永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(119)

2008年07月27日 | Weblog
7/27  

【澪標(みおつくし】の巻  その(12)

六條御息所がお帰りになって後も、源氏は以前と変わらぬお世話をお申し出になりますが、

「昔だにつれなかりし御心ばへの、なかなかならむ名残は見じ、と思ひ放ち給へれば、渡り給ひなどする事はことになし」
――六條御息所は、源氏が昔でさへ、冷淡でいらしたお心から、なまじお情けを頂いて後悔するような目は見まいと、ふっつりと思い離れていらっしゃるので、源氏からことさらお出でになることはありません――

 源氏は、ただ、あの美しい斎宮は、どのように成長なさったかと、垣間見て見たいとお思いです。

 六條御息所は、風流を好まれることは昔のままで、過ごされていらっしゃいましたが、
「なはかに重くわづらひ給ひて、物のいと心細く思されければ、罪深き所に年経つるも、いみじう思して、尼になり給ひぬ」
――急に重い病気になられて、この先を心細く思われ、仏事供養を忌み避ける斎宮にて、年月を送りましたことを罪深く気に病まれて、尼になられました。――

 源氏はこのことをお聞きになって、色めいたことではなくても、あの方をしかるべく思われておりましたので、こう発心されたことが口惜しく、驚きながらお渡りになり、あわれ深くお見舞いを申し上げます。御息所は大層弱々しいご様子で、脇息に寄りかかってご返事なさって、その中で

「心細くてとまり給はむも、必ず事に触れて数まへ聞え給へ。また見ゆづる人もなく、類なき御有様になむ。……とても、消え入りつつ泣い給ふ」
――斎宮は心細いさまで残られますゆえ、必ず、何かにつけてお世話下さい。他にお世話を頼む人もなく、またとないあわれなお身の上なのです。(私はもうしばらく生きて、斎宮の後見ができると思っていたのですが)とおっしゃって、消え入るようなお声で泣いておられます――

◆罪ぶかき所=佛教の立場からみると、斎宮は神道で、仏事供養を忌み避ける場所である。
 この時代は、佛教が盛んになり、末法思想の中で、死後は西方浄土への願いが大きかった。六條御息所も死を前に、仏事を離れていた事を、罪深いと思ってのこと。


源氏物語を読んできて(平安時代という時代 1 )

2008年07月27日 | Weblog
平安時代という時代(1)

律令制度

 平安時代(へいあんじだい、794年-1185年頃)とは、794年に桓武天皇が平安京(京都)に都(首都)を移してから、鎌倉幕府の成立までの約390年間を指す日本の歴史の時代区分の一つ。京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上の唯一の中心だったことから平安時代と称する。

 
概観
 
 平安前期は、前代(奈良時代)からの中央集権的な律令政治を、部分的な修正を加えながらも、基本的には継承していった。

 しかし、律令制と現実の乖離が大きくなっていき、9世紀末~10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換した。

 この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制という。

 王朝国家体制期は、通常古代の末期に位置づけられるが、分権的な中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されている(日本文学史研究においては「中古」という表現も用いられている)。

源氏物語を読んできて(遊女)

2008年07月27日 | Weblog
遊女

 あそびめ、またはうかれめともいわれ、古い頃の巫女(みこ)が神性、司祭性を失ってから流浪性、遊行性、娼婦性を発展させたのが奈良時代の遊行女婦であって、平安時代以降はそれをつづめて遊女と表現された。
 
 平安時代の遊女は教養もあり、彼女らの和歌が勅撰歌集に入っているものもある。
 
 これは袿姿での遊行の為、裾を腰の小紐にはさんだ姿とした。正式の旅姿の壺装束と異る略の装いである。

◆写真:遊女 風俗博物館