活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

田中一光さんのこと

2012-12-14 10:28:50 | 活版印刷のふるさと紀行

 このところ飯田橋を通るとどうしても足を向けてしまうのが2か所あります。ひとつはBook-offで新品紛いの本で意外に出物に会える楽しみ、もうひとつがモリサワビルの一階ロビー、のギャラリー、9月からの田中一光ポスター展も、11月からのたて組ヨコ組展も3回ほどずつのぞいてしまいました。 ロビーの広さから10分足らずで見て回れる「田中一光とモリサワ展」は私の記憶の中に田中一光さんをみずみずしく蘇みがえらしてくれる気がします。

 田中一光さんんが亡くなられたのは2002年の1月でした。ということは10年も経つわけですがあの突然の訃報を耳にした日の驚き、寒かった葬儀の日、参列者のために焚かれていた火の色までまるで昨日のように思い出されます。

 私が田中さんと親しく口がきけるようになったのは大阪万博の仕事のときでした。それから銀座グラフィックギャラリーの企画展の監修をお願いしてからは毎月、会議でいろいろご意見をいただきました。とくに思い出すのは、スペインで「日本のポスター展」を開催したとき、田中さんが私たち担当者よりもはやく会場入りして率先して汗を流してくださったこと、会期中、夕食時にはお気に入りになったシェリーをニコニコして召し上がっていたこと、おそらく帰国時にはあの銘柄のシェリーをしこたま求められたのではなかったでしょうか。

 そういえば、田中一光さんは板前はだしの料理人でした。たびたびご自宅でごちそうになりました。寿司屋のカウンターにも負けないテーブルに懐石料理ふうに次々と料理が並ぶのですが、味はもちろんのこと、料理の盛られた食器の見事さにも目を奪われたものです。あるとき、ご馳走になった翌日電話がかかってきて「昨日、1品出し忘れたよ。今朝、冷蔵庫に食材がのこっていて気がついた、ゴメンよ」ということもありました。

 ミッドタウンの21_21デザインサイトの企画展「田中一光とデザインの前後左右」でも、この飯田橋でも10年前は小・中学生だったに違いない若い層が食い入るように一光作品に見入っています。田中さんのデザインが新しい世代をも魅了しつつあるなというのが実感です。これは蛇足ですが、私は田中一光さんに司馬遼太郎さんに似た臭いを感じます。お二人とももっと生きて、もっと作品を見せていただきたかったと思います。

 

 

 

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