礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

平田篤胤は人格下劣な大山師(瀧川政次郎の平田篤胤批判)

2013-01-06 06:10:08 | 日記

◎平田篤胤は人格下劣な大山師(瀧川政次郎の平田篤胤批判)

 法制史家の瀧川政次郎については、このブログでも何度か紹介したことがあるが(昨年八月一八日以降)、本日は、その著『日本歴史解禁』(創元社、一九五〇)の中の一篇「国史歪曲の総本山平田篤胤」を紹介することにしたい。
 瀧川は、明治維新から敗戦までという一連の歴史の中で、平田篤胤の思想が果たした役割について批判的に論じている。平田篤胤は、生前から毀誉褒貶の激しい人物だったようだが、これだけ厳しく平田を批判した文章は珍しいと言えるだろう。
 紹介するのは、その前半にあたる部分である。仮名遣いなどは、現代風に改めた。

 維新の鴻業を達成せしめた尊王攘夷の思想の発展に、国学者の活動が与って〈アズカッテ〉力のあったたことは、維新史を説く歴史家のひとしく認めるところである。維新前の国学者の大宗〈タイソウ〉は、いうまでもなく、荷田春麿〈カダ・ノ・アズママロ〉・加茂真淵〈カモ・ノ・マブチ〉・本居宣長〈モトオリ・ノリナガ〉・平田篤胤〈ヒラタ・アツタネ〉のいわゆる国学の四大人〈シウシ〉であるが、維新に最も近いのは平田篤胤である。従って平田の思想は、最も強く維新に影響を与え、篤胤の養子鉄胤〈カネタネ〉は、明治政府が設けた教部省の重鎮であった。平田の思想は、平田自らが「本居宣長死後の弟子」といっている如く、本居・賀茂・荷田三大人の思想を発展せしめたものであるが、彼はその思想の淵源をまた度会〈ワタライ〉神道や天主教〔カトリック〕の経典からも汲んでいた。彼が当時禁書であった天主教の経典を長崎を通じて密輸入した数は多数に上っている。記紀〔古事記・日本書紀〕には只一ケ所よりあらわれていない「むすびの神」を以て、すべての神々の本としたものは、一神教である天主教の神学を輸入したものであって、「むすびの神」即ちエホバである。『出定笑語』〈シュツジョウショウゴ〉にノアの箱船の話が見えることは、語るに落ちたものといえよう。又彼が三皇五帝は日本の神様が中国にあらわれたものだという説を吐いているのは、本地垂跡〈ホンジスイジャク〉の説を逆にゆく伊勢神道の説を発展せしめたもので、彼の独創ではない。彼は本居死後の弟子といっているが、木居の科学的な考証の学は少しも承け継いでいない。それを承けついでいるのは、伴信友〈バン・ノブトモ〉である。本居は言葉を離れて思想はないという見地から、日本固有の思想を研究するには、日本語で書かれた『古事記』に依らなければならないとし、漢文で書かれた『日本書紀』を「からごころの文」として排斥しているが、平田は『日本書紀』を取っている。本居生前の弟子であれば、恐らく平田は本居から破門されていたであろう。本居の科学的精神を受け継いだ伴信友は、平田が本居死後の弟子と称して、本居の権威を藉って〈カッテ〉自論を弘めんとしたことを憎んだ。故に平田も信友を人の皮を着た畜生であるとまで罵っている。平田は非常な努力家であり、従ってまた博覧強記であったが、彼は生前から「山師」といわれた如く、人格下劣な大山師であった。この大山師のインチキな思想によって、維新の功臣達が指導せられたことは、正に日本国民の大なる禍い〈ワザワイ〉であった。明治政府が百年の齢〈ヨワイ〉を保ち得ずして崩壊した根本的原因は、茲〈ココ〉にあるものと私は考えている。
 明治以来、欧米の学問が輸入せられるに及んで、平田の学問は正当に批判された。平田の学問は「哲学」にあらずして、「神学」であるといわれた。そうして平田の学問思想は、正統の学府である東京大学から追放せられた。しかし、平田が京都の白川家〔神祇伯を世襲〕と握手して、神官や頑固な攘夷論者の間に扶植した勢力は大きかった。大学から締め出された平田学の系統を汲む学者は、彼等の間にその隠れ家を見付け、反アカデミックな団結を固めつつあった。第一次世界戦争後、「成り金」が跋扈〈バッコ〉し、「軍縮」が行われるに及んで、軍人、わけても青年将校の不平不満はその極に達した。彼等は大学出の秀才が「学士さまなら娘をやろか」という時代の風潮に乗じて、大学を出てから十年も経つか経たないかに、知事さんになって、孔雀のような奥さんを連れて肩で風を切って歩いているのに、自分達は「やっとこ大尉」を十年もやって、やっと少佐になればもう首の心配をしなければならない社会を呪った。彼等は期せずして悉く反アカデミックとなった。彼等の大学に対する反感は、彼等が天下を取った太平洋戦争時代でもなお盛んであった。戦争中、軍隊に於て大学出が窘め〈イジメ〉られたことは、非常なものである。とりわけ法科出の大学生は虐待せられた。学徒出陣で、法科、経済科の学生が一番先に引き出されたのも、表向きの理由は別として、この軍人の大学出に対する反感がその因をなしていることは争えない。ラバールで、ある大学出の幹部候補生が士官学校出の将校の前に引き出され「貴様はどこの学校を出たか」と訊かれた。「私は東京の帝国大学を出ました」と答えると、件〈クダン〉の将校は憎々しげにその幹部候補生の顔を見詰め、稍〈ヤヤ〉あって吐き出すように「貴様は国賊だ」と大喝したという。この軍人の反アカデミックな気持は、大学を追われた平田学の残党の反アカデミックな気持と共感を呼ばない筈はない。故に軍人は、その思想的空虚も手伝って、平田学に共鳴し、傾倒していった。軍の思想家といわれる小磯国昭、荒木貞夫、東条英機等が、平田学者である今泉定介〈イマイズミ・サダスケ〉、山田孝雄〈ヤマダ・ヨシオ〉と良かったことは決して偶然ではない。この軍人と平田学者との反アカデミックな陣営に加わったのは、帝大に入り損じて帝大を呪う蓑田胸喜〈ミノダ・ムネキ〉、三井甲之〈ミツイ・コウシ〉等の浪人連中であった。『南淵書』〈ミナミブチショ〉という偽書を作って青年将校を五・一五に導いた権藤成郷〈ゴンドウ・セイキョウ〉も「こういう書物のあることは、帝大の先生方も御存じない」といって、軍人を随喜渇仰せしめていた。日本を滅茶滅茶にしてしまったのは、これらの反アカデミックな不平党であって、軍人達の小さな不平が国を滅ぼしたという幣原喜重郎〈シデハラ・キジュウロウ〉の見解は正しい。明治維新の原動力となったのものも、陪臣〈バイシン〉の直参〈ジキサン〉に対する不平不満である。【以下略】

 こうした文章を読んで、瀧川政次郎は、左派の歴史家ではないかという印象を持たれる方もおられるかもしれないが、それは違う。昨年八月一八日のブログでも紹介した通り、彼は、東京裁判で嶋田繁太郎海軍大将の弁護人を務めている。その思想傾向は、左派というよりは、リベラル派、どちらかといえば右派といってよいだろう。
 だいたい、「陪臣の直参に対する不平不満」が明治維新の原動力となり、「反アカデミックな不平党」が日本を滅ぼしたというような発想は、「唯物史観」にとらわれた左派歴史家からは出てくるはずがないのである。

今日の名言 2013・1・6

◎「むすびの神」即ちエホバである

 瀧川政次郎の言葉。『日本歴史解禁』(創元社、1950)の17ページに出てくる。瀧川は、平田篤胤における「むすびの神」概念には、天主教研究の影響があると解している。上記コラム参照。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする