礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

コラムと名言その2

2012-05-24 05:56:59 | 日記

今日のコラム 2012・5・24

◎高橋秀直と政治過程論
 二〇〇六年一月、気鋭の歴史学者として知られていた高橋秀直(一九五四~二〇〇六)が、五一歳という若さで亡くなった。高橋秀直には、「征韓論政変の政治過程」という論文がある(『史林』第七六巻第五号、一九九三)。高橋の代表的な論文のひとつである。

―明治六(一八七三)年一〇月の征韓論政変の実態とその歴史的意味を明らかにすることを、本稿は目的としている。
この政変については、征韓を主張する西郷隆盛ら留守政府派と内治優先の立場よりこれに反対する大久保利通ら使節団派が対立し、後者が勝利をしめたとするのが通説的事実認識である。そしてこの政変の意味については、対抗する両者には、政治路線上の大きな差異が存在し(前者の士族反動路線、後者の開化路線)、それが対立したものであるとする見解がかつては有力であった。しかし原口清氏は『日本近代国家の形成』(岩波書店、一九六八年)で、留守政府の遂行した政策は反動的なものであるどころか極めて急進的なものであり、対立した両者はともに開化路線をとる勢力であったと主張された。氏の主張は妥当なものであり、これ以後問題は、同じ開化路線の線上にありながら、なぜ明治政府はこのとき朝鮮問題をめぐって決定的に対立・分裂しなければならなかったのかという点に置かれることになった。そして一九七〇年代後半になると毛利敏彦氏の一連の著作(『明治六年政変の研究』、有斐閣、一九七八年・『明治六年政変』、中央公論社、一九七九年)が登場した。氏の説は、西郷はこのとき征韓を意図しておらず、政変の真相は、朝鮮問題をめぐる対立ではなく、権力闘争(江藤新平の勢力拡大に反発する長州派や大久保の策謀)であった、というものであった。氏の著作は、従来の研究の前提となっていた事実認識を完全に否定するものであり、大きな衝撃を与え、以後政変についての研究は活性化し最近の近代史研究の一つの焦点となるにいたっている。―

 同論文の冒頭部分である。高橋は、「明治六年政変」という言葉を使わず、「征韓論政変」と言っている。このことでもわかるように、この論文における高橋の見解は、毛利説とは異なっている。にもかかわらず高橋は、毛利説が史学界に「大きな衝撃」を与えたこと、その衝撃によって研究が「活性化」したことを認めている。引用を続けよう。

―この政変について本稿は以下の視角より検討を行う。
 第一に、政変の基本過程を構成することである。毛利氏の著作について、朝鮮問題は政変の実質的争点ではなかったとするその核の部分は同意することはできない。しかし従来の固定観念や予断を排し、政変の過程の具体的分析の必要を強調し、通説的事実認識の再検討をうながした点において、私は氏の研究の意義を高く評価する。すなわち氏の著作により、明治六年九月以降の政治過程で朝鮮問題が最重要な懸案で一貫してあり続けていたわけではないこと・自明なもののように従来使われている「征韓派」や「内治派」という用語自体、十分な検証抜きには使い得ないものであること(西郷と他の「征韓派」の参議とはほとんど連係が存在しておらず、「内治派」の木戸孝允と大久保の関係も決して良好ではない)・使節団派は当初、西郷を政治的打倒の対象としていなかったこと、など、通説的事実認識を揺るがす点が明らかにされたのである。この明治六年の後半において政府内でどのように対抗関係が彩成されていったのか・その対抗関係の形成と朝鮮問題はどのようにかかわっているのか・決裂過程での真の争点は何であったのか、など、これらまさに政変の基本過程はもはや既知のものではなく、これから明らかにされなければならないものとなっているのである。
 これら政変の基本過程を明らかにするためには、基礎的事実の確定が何よりも必要となる。従来の研究では、これらの「事実」は『岩倉公実記』(多田好問編、原書房復刻、一九六八年)など戦前の伝記に主によっていた。しかし毛利氏の著作は、これらの伝える「事実」への再検討の必要を提起するものであった。そしてたとえば周知の一〇月二三日の岩倉の上奏文が、実際になされたものではなく、あとで差し替えられたものであることに示されるように、これらの「事実」は十分に信のおけるものではなく、たしかに徹底した再検討・史料批判が必要となる状況である。本稿は従来使われてこなかった未公刊史料をふくめ、史料の再検討を行い、基礎的事実の確定、政変の基本過程の再構成を行おうとするものである。―

 高橋は、毛利氏の研究手法について、「従来の固定観念や予断を排し、政変の過程の具体的分析の必要を強調し、通説的事実認識の再検討をうながした」と、高く評価している。また、それに続く文章では、「政変の過程」・「政治過程」という問題へのなみなみならぬ関心が窺われる。さらに引用の最後では、「史料の再検討」・「基礎的事実の確定」・「政変の基本過程の再構成」という研究姿勢が表明されている。
 これらを見ると、この論文自体が、毛利氏の研究に触発されたものであり、毛利氏の問題提起を踏まえたものであり、毛利氏の手法を踏襲しているものであることがわかる。
 高橋秀直の遺著『幕末維新の政治と天皇』(吉川弘文館、二〇〇七)が刊行されたのは、その死から約一年、二〇〇七年二月のことであった。同書の「序」(執筆・松尾尊〈タカヨシ〉)および「あとがき」(執筆・藤井譲治)によれば、高橋は、一九九五年から没時まで「幕末維新期の政治過程の研究に没頭し」ており、生前すでに、それらの成果を一冊にまとめる企画が進んでいたという。『幕末維新の政治と天皇』は、故人が実現できなかった企画を、「高橋秀直さん追悼会」が、遺稿集という形で実現させたものである。
 同書は、五五〇ページ以上ある大冊である。まだ、ところどころ拾い読みしている段階だが、著者の関心が、「政変」と「政治過程」に集中していることは、容易に看取できた。初出論文一覧によって初出時のタイトルを確認すると、「文久二年の政治過程」、「八月一八日政変」、「王政復古クーデター」、「王政復古への政治過程」といった言葉が並んでいる。生前に著者が了解していた仮タイトルも、『幕末維新の政・変と天皇』であったという。
 高橋秀直がこのように政変・政治過程に関心を向けるようになった背景には、毛利説の「衝撃」によって、「政変」研究が「活性化」し(毛利説の「衝撃」によって、「明治六年政変」=征韓論政変に限らず、幕末維新における「政変」の研究が「活性化」したと捉えたい)、さらに「政治過程」への関心が高まるという事態があったと私は推測する。もちろん高橋も、そうした活性化・隆盛の一翼を担った研究者のひとりであったと考えている。

今日の名言 2012・5・24

◎死ぬのがわかっているのに、なぜ生まれてきたん?
 作家の川上未映子さんは、幼いころ祖父の死に接し、母親にこう質問したという。母・川上利江さんの回想による。幼くしてそうした疑問を発した川上未映子さんも稀有だが、その疑問を受けとめた川上利江さんも稀有である。朝日新聞2008・4・12

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする