活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

マカオの聖ポール天主堂

2012-02-10 12:26:34 | 活版印刷のふるさと紀行
  前回、聖ポール天主堂がマカオのシンボルといいました。恐らくマカオに観光で
いらっしゃった方なら、あの石造りのファザード(前壁)を目の前にして「スゴイ」と
感嘆されたと思います。

天正少年使節一行は往復で3年近くもマカオに滞在したのにこの石造りの聖母教会と
は対面していません。なぜならこの教会が1835年1月,火事にあって今のようなファザ
ードを残すのみになったのですが、実際にいつ建てられたものかがはっきりしないか
らです。1603年ごろに仮竣工して、実際にはその20年後に完成したという説があります
が、それにしても1582年3月から12月までと1588年8月から1590年6月までの2回の滞在
期間中には存在してはいません。

もっとも1614年に原マルチノとコンスタンチノ・ドラードはキリシタン追放で三たび
マカオの土を踏みます。あるいはそのとき2人は竣工したての聖ポール教会を見ること
が出来たかもしれません。

少年使節たちは初めての外国、マカオで有馬のセミナリヨと同じ時間割でラテン語や
音楽や日本語の学習で絞られました。インドへの風待ちのためとはいいながらこれから
彼等がヨーロッパと出あうためには、このマカオでの日々は貴重だった筈です。
 彼等に限らずポルトガル船はヨーロッパからマカオを経て長崎へ、長崎を出てヨーロ
ッパに向かうポルトガル船の最初の寄港地はマカオというわけですからマカオこそ日本
とヨーロッパを結ぶ重要な港湾都市であり、貿易・文化・宗教の受け渡しの基地でした。

ドラードはヨーロッパで印刷修業をした腕で『遣欧使節対話録』を印刷していますが、
そのマカオのところの記述を見ると、意外に無愛想です。マカオに住んでいるのはポル
トガル人が大半という人口構成について述べているのが往路のマカオの箇所、復路に至
ってはこの地で日本人が2冊も活版印刷で初めて本を世に送りだしているのに、それに
触れていないのは口惜しい気がしてなりません。



コメント
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