住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

いまをいかに生きるか

2020年07月27日 09時42分29秒 | 仏教に関する様々なお話
いまをいかに生きるか

今年も半年が過ぎた。年初の話題は年末に起きたゴーン被告の国外逃亡事件に始まり、イランの民兵組織の司令官をアメリカがドローンで殺害し、それに対しイランがイラクの米軍駐屯地を攻撃して、あわや第三次世界大戦かとのニュースが世界中を駆け巡った。その頃は、今年は何が起こるかわからないなどと思っていたが、その後二月頃から毎日毎日コロナコロナで、世界中が奇妙な世界に取り込まれたようになっている。

この不安定なというか不安な時代を私たちはどう生きたらよいのか。同じ列車事故に遭っても、怪我をする人もいれば、まったくかすり傷一つ無い人もある。大きな地震に見舞われて、家の下敷きになって亡くなられてしまう人もあれば、家は全壊したにの、不思議なことに家具と家具が交差したお蔭でその空間に入りこみ助かる人もある。インフルエンザが蔓延し、事務所の中でインフルに感染した人が出ても、隣に居てもうつらない人もあれば離れている席なのにうつってしまう人もある。

助かる人と助からない人、騒動に巻き込まれる人と巻き込まれずに済む人、感染して大変な目に遭う人と感染しても発症もせずに済んでしまう人。これはどう考えたらよいのか。仏教はすべてのことに因縁在りという。人に業ありともいう。業ありと言うよりも、業を相続せる者と言った方が良いのかも知れない。沢山の過去世で、数え切れないほどの善いことをしてきた善業、数え切れないほど悪いことをしてきた悪業を私たちは相続しているのだと仏教では考えている。

たまたま前世が良くあり、善業によってこうして自分の意志によって何でも行える人間界に生まれることが出来たのだと考える。そうした沢山の過去に行った行為の報いがたまたま今生で事故に遭ったり、何か起きたときにその人に良い方に向くか悪い方に向くのかを左右する。しかし、その時にその人が過去世のどのような因縁によって助かったとか、悪い事態になったとかということは、お釈迦様にしか解らないことだとされている。お釈迦様の生きておられるときにも亡き後にもお釈迦様と同様の覚り・阿羅漢果を得られた勝れた聖者が沢山居られても、そのことは誰も言われなかったという。

パーリ中部経典『第135小業分別経』には、人の優劣を分けるものとは何かと問われ、お釈迦様は、生けるものたちは、業を自己とし、業を相続者とし、業を胎とし、業を拠り所としている。この業こそが生けるものたちの劣性と優性を区別すると説かれている。では、優性に導く業とはいかなることをいうのであろうか。

それは、すなわち、他の生き物たちを思いやり、慈愛あり、他の者を害することなく、恥じらいや同情がある、そうあれば、死後天界に生まれ、たとえ人間界に生まれたとしても、無病で長命となる。何か言われても不機嫌にならず、怒らず、憤らず、敵対せず、嫌悪をあらわにせず、他者の成功に嫉妬せず、他者の利得、尊敬、敬意に嫉妬しない、そうあれば、死後天界に生まれ、たとえ人間界に生まれたとしても、端正で権勢あるものとなる。困っている人に食べ物や飲み物、衣服、乗り物などを施す、傲慢になることなく、慢心なく、敬礼すべき人を敬礼し、座に相応しい人に座を譲る、供養すべき者を供養する、そうあれば、死後天界に生まれ、たとえ人間界に生まれたとしても、富裕で高位の者になると説かれている。

さらに、修行者聖職者に親しく質問し、善とは何か、不善とは何か、有罪とは何か、無罪とは何か、何に従うべきか、何に従うべきでないか、何を行えば長く不利益となり苦となるか、何を行えば長く利益となり楽となるか、ということを問い知ることによって、そうあれば死後天界に生まれ、たとえ人間界に生まれたとしても、大智慧あるものとなるという。

このように、心を清らかにし善きことを進んでしているならば、来世には善処に生まれるとあるわけだが、それにてらして今の自分を思うとき、前世ではいかがであったろうか、過去世ではいかがであったのであろうかと思いやられる。しかし今の生まれは過去のどのような業によってもたらされたものかを知ることはできない。出来ることは過去の業によってこうあるということよりも、これからをどのように生きるかだけである。

よき生まれで生まれ裕福な家庭で育てられたとしても、それにおぼれ努力せず、放蕩に暮らしていればその人は心貧しく愚かな人生を歩むことになり来世ではよくはならないであろうといわれる。逆に、生まれよろしくなく貧しい家庭に生まれたとしても努力して学び周りの人たちによきことをする人は必ずよき人生を歩み来世もよくあるであろうと言われている。

さらに、お釈迦様は人が清らかな心でいると悪い業が結果を出すことはないと教えられている。過去のあまたの業の善きものも悪しきものも知ることはできないのだから、今をどう生きるかこれからをどのような心で過ごすかによって、過去の悪しき業が結果することなきように善き業の結果が現れるようにすべきであると言われている。さすればいかなる心で日日を過ごすべきか。お釈迦様の時代には四梵住といい、少し後の仏教では四無量心という心に住すべしと教えられている。慈悲喜捨という四つの無量なる心のことである。

慈とは、慈しみの心、親友に対するような親愛なる心をもってすべての生きとし生けるものを見てやさしい心で幸せでいて欲しい、よくあって欲しいという思いを広げていくこと。

悲とは、抜苦の心、親愛なる思いを寄せる生きとし生けるものたちが悩み苦しんでいたらそれをなんとか助け癒やされて救われて欲しいと願い、その思いを広げていくこと。

喜とは、共感する心、親愛なる思いを寄せる生きとし生けるものたちが良くあったならば、成功したならば、嫉妬の心ではなく、ともに喜び幸せになる心を広げていくこと。

捨とは、平静な心、誰に対してもどのようなものにも分け隔てなく、どのような感情にもながされず、平等に静かな心を広げていくこと。

これら四つの清浄なる心を毎日ないし毎晩静かに唱え、心に念じることで、禍から逃れ、どのような時代になっても、平然と普通に生活するように心掛けて参りたいと思う。寺内月例行事はお陰様で特別な予防対策など取らずにすべて通常通り執行している。


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