◎福沢諭吉による日本語教科書(緒方洪庵と福沢諭吉)
福沢諭吉は、その若き日、大阪で緒方洪庵の門下生となった。たまたま福沢は、一冊の蘭書(ペル『築城書』)の写本を持参していた。そこで名目上、緒方が福沢に同写本の翻訳を命じたということにして、福沢は緒方家の食客生となったという(『福翁自伝』、「医家に砲術志願の願書」の項)。
福沢は、緒方洪庵の指導のもと、この写本の翻訳を完成させた。福沢の「築城書百爾〈ペル〉之記」(一八八一)という手稿には、「課業のかたわらに翻訳をこころみ、数月にして全部六冊脱稿、すなわちこのペルと題する翻訳書にして、その写本も絵図も諭吉の自筆なり」とある。
この翻訳にあたって福沢は、緒方洪庵から「文字の用いかた」について、次のような注意を受けたという。
今足下〔あなた〕の翻訳する築城書は兵書なり、兵書は武家の用にして武家のために訳するものなり、ついてはせいぜい文字に注意して決して難解の文字を用ふるなかれ、……知字の学者が洋書を訳するに難字難文を用いんとすれば、ただ徒に〈イタズラニ〉読者の迷惑たるべきのみ、ゆえに翻訳の文字は単に足下の知るだけを限りとして苛も〈イヤシクモ〉辞書類の詮議だて無用たるべし、……かえすがえすも六かしき〈ムツカシキ〉字を弄ぶ〈モテアソブ〉なかれ云々
これは、『福沢全集緒言』(一九九七)に出てくる言葉である。当然、福沢は、師からオランダ語学に関する指導も受けたであろうが、それ以上に重要だったのは、日本語を綴る際の「文字の用いかた」について注意を受けたこと、すなわち日本語の「文体」について指導されたことではなかったか。
すなわち、福沢諭吉の通俗にして平易な文体のルーツは、このときの緒方洪庵の指導にあったというべきであろう。
福沢諭吉は、一八七三年(明治六)に、『文字之教』〈モジノオシエ〉という本を刊行している。日本語の読み方・書き方についての教科書である。福沢は、多くの啓蒙書によって、「あるべき日本語」の範を示したばかりでなく、日本語の教科書まで書いているのである。
本日は、以下、その『文字之教』の「端書」〈ハシガキ〉を紹介してみたい。引用は、『福沢全集』巻三(時事新報社、一九九八)から。句読点、用字は、原則として同全集に従った。
一 日本に仮名の文字ありながら漢字を交へ用る〈モチイル〉は甚だ不都合なれども、往古よりの仕来りにて全国日用の書に皆漢字を用るの風と為りたれば今俄に〈ニワカニ〉これを廃せんとするも亦不都合なり。今日の処にては不都合と不都合と持合〈モチアイ〉にて不都合ながら用を便ずるの有様なるゆ江、漢字を企く廃するの説は願ふ可くして俄に行はれ難きことなり。此説を行はんとするには時節を待つより外に手段なかる可し。
一 時節を待つとて唯手を空ふ〈ムナシウ〉して待つにも非ざれば、今より次第に漢字を廃するの用意専一〈センイツ〉なる可し。其用意とは文章を書くに、むづかしき漢字をば成る丈け〈ナルダケ〉用ひざるやう心掛ることなり。むづかしき字をさへ用ひざれば、漢字の数は二千か三千にて沢山なるべし。此書三冊に漢字を用ひたゐ漢字の数、僅に〈ワズカニ〉千に足らざれども、一と通りの用便には差支なし。これに由て考れば漢字を交へ用るとて左まで〈サマデ〉学者の骨折にもあらず。唯〈タダ〉古〈イニシエ〉の学者流に傚て〈ナラッテ〉妄に〈ミダリニ〉難き字を用ひざるやう心掛ることのみ。故さらに〈コトサラニ〉難文を好み、其稽古のためにとて漢籍の素読などを以て子供を窘る〈クルシメル〉は、無益の戯〈タワムレ〉と云て可なり。
一 医者石屋などの字は仮名を用るよりも漢字の方、便利なれども上る、登る、昇る、攀るなどの字を一々書き分るは甚だ面倒なり。猿が木に攀るも、人が山に登るも日本の言葉にてはノボルと云ふゆへ漢字を用る方、便利なり、都て〈スベテ〉働く言葉には成丈け仮名を用ゆ可し。
一 易き漢字を見分けて素読するはあまり難きことに非ざれども、唯字を素読するよりも文章の義を解すことに心を用ひざる可らず。即ち此書は子供をして文章の義を解さしめんがための趣向にて作たるものなり。其教授の法左の如し。【以下略】
文中、「有様なるゆ江」の「江」は、いわゆる「変体がな」である。また、「窘る」は〈イジメル〉とも読めるが、ここでは、おそらく〈クルシメル〉であろう。
この「端書」を読むと、かつて福沢が、師の緒方洪庵から受けたという「注意」と共通するところがある。福沢がその「文体」を確立する上で、緒方洪庵から受けた影響は、想像以上に大きいのではないか。
今日の名言 2013・1・7
◎今より次第に漢字を廃するの用意専一なる可し
福沢諭吉の言葉。『文字之教』の「端書」に出てくる。専一〈センイツ〉は、「それに打ちこむ」の意。この言葉からすると、福沢諭吉は、基本的には漢字廃止論者である。