一度読んだら忘れられないっていう本、ありますか?
細かい内容はさておいて、強烈な印象を残していく作品。
他のどんな物語とも違う異質感。
そこにただよう底知れぬもの。
しかし、イメージだけはまるで目の前で見ていたかのように鮮明に思い描ける。
今回ご紹介するのも、私にそんな印象を与えた一冊。
フランツ・カフカの 『変身』 です☆
ある日目覚めると、自分の姿が一匹の虫に変わっていた…
背中は固く、無数の足がある、巨大な虫。
ベットの上で、仰向けのまま「自分が虫になっている」と確認する主人公グレゴール・ザムザ。
彼はいかれた超能力者でも、はたまた変な薬を飲まされた高校生でも、改造人間でもありません。
昨日までは、いや、昨夜までは確かに真面目なサラリーマンだったのです。
そして今も、巨大な虫の姿になった今も、家族の借金のために働き、嫌な上司に頭を下げ、妹を密かに音楽学校に入れてやるのを夢見る、真面目な男に変わりはないのです。
仰向けの姿勢のためベットから降りられず、仕事に遅刻してしまうのを気にするグレゴール。
この小説の特異な点は、こうした異常な始まり方をするにも関わらず、物語が破綻することなく淡々と続いていくことです。
この小説はホラーでもSFでもありません。
例えるなら、夏目漱石の小説に、虫になった男が登場するようなものです。
グレゴールの様子を見に来た勤め先の支配人。
なんとか誤魔化そうとするグレゴールですが、もはや人間の言葉さえ出すことができず、業を煮やした彼は自分が虫になっていることも忘れて、部屋から飛び出してしまいます。
支配人の顔に浮かぶ恐怖。
家族の驚き。
その日から、グレゴールと家族の陰惨な日々が始まります。
虫になったとはいえ、息子であり兄である”それ”を放っておくことはできず、かといって世間に知られてしまうわけにもいかない家族。
部屋に食事を運び、恐怖を感じながらもけなげに世話を焼く妹。
息子への愛情で胸を苦しめられながら、どうしてもその姿を正視できない母親。
そして、何に対していいかわからない怒りに身を震わせる父親。
なぜ虫になったのかは、この作品の描くところではありません。
最後まで、それはわかりません。
でも、世の中にだって、「どうしてこんなことになってしまったんだ!」と思うようなことはたくさんありますよね。
そんな時、私たちはのんきに原因を突き止めたりはしていられません。
とにかくなんとかしなくちゃいけない。
現実に向き合わなければならない。
どうして…と考えていられるのは実は甘えのかも知れません。
現実は、時に何もかも簡単に変えてしまい、不条理に私たちに迫って来るものです。
一家の稼ぎ手がこんなことになってしまい、経済的に苦しくなった一家はそれぞれに自分たちも変わらざる得なくなります。
商売に失敗してから息子の世話になり、食べて横になる生活で太っていた父親も、自分の力で立って仕事をするようになります。
彼は家でもその職場の制服を脱ごうとしないくらい。
健気に世話をしていた妹も、使ってくれるところがあって働くようになると、兄の世話もしだにおざなりになりますが、ある日グレゴールの部屋を母親が掃除すると、烈火のごとく怒ります。
いつの間にか、グレゴールの世話をしているというのが、彼女のアイデンティティーとなり、自分のテリトリーを侵されたと母親に食ってかかったのです。
そうした家族の変化を眺めながら、グレゴールは壁や天井を這い回り、物陰を好んで身を潜めるようになります。
しかしまだ人間としての記憶も、理解力も失ってはいません。
そのうち、家賃を得るために下宿人を置くことにする一家。
もちろんグレゴールのことは彼らには秘密。
温かい料理が並んだテーブルに、下宿人たちの前で自慢のヴァイオリンの腕を披露する妹。
ほこりにまみれ、食べ物さえろくに食べていないグレゴール。
そして、決定的な事件が起き、ついにグレゴールは…
作者のフランツ・カフカはオーストリア=ハンガリー帝国領時代のプラハに生まれました。
この作品は1912年に執筆され、1915年に出版されています。
その前年の1914年にはサラエボでオーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント大公がセルビア人青年に暗殺されるという事件が起き、この事件をきっかけにして、世界は第一次世界大戦へ向うのです。
カフカはこの『変身』が出版される際、写実的な画家が扉絵を描くと聞き、慌てて手紙を出しています。
「…彼はたとえば昆虫そのものを描こうとするかもしれないと、そう考えたわけです。それだけは駄目です。それだけはよくありません。…(中略)昆虫そのものを描くことはいけません。遠くのほうからでも、姿を見せてはいけません。」
グレゴール・ザムザはいったい何になったのでしょう?
とっても薄い本なので、ちょっと手に取るにはちょうどいいと思います。
ストーリーも設定が設定なだけに予想ができなくて、次はどうなるんだろう? と、ワクワク、ドキドキしながら読むことができました。
いちおう有名な作品ですが、有名な作品の中にも面白いものはあるといういい例ではないでしょうか(苦笑)
ただし、翌朝目覚めるのが心配になってしまうかも知れませんけど☆
フランツ・カフカ 著
高橋 義孝 訳
新潮文庫