ブッタ入滅後、五十六億七千万年を経て現世に出現し、衆生を救うといわれる弥勒菩薩。
しかし、なぜ五十六億七千万年後なのか…
もし、その降臨を恐れた人々が、その存在を遠ざけるためにあえてとほうもない年月をでっち上げたのだとしたら?
もし、弥勒菩薩が、すでに何度も現世に現れ、その度に人類に災厄をもたらし、人類の手によって撃退されていたとしたら?
唐の玄奘三蔵が記した『大唐西域記』に登場する慈氏。
六世紀に北魏で起こった大乗賊の乱の首領で自ら弥勒と名乗った、沙門法慶。
隋の時代に反乱を起こそうとし、弥勒仏の出世と自称した宗子賢。
奈良時代、藤原仲麻呂を追放しようとクーデターを謀り、その謀議の会を弥勒会と称した橘奈良麻呂。
そして、太平洋戦争の末期、この世の地獄と化した広島で、新たな弥勒が目覚める…
さて、今回はSF、ミステリーなどで活躍している作家、山田正紀さんの不朽の名作、*(キラキラ)*『弥勒戦争』*(キラキラ)*のご紹介です☆
滅びることを自らに課した悲劇の一族。
彼らの生きる目的は、自らの血をこの世から消し去ることと、時代を超えて出現する”弥勒”を倒すこと。
仏教の世界観を舞台に、想像力豊かに描かれる、ストイックでどこか哀しい物語。
大乗仏教とか小乗仏教って学校で習いませんでした?
何でこんな呼び方をするのか、先生は教えてくれなかったんですが、この本を読んで納得。
大乗とは、<偉大な乗り物>(マハ・ヤーナ)。
衆生を彼岸に渡してくれる乗り物という意味。
つまりこの世のすべての人々を<さとり>へと導く教えであるのに対し、小乗とは<劣悪な乗り物>(ヒーナ・ヤーナ)という意味。
こちらはあくまで自身だけの<さとり>を目的とし、すべての人を救おうなんてしない。
<自利と他利>のために教誡に努める者を菩薩と呼び、<自利>のためだけに努める者を<独覚>(どっかく)、または<声聞>(しようもん)と呼ぶ。
主人公は裏小乗の独覚(どっかく)として生まれた青年、結城弦。
独覚(どっかく)というのは、誰にも教えられることなく、真理をさとった者で、<六神通>を身につけています。
この<六神通>。
簡単に言うと超能力みたいなもので、思いのままにどこへでも行け、姿を変えられ、過去と未来を知り、相手の心を操ることもできるというもの。
この力を解放すれば、まさに超人ということになるのに、彼らの一族はこの能力を使おうとはしません。
そればかりか、独覚(どっかく)の血を絶やそうと、自ら死地に飛び込んで行くのです。
それというのも、この独覚(どっかく)の能力は、修行で身につけられるものではなくて、どうやら遺伝で現れる性質のものだから。
この遺伝というのには驚きました!
この小説、作者が若い頃に書いたということもありますが、仏教の究極的な目的である、<さとり>の境地に至るのは、修行でも普段の良い行いでもなく、ただたんに<遺伝>だと決め付けているのです!!
<さとり>に入るか入らないかは、だからどう生きたかではなく、生まれた時から決まっていると。
それはもちろん、あのブッダでさえ例外ではなく、彼は遺伝的に<さとり>を開く運命にあったにすぎない。
これって宗教を根本から否定してしまいますよね?
ま、SFだからいいのか?(^_^;)
舞台は戦後間も無い、GHQ支配下の日本。
裏小乗の長老で、結城たちの育ての親、薬師寺の命で集められた日本の独覚(どっかく)と声聞(しようもん)、その数4人。
彼らは長老から信じられない話を聞かされます。
正体不明の独覚(どっかく)の手により、世界に第三次世界大戦の危機が訪れようとしている…そして、その独覚(どっかく)を操っているのは、おそらく弥勒であろう…と。
第三次世界大戦の危機?
正体不明の独覚(どっかく)?
そして、弥勒とはいったい…
山田正紀さんの作品では、これの前作、『神狩り』も面白かったです♪
こちらは神戸市で発見されたという古代の石室、その壁に書かれた不思議な文字を研究するよう強制された情報工学の若き天才が主人公。
彼はその文字を解読していくうちに、それが十三もの関係代名詞が重なった<メタ言語>であることを突き止めます。
しかし、人間の脳は七つ以上の関係代名詞が重なった言語は理解できないはず。
もし、こんな言語をあやつることが出来るとしたら、それは人間を遙かに超越した存在…あるいは…神。
人間の世界に様々な形で干渉してきた力、神の存在を確信した主人公は、華僑の美青年や霊感能力者の女性と共に、神の正体を暴き、その干渉を止めるべく、神を狩り立てていく…といったストーリー。
どちらも神との戦いを描きながら、運命に立ち向かっていく人間の姿を描いています。
時に運命に逆らい。
時に運命に流され。
時に受け入れるしかない運命というくび木。
運命にあらがう人間の哀しさ、そしてその中に燃える命のともし火のあたたかさ…
SF作品としての設定の面白さもさることながら、登場人物たちの生き様が物語の大きな魅力になっています♪
仏教に全然興味がなくても大丈夫!
たまには、想像力の翼を広げ、思いっきり遊んでみるのもいいものですよ?
秋の夜長。
あなたの想像力を刺激すること請け合いです☆
山田 正紀 著
ハルキ文庫(1976年のハヤカワ文庫版を底本としています)
しかし、なぜ五十六億七千万年後なのか…
もし、その降臨を恐れた人々が、その存在を遠ざけるためにあえてとほうもない年月をでっち上げたのだとしたら?
もし、弥勒菩薩が、すでに何度も現世に現れ、その度に人類に災厄をもたらし、人類の手によって撃退されていたとしたら?
唐の玄奘三蔵が記した『大唐西域記』に登場する慈氏。
六世紀に北魏で起こった大乗賊の乱の首領で自ら弥勒と名乗った、沙門法慶。
隋の時代に反乱を起こそうとし、弥勒仏の出世と自称した宗子賢。
奈良時代、藤原仲麻呂を追放しようとクーデターを謀り、その謀議の会を弥勒会と称した橘奈良麻呂。
そして、太平洋戦争の末期、この世の地獄と化した広島で、新たな弥勒が目覚める…
さて、今回はSF、ミステリーなどで活躍している作家、山田正紀さんの不朽の名作、*(キラキラ)*『弥勒戦争』*(キラキラ)*のご紹介です☆
滅びることを自らに課した悲劇の一族。
彼らの生きる目的は、自らの血をこの世から消し去ることと、時代を超えて出現する”弥勒”を倒すこと。
仏教の世界観を舞台に、想像力豊かに描かれる、ストイックでどこか哀しい物語。
大乗仏教とか小乗仏教って学校で習いませんでした?
何でこんな呼び方をするのか、先生は教えてくれなかったんですが、この本を読んで納得。
大乗とは、<偉大な乗り物>(マハ・ヤーナ)。
衆生を彼岸に渡してくれる乗り物という意味。
つまりこの世のすべての人々を<さとり>へと導く教えであるのに対し、小乗とは<劣悪な乗り物>(ヒーナ・ヤーナ)という意味。
こちらはあくまで自身だけの<さとり>を目的とし、すべての人を救おうなんてしない。
<自利と他利>のために教誡に努める者を菩薩と呼び、<自利>のためだけに努める者を<独覚>(どっかく)、または<声聞>(しようもん)と呼ぶ。
主人公は裏小乗の独覚(どっかく)として生まれた青年、結城弦。
独覚(どっかく)というのは、誰にも教えられることなく、真理をさとった者で、<六神通>を身につけています。
この<六神通>。
簡単に言うと超能力みたいなもので、思いのままにどこへでも行け、姿を変えられ、過去と未来を知り、相手の心を操ることもできるというもの。
この力を解放すれば、まさに超人ということになるのに、彼らの一族はこの能力を使おうとはしません。
そればかりか、独覚(どっかく)の血を絶やそうと、自ら死地に飛び込んで行くのです。
それというのも、この独覚(どっかく)の能力は、修行で身につけられるものではなくて、どうやら遺伝で現れる性質のものだから。
この遺伝というのには驚きました!
この小説、作者が若い頃に書いたということもありますが、仏教の究極的な目的である、<さとり>の境地に至るのは、修行でも普段の良い行いでもなく、ただたんに<遺伝>だと決め付けているのです!!
<さとり>に入るか入らないかは、だからどう生きたかではなく、生まれた時から決まっていると。
それはもちろん、あのブッダでさえ例外ではなく、彼は遺伝的に<さとり>を開く運命にあったにすぎない。
これって宗教を根本から否定してしまいますよね?
ま、SFだからいいのか?(^_^;)
舞台は戦後間も無い、GHQ支配下の日本。
裏小乗の長老で、結城たちの育ての親、薬師寺の命で集められた日本の独覚(どっかく)と声聞(しようもん)、その数4人。
彼らは長老から信じられない話を聞かされます。
正体不明の独覚(どっかく)の手により、世界に第三次世界大戦の危機が訪れようとしている…そして、その独覚(どっかく)を操っているのは、おそらく弥勒であろう…と。
第三次世界大戦の危機?
正体不明の独覚(どっかく)?
そして、弥勒とはいったい…
山田正紀さんの作品では、これの前作、『神狩り』も面白かったです♪
こちらは神戸市で発見されたという古代の石室、その壁に書かれた不思議な文字を研究するよう強制された情報工学の若き天才が主人公。
彼はその文字を解読していくうちに、それが十三もの関係代名詞が重なった<メタ言語>であることを突き止めます。
しかし、人間の脳は七つ以上の関係代名詞が重なった言語は理解できないはず。
もし、こんな言語をあやつることが出来るとしたら、それは人間を遙かに超越した存在…あるいは…神。
人間の世界に様々な形で干渉してきた力、神の存在を確信した主人公は、華僑の美青年や霊感能力者の女性と共に、神の正体を暴き、その干渉を止めるべく、神を狩り立てていく…といったストーリー。
どちらも神との戦いを描きながら、運命に立ち向かっていく人間の姿を描いています。
時に運命に逆らい。
時に運命に流され。
時に受け入れるしかない運命というくび木。
運命にあらがう人間の哀しさ、そしてその中に燃える命のともし火のあたたかさ…
SF作品としての設定の面白さもさることながら、登場人物たちの生き様が物語の大きな魅力になっています♪
仏教に全然興味がなくても大丈夫!
たまには、想像力の翼を広げ、思いっきり遊んでみるのもいいものですよ?
秋の夜長。
あなたの想像力を刺激すること請け合いです☆
山田 正紀 著
ハルキ文庫(1976年のハヤカワ文庫版を底本としています)