永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(103)

2008年07月11日 | Weblog
7/11  

【明石】の巻  その(15)

 紫の上の御返り文は、なにげない風を装ってはいらっしゃるものの、
終わりの方のうたに、
「うらなくもおもひけるかな契りしをまつより浪は越えじものぞと」
――疑いもなくお約束の再会をお待ちしていました。浮気はなさらないと信じて――

 おうような書き方ながら、うらめしげで相当にあてこすっておありだ、と源氏はお感じになって、なおさら、明石の御方へは、忍びの旅寝もされないのでした。

「女、思ひしもしるきに、今ぞまことに身も投げつべき心地する。」
――明石の御方は、予想どおり源氏が冷淡になられたので、今こそ真実、海に身を投げたいと辛い思いをしております――

 しかし表面はおだやかに振る舞って源氏にお逢いしています。

 源氏は、そのような明石の御方をいとおしいとお感じになりますが、一方では都の紫の上が、どんなに不安で居られるかともお思いになりますので、独り寝が多うございます。
つれづれに絵など描きながら。

紫の上も同じように絵を日記のように描いておいでです。
この方方は一体この先、どうなるのでしょうねぇ。(作者のことば)

さて、
「年かはりぬ。内裏に御薬のことありて、世の中さまざまにののしる」
――年が代わって、帝のご病気の事件のために、お世継ぎのことなどいろいろと騒がしいのでした――

 帝(朱雀院)の御子は、御母が右大臣の姫君で承香殿(しょうきょうでん)の女御でいらっしゃいますが、やっと二歳で大層幼い。春宮(朱雀院は故桐壺院と藤壺の宮との御子と信じている)にこそお譲りになることになろう。その場合、後見人となって、政治をも与れるひとは?と思いめぐらされますと、源氏が今のような境遇に居られることはまことに惜しいことと、弘徴殿大后のお諫めに背いて、源氏をお許しになる宣旨を出されます。

 昨年から、大后も病がちですし、朱雀院も御目がはかばかしくなく、たいそう心細く思われて、七月二十日すぎに、重ねて源氏に京にお帰りになるようにと宣旨を下されます。

源氏は、
「……かう、にはかなれば、うれしきに添へても、またこの浦を今はと思ひ離れむ事を思し嘆くに……」
――こう急なことで、うれしいとは思いますものの、この明石の浦を離れることの辛さを嘆いてもおいでです。(皮肉にも、こうして別れの日が近くなって、明石の御方の自分への思いが深まることよと、思い乱れつつも女君をなぐさめておいでです。)――

◆女または女君=作者がこう表現するときは、なまめかしい男女間の実事を示します。

ではまた。


源氏物語を読んできて(典薬寮)

2008年07月11日 | Weblog
典薬寮

 典薬寮(てんやくりょう)は宮廷官人への医療、医療関係者の養成および薬園等の管理を行った。天皇への医療を行う内薬司と対を成す。

 896年に内薬司を併合して朝廷の医療を掌握した。長官は典薬頭で、医師、針師、按摩師、呪禁師で構成されていた。また、医博士、針博士、按摩博士、呪禁博士、薬園師がおり、その下には学生である医得業生が学んでいた。

 内薬司併合時には侍医・薬生・女医博士も移管された。

 女医博士(にょいはかせ)は、女子の病を診察する医者。産、婦人病。


源氏物語を読んできて(蘇と醍醐)

2008年07月11日 | Weblog
蘇と醍醐

 蘇(そ)は、8世紀~10世紀頃の日本で最初に作られたチーズ。ただし、その頃の日本はチーズの定義が無かったため、正式にはチーズではない。文武天皇の時代に蘇が作られた最初の記録がある。当時は非常に高価で、ごく限られた貴族や高貴な身分の者のみが宴会などを彩る珍味として食されていた。
味は淡白で、カッテージチーズに近い味わい。

醍醐
 醍醐(だいご)は、蘇をベースにさまざまな手法で濃縮、熟成させてつくる。最高の美味といわれた。

◆写真は蘇(復元品):美味とともに病気治療薬