昨日6月1日は父の命日です。お墓の近くでは田植えが始まっています。
2001年、大腸がんでなくなりました。
大正4年生まれ享年84歳
大正生まれを絵にしたような生きざまの男の人生だったと思っています。
伊達家の家老職の家柄で祖父は近衛の職業軍人
祖父は、当時としては珍しい上流階級でははやりのミッションスクールに通っていたとか
なにごとにつけ
「あーめん」の代りに「アーメンどくせ―」が口癖、
十流階級にも似合わず、芝居小屋にも出入りするという祖父だったらしい。
その祖父が朝での馬の散歩。富士山がとてもきれいに見えた、帰ると待望の男の子が生まれた、
それがわが父、富士太郎という名をつけてもらったとか、
祖父は40歳で亡くなった、
父がその年齢を超えたときから
「俺はおまけの人生だとおもってる」と言ってました。
父は戦前心の底から日本が大東亜の中心になり、大東亜文化圏の国づくりをすると信じていたと外地外交官時代を送り終戦。
毎日つけていた日記を焼き、先祖伝来の刀を敵に渡すくらいならと中国の川に沈めたという
私自身も、生まれや育ちがいいのにプライドを持つようにいつも言われて育ちました。
(嫁入りのときに家系図を持たせられた!!)
私自身は父のそういう情緒的な部分を理解できず。
「人間は平等なのに・・」とわけのわからないプライドを持てなんて・・思うことしきりでした。
父の晩年、10年くらい、中国との国交が再開されたのを機に、毎年、中国旅行のおともをしました。
その折に問わずがたりに、先妻とその子二人を葬ったお寺詣りも目的の一つであることを知りました。
最後の中国訪問になった時は、その都市にいるのにお参りに行かなかった。
時間もあるのに・・
もう癌で施しようもなく、次の機会があるかどうかわからないので、本人には告知はしてなかったのですが、
私としてはずいぶん勧めたのですが・・。
「いいんや悲しいなるで・・」と言葉少なくいったのを覚えています・
ああ!自分ではどうすることもできない戦争、敗戦という運命、まきこまれた人というのはこういう生きざまなんだ~と
私はその時思いました。
努力したら、その目的に到達する人生を送ってる今の人間、わたしには選べない、またできない選択肢でした。
このことだけでなく私は父から多くのものを受け取っています。
有形無形。
父の子に生まれてほんとによかったと思っています。
父のがん闘病生活の看護の時。
「嫁に行ったお前に、こんなにみてもらえるなんて思わなかった。ほんとに世話になった」
と日ごろはいわないことをいう父・
まだまだ生きてほしかったと思うのです
大酒飲みで、プライドが高く、太鼓持ちやお取りまきを抱えて遊興する父
心の中を表現するのがへたくそな父
「もったいない」とか言おうものなら「生きてるのが一番無駄じゃ」と豪語しやりたい放題。
パソコンを駆使しで、最後に入院した時も病院のベッドの上で税理士の仕事をしていました。
最後の入院前に「忘れな草の歌」を聞き
「どんな花か見たい」といって、母に育てるようにいいました。
「チューリップくらいしか御花なんてわからないくせに・・」とぶつぶつという母
でもその御花が咲きだしたとき、父はもう旅立ってしまいました。
忘れな草をあなたに / 菅原洋一
父のメッセージかなあと思う私
戦争という運命のもとに青春の時代をおくった大正生まれの男のロマン
皆さんの周りには。そんな人が、きっといたことでしょうね。
その人たちが作ってくれたこの平和な時代と国
大事にしたいです。
読んでくださってありがとう