乾漆併用 彩色。梵天はヒンドゥー教の最高神ブラフマーのことで、色界の初禅天の主。帝釈天はヒンドゥー教のインドラ神が仏教に採りいれられ、忉利天の主。ともに仏教の護法神として、一対で造像されることが多い仏像。両像とも鎧の上に裳(も)をまとい、沓(くつ)を履き、梵天は、さらに袈裟をつけている。大らかな作りの表情は、柔和な印象をたたえる。ともに、台座は蓮弁が下を向く、反花座。
金堂の天井画は華麗な装飾文様で文様の種類は多く見事な出来栄え。文様は金堂の内側だけでなく扉の外側にも華文様が描かれている。金堂の三尊像の光背が天井まで迫っており天蓋を設ける隙間が無く、そのため極彩色で装飾された天井全体を天蓋の役目にさせているのかもしれない。
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唐招提寺は、律宗総本山唐招提寺が正式な名称。律宗は、奈良時代の南都六宗の一つで、六宗とは、三論、成実、法相、倶舎、華厳、律の六つ。 律宗は、唐から本式の戒律を伝えられた鑑真和上が開かれた宗派で、主に四分律という戒律を学び実践することを僧侶に学ばせるための教育機関であった。今では、この律宗と華厳、法相宗を残すのみとなった。唐招提寺は平城京の右京五条二坊という地にあり、同じ西の京にある薬師寺の北に位置する。境内およそ二万坪、当時は中程度の寺であった。七大寺に入らず十五か寺の一つ。末寺は30ほど。
開山の鑑真和上(688-763)は、唐の屈指の学徳兼備の名僧で皇帝から庶民に至る多くの信仰の対象であった。天台教学、南都四分律、さらには金剛智三蔵から金剛頂経系の密教を付法し一行禅師とは同門でもあり真言密教にも通じていた。にもかかわらず、日本から派遣された留学僧で、大安寺の普照(ふしょう)と興福寺の栄叡(ようえい)の懇願により自ら渡日を決意された。当時既に55歳。日本には仏教は伝えられても、僧侶たちの授戒を正式に行う機関が無く、税や労役を逃れるために僧侶になりすます人も多く、律令体制の維持のためにも国家機関としての授戒制度を確立する必要に迫られていたのであった。僧に大戒を授けるためには、三師七証という授戒が必要だった。
当初、栄叡、普照は鑑真和上に我が国への伝戒の師として弟子の紹介を懇請したが、航海技術の未熟な時代でもあり、また、不法出国となるなど誰も行く者無く、鑑真和上自らが日本へ渡航することなった。来日する予定のメンバーには僧、仏師、画師なども含まれた大団体であり、命がけの渡日のうえ、2度と故郷の地を踏めない恐れがある遠く離れた異国の地に、不法出国までして鑑真和上に随行したことは鑑真和上にそれだけの威徳があったということなのであろう。
鑑真和上の渡航歴は、以下の通り。①743年弟子僧の密告で失敗。②743年遭難・難破。③744年弟子僧の密告で失敗、栄叡官憲に逮捕されるが釈放。④ 744年弟子僧の密告で阻止され失敗。⑤748年台風に遭遇し海南島に漂着。⑥753年第10次遣唐使の帰国に便乗、薩摩国(現在の鹿児島県)に上陸す。渡日を決意してから実に12年目にして念願を果たす。
渡航を阻止しようと常に鑑真和上の行動には官憲の目が光っているのにも屈せず、しかも高齢ゆえ異国の地で生涯を閉じる事が分かっているのに意志を貫かれた鑑真和上の不屈の精神は想像を絶するものがある。度重なる渡航失敗にもかかわらずその都度、仏像、経典、仏具、薬品、食料品など我が国では得られない貴重な品々を用意し船に積み込んでいた。この間に鑑真和上は両目を失明、鑑真和上に我が国への招来を熱心に嘆願した栄叡が死亡、更なる6回目の渡航に挑戦され無事我が国に入国。普照は20年振りに無事帰国した。詳しくは、井上靖著「天平の甍」を参照されたい。
754年「聖武上皇」は、「いまより授戒伝律はひとえに和上にまかす」と曰われ、最初に東大寺大仏殿前の戒壇で聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇を始め多くの僧ら約400人の授戒が行なれた。東大寺の戒壇から離れた土地での受戒希望者のための戒壇を、東方には「下野(しもつけ)薬師寺(栃木県)」、西方には「筑紫観世音寺(福岡県)」に築かれて天下の三戒壇と呼ばれた。下野薬師寺は僧道鏡が左遷、観世音寺は、僧玄が左遷された地としても知られる。しかし、その後、平安時代には比叡山延暦寺に大乗戒壇が創設されて、三戒壇は有名無実化する。
朝廷は鑑真和上の偉大な功績に応えるべく鑑真和上のために天平宝字3年(759年)、官が没収していた新田部(にいたべ)親王の旧邸宅を下賜。純粋な律宗の研修道場とすべく、鑑真和上は「唐律招提」と名付けられた。唐は大きい広々したという意味で、招提とはインドの言葉で、四方からあつまる修行者に誰彼となく衣食を用意して学ばせるという意味。広く戒律を教える私寺ということから唐律招提と称されたのであろう。
鑑真和上が入寂されるまで金堂は建立されておらず、唐律招提のままであった。戒律を学ぶ道場としては講堂があればよく、平城京の朝集殿が下賜され講堂らしく改造、戒律を学ぶ講堂は朝廷から、食堂は藤原仲麻呂から、寝起きをする僧坊は藤原清河家から施入された。鑑真和上亡き後は弟子の義静、如宝が唐招提寺の伽藍の充実に尽力して、金堂、経楼、鐘楼、金堂の仏像などが整備され宝亀10年(779)に今寺になると言う記録がある。延暦24年(805)には十五大寺に加えられ私寺から官寺扱いとなった。
まず境内には、 「南大門」から入る。これは、昭和35年の復元。「五間三戸」の横に大きな門で、創建当初入ると同等の大きさの中門があり、回廊が巡らされ、薬師寺と同じように複廊だったといわれている。中門は、地震により倒壊したまま再建されず。南大門から砂利を敷き詰めた参道を金堂に向かう。
天平時代の金堂と講堂が残るのは唐招提寺だけで、金堂と中に納まった9体の尊像すべてが国宝と言うのも唐招提寺だけという。金堂は天平時代では唯一の遺構という極めて価値のある建築である。10年という長い歳月をかけての解体修理が昨年終わったところでもある。鑑真和上と共に来日した如宝によって建てられたという。
金堂
正面間口七間(中央間は約4.7m、両端へは次第に狭くなり、3.3m)、奥行き四間の寄棟造で、前面一間通りが吹き放ち、軒を支える組み物は三手先(みてさき)と呼ばれる形式で、その建立年代を示している。本瓦葺き。高い基壇の上に建ち、屋根の上に鴟尾を置く、向かって左の鴟尾は創建当時のものとして有名だったが、解体修理後、新宝蔵に移されている。
前面の吹き放ちの列柱はエンタシスの太い柱がやはり両端に狭められて立つ。天平時代の法要は堂の前庭で行う庭儀であり、金堂は聖なる大仏壇という閉鎖された空間だったため、堂内で沢山の人が参拝する構造にはなっていない。簡単な法要や参詣者の礼拝のために吹き放ちの空間があるのであろう。
中央に本尊・盧舎那仏坐像、右に薬師如来立像、左に千手観音立像(いずれも国宝)が並ぶ姿は、天平時代を彷彿させる厳かな雰囲気に包まれている。金堂の本尊は、国宝・盧舎那仏座像。奈良時代(8世紀)、脱活乾漆、漆箔、像高は3.04m、光背の高さは、5.15mにもおよぶ巨像。奈良時代に盛んに用いられた脱活乾漆造でその造形は雄大さとやわらかさを併せ持ち、唐代の仏像に通じる唐招提寺のご本尊にふさわしい。また、背後の光背の化仏の数は、864体あるが、本来は1000体であったという。
後に述べる鑑真和上像で有名な脱活乾漆造りとは、粘土で芯型を作り、その上に布を張り漆で混ぜた香木の粉末泥で細部を仕上げ、乾き上がって後に内部の粘土を砕いて取り出し、形が歪まないように木枠を入れた手法で造ったものを言う。そして、最後に乾漆上に彩色を施して完成となる。大変手間が掛かりなおかつ金と同価と言われた純度の高い漆を多量に使うので費用を莫大に要する。天平時代には霊木信仰から一木造りの木彫仏が求められたため、一木造りでは巨像が出来ず、鎮護国家のための巨像制作には脱活乾漆造りが必要だったとも言えよう。
本尊、盧舎那仏坐像の向かって右側に安置される国宝・薬師如来立像、平安時代(9世紀)、木心乾漆、漆箔、高さ3.36m。薬壺はない。本尊、千手観音像にやや遅れる平安時代初期に完成したと考えられている。伏目がちな表情などから全体的に重厚な印象がある仏像。昭和47年の修理の際に左手掌から3枚の古銭が見つかり、その年代から平安初期の完成であることが明らかになった。
本尊、盧舎那仏坐像の向かって左側に安置される国宝千手観音立像。奈良時代(8世紀)、木心乾漆、漆箔、高さ5.36m。丈八の大像。大脇手42本、小脇手911本、合わせて953本の腕は、バランスよく配され不自然さを感じさせない。また、本来は1000本あったと考えられていて、この度の改修で千本に改められた。本当に千の手を持つ千手観音はこの像と西国五番の葛井寺の本尊のみ。全体的にのびやかな印象と、すずし気な目鼻立ちが印象的な御像。
金堂に祀られている盧舎那仏坐像、薬師如来立像、千手観音立像は経典には見当たらない三尊仏の配置で、天下の三戒壇すなわち、東側の薬師如来立像は「東方の下野薬師寺」、中央の盧舎邦仏坐像は「東大寺盧舎那仏像」、西側の千手観音立像は「西方の筑紫観世音寺」を表しているのではないかと言う説もあるという。
国宝・四天王像、奈良時代(8世紀)木造・乾漆併用、彩色、高さ1.85~1.88m。四天王は仏教世界を四方から護る護法神。本来は金堂の須弥壇の四隅に安置され、梵天・帝釈天立像と同時期、同一工房の作とされる。四像とも丸みを帯びた顔は、やや平板な目鼻立ちながら重厚な表情で、体つきは全体に力強い印象を与える。東南に持国天、東北に毘沙門天、北西に広目天、南西に増長天。
金堂本尊・盧舎那仏坐像の右に梵天、左が帝釈天。国宝・奈良時代(8世紀)木造・乾漆併用 彩色。梵天はヒンドゥー教の最高神ブラフマーのことで、色界の初禅天の主。帝釈天はヒンドゥー教のインドラ神が仏教に採りいれられ、忉利天の主。ともに仏教の護法神として、一対で造像されることが多い仏像。両像とも鎧の上に裳(も)をまとい、沓(くつ)を履き、梵天は、さらに袈裟をつけている。大らかな作りの表情は、柔和な印象をたたえる。ともに、台座は蓮弁が下を向く、反花座。
金堂の天井画は華麗な装飾文様で文様の種類は多く見事な出来栄え。文様は金堂の内側だけでなく扉の外側にも華文様が描かれている。金堂の三尊像の光背が天井まで迫っており天蓋を設ける隙間が無く、そのため極彩色で装飾された天井全体を天蓋の役目にさせているのかもしれない。
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