永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(帝の装束・黄櫨染御袍)

2008年07月15日 | Weblog
黄櫨染御袍(こうろぜん)

 天皇が大儀の際に着た袍(ほう)の服色。平安前期に纏められた『延喜式』によると、黄櫨染は蘇芳(すほう)と櫨(はぜ)、または紫根(しこん)で染めるとあって濃い黄褐色(かっしょく)の色彩です。

 夏の土用(どよう)に南中する太陽の燃え盛る色彩だといわれ、古代中国の五行思想の中軸をなす色彩でもあります。隋朝で登用された制度ですが、平安前期の『西宮記』に我が国ですでに用いられていたのが記されています。天皇以外は禁色(きんじき)でした。

 帝専用の特殊な色と文様を具えたこの袍は、帝位の象徴と見做され、譲位の際には前帝が内侍をして新帝に黄櫨染御袍と御笏を奉らせるという儀式もありました。
ただし、袍の形状や衣裳の構成自体は、公卿が着用する縫腋袍の束帯装束と同じだったようです。

◆写真と参考:風俗博物館


源氏物語を読んできて(帝の装束・袞冕)

2008年07月15日 | Weblog
袞冕(こんべん)

「冕服」とも称される、帝の礼服です。

 礼服は『大宝令』において朝廷の公事に際して着用するよう定められた中国式の衣裳で、『養老令』「衣服令」では「大祀大嘗元日」に用いると規定されましたが、平安時代以降は天皇以下三位以上の者のみが即位式に限って着用する衣裳となりました。

源氏物語を読んできて(帝の装束・御引直衣)

2008年07月15日 | Weblog
御引直衣

 プライベートな場面での日常着です。
御引直衣は親王や公卿らが着る普通の直衣よりも裾が長く、普通の直衣が裾をたくし上げて懐をつくる着方なのに対し、御引直衣は懐をつくらず裾をそのまま後ろに引きずる着方をします。

 この後ろに裾を引く着方が「御引直衣」という名称の所以です。
直衣の生地は、冬は表地が白小葵綾、裏地が紫または二藍の平絹、夏は二藍または縹の*(皺模様のある薄手の縮み絹。縮緬)とされました。
※「*」は穀の“禾”を“系”に換えた漢字。

 また、被り物も烏帽子ではなく冠を被り、下半身に着けるものも普通の直衣姿のように指貫ではなく紅の打袴か生袴を履きます。

 直衣の下は衵と単を着ますが、これも普通の直衣の下に着るものよりは長く仕立てるのが通例だったようです。

天皇だけでなく上皇の日常着も御引直衣だったのではないかと思われます。

◆写真(左側が御引直衣・正面)と参考: 風俗博物館

源氏物語を読んできて(107)

2008年07月15日 | Weblog
7/15  

【明石】の巻  その(19)

紫の上は
「いとうつくしげにねび整ほりて、御物思ひのほどに、……」
――紫の上は、大層愛らしく立派になられて、ご心配中に(多すぎた御髪のやや少なくなりましたのが、かえって美しく――

 源氏は、こうして紫の上と共にお暮らしになることの安堵さのうちにも、寂しく別れてきました明石の御方を痛々しく思いやられて、
「なほ世と共に、かかるかたにて御心のいとまぞなきや。その人の事どもなど聞え出で給へり」
――やはり、源氏はいつの時にもこうした方面で御心の休まれることがないのでしょうか。
明石の御方のことなど、紫の上に話出されるのでした――

 紫の上の少し拗ねたご様子も、源氏は面白く可愛いとお思いになります。

帰京後ほどなく、源氏は
「もとの御位あらたまりて、数より外の権大納言になり給ふ。つぎつぎの人も、さるべき限りはもとの官返し賜り世にゆるさるる程、枯れたりし木の春にあへる心地して、いとめでたげなり」
――源氏はもとの参議大将から昇進されて、員外の権大納言になられました。然るべき人々も皆以前の官をお返しいただき、枯木から春に巡り合われた心地がして、まことにお目出度いご様子です。――

 帝からお召しがありまして、源氏は参内されます。朱雀院と源氏は昔を思い出されて、再会のお話がつきないのでした。

 源氏はまず、故桐壺院の追善の法華八講を用意なさいます。春宮は立派にお育ちになっておられるので、帝王になられるのに何の差し障りもなくお見えになります。藤壺の宮へのご対面には、あわれなるお話もありましょう。そうそう、あの明石の御方には、人目を避けて細々と文を書いていらっしゃいます。

 源氏の帰京に、あちらこちらのご婦人方からのお文もあり、お尋ねを心待ちにしているようですが、
「この頃は、さやうの御ふるまひさらにつつみ給ふめり」
――この頃は、そういう浮気のご行動はすっかり慎んでおられるようです――

そのような訳で、お手紙ばかりですので、花散里などはうらめしげでございます。

◆数より外の権大納言
 
 大納言(だいなごん)は、朝廷組織の最高機関、太政官の職の一つで、左大臣・右大臣・内大臣に次ぐ官位で、四等官の中の次官(すけ)に相当する。
 主な職掌は、大臣の仕事を補佐し朝議に加わりそれを施行することで、定員は始め4人であったが、705年の中納言の復活と共に2人に減らされる。
 しかしながら平安時代に権大納言(大納言の権官で定数は3人。のちに増員)が置かれ、定員は実質増員されている。後世では多いときでは8人が任じられていた。

◆明石の巻 終わり。

ではまた。