活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

本の奥付け 2

2012-12-03 10:35:59 | 活版印刷のふるさと紀行

 本の表紙がその家の表玄関なら奥付けは雪隠?だと思います。(雪隠って若い人にわかるかな)。目立ってはいけないけれど、きれいにしておく大事な場所です。

 いまはほとんどの本の割り付けはレイアウトマンの手になっています。字詰から行数、見出しの活字の大きさからノンブルの位置や書体まですべて彼らにお任せスタイル、編集者は校正マンで本作りが進行するケースが少なくありません。

 以前は本の組体裁など、いわゆる設計・施工は担当編集者の領分でした。奥付けは校了間際に編集者が万感の思いを込めてレイアウトしたものです。罫をどう使うか、空白スペースをどう活かすか、編集作業にケジメをつける楽しい仕事でした。

 もっと以前は、奥付けに著者の検印を貼るのが普通ですから、検印の貼り位置まで考えて割り付けをしたものです。

 検印といえば、私も検印紙の束を持って著者のお宅にハンコを押していただきに行ったことがあります。ハンコの数がそのまま印税に結びつくのですから、大歓迎。押す手が疲れるとご家族でかわりがわりに押していただいて、ご飯までご馳走になって帰ることになりました。そして、社に戻ると増刷分の奥付けをつくるのです。第〇版とか第〇刷とか、自分が担当した本が増刷になるたびにうれしいものでした。

 最近は単行本でありながら、雑誌風の横組みの奥付けが申し訳程度に添えられていたり、必要事項が並んでいるだけの無味乾燥の奥付けだったり、どうも奥付けの座り心地の悪い本を見かけます。これでは、奥付けデザインコンクールでもやりたい気分です。

                  冬入り近い護国寺

 

 

 

 

 

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本の奥付け 1

2012-12-02 20:25:45 | 活版印刷のふるさと紀行

 わが知識不足を告白するようで恥ずかしいのですが、こんなことがありました。

 普通、本の最終ページにある発行月日や著者名や発行所名や所在地、、印刷所名や第〇版などを記載するあの「奥付け」のことです。

 いまは定価は表紙カバーなどに印刷されるので、奥付けで定価を確かめることはありませんが、出版社や印刷会社にいたときの癖で、つい、私は印刷はどこの会社だろうか、製本所はどこだろうかと、本を手にすると必ず奥付けを見てしまいます。

 その話は置いておいて、先日、早稲田大学の雪嶋宏一さんにインキュナビラ(欧米で1500年以前に活版印刷で刷られた印刷本)の話をうかがったときにグーテンベルクの42行聖書はもちろんのこと、15世紀、いわゆるインキュナビラの時代には印刷者の名前を記載する慣例はなかったと聞きました。そういえば、グーテンベルクの印刷ではないという論文を読んだことがありますのに、奥付けまで思いを至らせなかったとは、われながら不注意でした。

 インキュナビラまで遡らなくとも、私は印刷初期から体裁はとにかく、本に奥付けはつきものだと思ってしまっていました。たとえば、日本ではじめて金属活字で印刷したキリシタン版などには表紙や扉に奥付けふうの記載があります。

 とくにコンスタンチノ・ドラードが帰国途中、インドのゴアではじめて『マルチノの演説』を印刷したとき、「ゴアのイエズス会の館にて日本人コンスタンチノ・ドラード、これを整版,ご降誕以来千五百八十九年」と表題の下に入れたのはまさに、奥付けだったのです。こんなことからも書物には奥付けがつきものと思いこんでおりました。   (この項つづく)

12月の声を聞いてしまうと皇帝ダリアもやや元気がないみたいです。

 

 

 

 

 

 

 

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音羽に和紙の神様が

2012-12-01 13:37:29 | 活版印刷のふるさと紀行

 2、3日前、私の属している印刷文化史の研究会、神田川大曲塾の定例イベント「神田川界隈を歩く」に参加して、私としては「オヤッ」と驚くような場所に出会ったのでご報告します。今回は講談社近くの音羽から椿山荘付近が中心でした。

 音羽のあたりには明治のはじめごろ紙漉きを生業とする家が何軒もあったようです。神田川沿いに今は埋められて存在しない川も二筋あったようですし、紙漉きに必要な水に恵まれていた土地柄だったのでしょう。その音羽の目白坂下交差点近くのマンションが林立する谷底のような窪地にガイド役の塾生、豫家さんに連れ込まれて「ここが和紙の神様 天日鷲神社」と案内されたのが天日鷲神社とのはじめての出会いでした。

 愚かにも、一瞬、アメノヒワシ神社の鷲は和紙か、天日で紙を乾かすところからのネーミングかと思ったのは、あまりにも神様に失礼な話。実は同じ場所に徳川綱吉の生母、桂昌院が京都紫野の今宮神社からご分霊を得て建立した今宮神社があり、天日鷲神社はその末社になっているのだから由緒があるのだろうと、帰宅してからメールで豫家さんに教えを乞うた次第です。

 なんでも天日鷲命(アメノヒワシ)は神武天皇の側近で、その子孫が天富命(アメノトヨノミコト)に引率されて四国にわたり、阿波の国を開拓、その後、阿波の忌部(いんべ)とともに黒潮にのっていまの千葉、安房に上陸、上総、下総を開拓したらしいのです。

 たまたま、総は麻、麻は紙の原料、その辺も天日鷲神社と関連があるとのことですが、とにかく、明治9年に音羽の紙漉き業者が相談して阿波の国忌部神社からご分霊をいただいて、この紙祖をまつる社を建立して音羽地区の紙漉きの発展を祈ったというのです。

 日ごろ、前を通っても見過ごすような場所に歴史があり、人の営みや文化につながる故事がある。こんど、もっとくわしいことを教えてもらうのが楽しみです。


 


 

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