礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

歴史学における推量について

2012-05-31 06:52:22 | 日記

◎歴史学における推量について

 歴史家の文章について、少しだけ補足する。

―〔久邇宮〕朝彦親王をつぶした大久保は、二条関白あての伝言書を親王に書かせ、それをもって関白邸に押しかけた。関白は将軍の参内に立ち会うため朝廷に行かねばならぬというのを引き止めて、大久保は、同趣旨の主張を執拗につづけた。彼は、今日の内外の混乱は幕府の失政がもたらしたものである、にもかかわらず批判の多い将軍進発をあえて行なったのは慕府の暴挙である、昨冬の征討は禁門を犯したから実行されたのだが、それでさえ外患があるため寛大の処置をとられたと思う、今兵庫沖に外国船が来ている非常の時に、征伐を許すのは何事であるか、と夕刻まで熱弁をふるった。―

 これは、毛利敏彦氏『大久保利通』(中公新書、一九六九)の九六ページにある文章である。この本が出たのは、『明治六年政変』よりも一〇年も前だが、毛利氏は、すでにこの段階で「政治過程」に関与する人々を描写するにふさわしい文体を編み出していたということがわかる。

―この感慨は、とりわけ廃藩置県の断行が宣せられた七月十四日にも、木戸〔孝允〕の胸中をかけめぐった。廃藩の当日、木戸は詔書を読みあげる右大臣三条実美のかたわらに座していた。五六藩の藩知事が平伏拝聴している。そのなかには、山口藩知事毛利元徳の姿もあった。木戸は胸をつまらせ、涙を抑えることができなかったという。前夜の雷をともなった豪雨が去り、クーデターに向けた政府内のそれまでの緊張も、まるでなにごともなかったかのようであった。―

 これは、松尾正人氏『廃藩置県』(中公新書、一九八六)の二二六ページにある文章である。松尾氏が、学者らしからぬ文章を操る歴史家であること、それが毛利氏の学風に刺激された可能性があることについては、昨日のコラムで触れた。

 歴史家の文章ということについて考える場合、「熱弁をふるった」、「胸中をかけめぐった」などの小説家的な修辞がどこまで許容されるのかという問題がある。もうひとつ、「それ見たことかと溜飲を下げたであろう」といった推量的表現が、どこまで許容されるのかという問題もある。
 ここで、もうひとつ、文章を引用してみる。

―要するに木戸の征韓論にとって大村は、外征である以上、当然必要な軍指導者としてのみではなく、それを通じての新軍制の建設者であり、また数少ない支持者だったのである。/しかし大村は九月四日京都で襲撃され重傷を負った。そして大村の療養中、兵部省は混乱し、大村派が主導権を握れる状態ではなかった。そして一一月五日には大村は死亡した。こうした状況の下では、木戸の期待する形での征韓を実現することはまず無理であった。このため木戸は強硬論より「穏健」論に転じたものと思われるのである。―

 これは高橋秀直の論文「維新政府の朝鮮政策と木戸孝允」(一九九〇)の一部である。確実な史料に基き、きわめて厳密な考証をおこなったことで知られる高橋の場合、小説家的な修辞を用いることはほとんどなかった。しかし、その論文を読んでみると、「と思われるのである」などの「推量的表現」が意外に多いことに気づく。故人は、歴史家に許される「推理」、「想像力」という問題について、どのように考えておられたのだろうか。

今日の名言 2012・5・31

◎みんな強く生きてもらいたい

 新藤兼人監督の言葉。『裸の島』(1960)や『一枚のハガキ』(2011)で知られる新藤監督は、今月29日に、100歳で亡くなった。今日の朝のNHKニュースは、監督の死を伝えると同時に、生前におけるインタビューの一部を紹介していた。上記は、その中で監督が語っていた言葉である。また、本日の日本経済新聞の記事で、古賀重樹編集委員は、新藤監督について「思想でなく肉体で語る映画作家だった」と紹介している。

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