活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

日本とマカオをつなぐ印刷機

2012-02-11 10:58:47 | 活版印刷のふるさと紀行
 救命胴衣が大袈裟だと思いながら少年使節たちがお世話になったポルトガル船の出入り
した波止場のあたりを小さなボートに乗せられてゆっくり見てみました。当時のマカオ港
の跡です。いかにも河口らしく水面が淀んでいました。
 日差しの強い日で通訳の日中混血のお嬢さんがやたら油紙で鼻小僧の脂を拭き取ってい
るのが印象的でした。

 その波止場跡のすぐそばに「澳門博物館」がありました。マカオにはカジノがありますが
そのオーナーに出資を仰いだとかでなかなかの博物館です。
「マカオ最初の印刷機」と題して例の印刷機が展示されている室があるではありませんか。
例のというのは天草コレジヨ館や加津佐の図書館にもあるドラードたちがポルトガルから
舶載してきて加津佐や天草、長崎でキリシタン版を印刷した印刷機のレプリカです。

 小著『活版印刷紀行』(印刷学会出版部)のあとがきで丁寧に紹介していますが、展示機
の説明には《グーテンベルク可動式タイプを採用した東洋最初の印刷機で、日本の少年使節
を率いてローマを訪れたイエズス会神父アレッサンドロ・ヴァリニャーノによって16世紀
末にマカオにもたらされました。この印刷機は当時日本に運ばれるものでしたが1588年
から1590年までの2年間、ここマカオにあって多くの書籍を印刷していました。》
と述べ、つづいて、この印刷機がキリシタン追放とともに1614年にふたたび船に積まれ
日本をあとにマカオに運ばれ、はてはマニラに身売りされたこともつけ加えていました。
 
 実は1614年にこの印刷機とともに原マルチノとドラードもマカオの土を踏み、『日本小
文典』を印刷刊行したのですが二人ともここで天に召されます。聖ポール天主堂の裏側に回る
と地下にヴァリニャーノやマルチノやドラードが眠っています。また、日本から逃れてきた受
難の人たちもここに葬られているので、十字架に架けられている殉教者の絵も掲げられています。

 そういえば、聖ポール天主堂のファザードの彫刻の花の絵柄も日本人の手になっているという
説が有力です。日本とマカオの結びつきをもっと知りたい気がします。
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マカオの光と影

2012-02-11 09:43:04 | 活版印刷のふるさと紀行
 長崎テレビの『それからの少年たち』はよく出来た番組でした。ただ、マカオで少
年たちがどのようにして毎日を送ったかについてはふれていません。
 
 天正少年使節たちは長崎を発って3日目から東シナ海で嵐に見舞われ船酔いで息も
絶え絶えとなり、ようやく17日目にマカオに上陸したのでした。
やがて体調を回復した彼らは有馬のセミナリオと同じ時間割で「学習」に追われます。

 当時は現在の聖ポール教会のあたりが丘になっていて、小さな天主堂や司祭館やセミ
ナリヨがありました。しかし、少年たちを宿舎とセミナリヨだけに閉じ込めておくわけ
にはいきません。貿易で懐のあたたかいポルトガル商人や奴隷を5人も6人も抱えた富
裕層がマカオの町を牛耳っていました。波止場には血気にはやって漁民相手に喧嘩を売
る定航船の船員も見られました。日本から売られてきた日本人の女子も珍しくなかった
はずです。

 ヴァリニャーノはそういった生々しいマカオの実態から少年たちの目をそらすのにさ
ぞかし神経を使ったことでしょう。

 喧噪の町マカオ、おそらく当時はそうだったでしょう。
 それでは現在はどうでしょうか。 私の訪ねたマカオの印象は1999年の返還前は
アルゼンチンタンゴのラ・クンパルシーターの似合うような明るいエキゾチックな町で
したが、このところ、中国からの観光客がふえて以前よりも変わってきているように思
います。

 しかし、香港などとはちがった歴史の重みを感じさせる町、光と影が読み取れる町です。
少年使節や印刷の文化史に興味のある方には一度足を運んでいただきたい町でもあります。
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