礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

品川の侠客・芳賀利輔がおこなった炊き出しの顛末

2013-01-25 08:12:38 | 日記

◎品川の侠客・芳賀利輔がおこなった炊き出しの顛末

 昨日の続きである。芳賀利輔『暴力団』(飯高書房、一九五六)の後半にある「やくざの世界」(インタビュー)より。ここでは、震災の直後、義侠心から始めた「炊き出し」の顛末が語られる。

芳賀〔続き〕 九月の二日三日となりますと、米もなくなり金もなくなり、腹をへらして通る人や焼け出された女、子供、病人などを見ると、米を積んでいることは、野宿はして居ても良心が咎めて仕方がありません、決心致しました。大きな釜を借りて来まして焚出し〈タキダシ〉を始めたのが四日の日からと思います。まだ地震は止みません。十五俵の米は忽ちなくなりました。勿論無料配付ですが、中には金を置いて行く人もありますが、十円以下の金は頂きません。当時は十円以上の金は普通人には出せませんから。
 集まった金は必ず米を買って来て配付します。毎日のことですからとうとう米屋にも米がなくなりました。最後に米を品川の役場、(当時は未だ区政ではなく町政でした)へ米を買いにまいりました。当時の町長は漆昌巌〈ウルシ・ショウガン〉という人でしたが、売らずに漆昌巌個人として何俵か寄付をしてくれました。町長が個人として米を寄付をしたというので、品川の三業組合からも寄付をうけました。品川御殿山の金持連中からも寄付を受けました。益田孝、原邦造、日比谷平左衛門等多数の寄付が届きましたが、金ばかりで米が来なくなりました。毎日当〈アテ〉にして配給の時間が来ると、二三百人の人が行列して待って居ります。また米がなくなりました。まだ町会では配給をして居りません。役場でも配給しません。対策町会も開きません。ある時政府米が三千俵役場に届きました。たしか九月の十五日頃だと思います。聞きつけた私は早速役場へ米を買いにまいりました。
 その時の収入役が小池友吉という人で、町長は政友会の人ですが、小池さんは民政党系の人であったものですから、当時は政争の烈しい時代なもので事毎に〈コトゴトニ〉対立するのです。
 どうしても米を売ってくれません。理由は町会を開いてからでないと米を出せないというのです。然らば「いつ町会を開くか」と聞いたがその期日はわからんというのです。
「それではわれわれが、米の配給を止めるから町会で米の配給をせよ」と迫ったが、それもならぬとのことです。とうとう感情の衝突する段階に達してしまいました。
 米は山に積んであります。家へ帰れば沢山の人が待って居ります。
「エイッままよ」
と覚悟しました。
 若い者、子分の奴等に車を持って来させて、米を積ませました。小池収入役はこれを止めようとするのですが、私は小池氏を押えてはなさない。
 若いものはドンドン米を積んでしまいました。
 さて代金を計算して払いましたが、どうしても小池氏は受取りません。已むを得ず役場の吏員を立合わせて金を置いて、凱歌を上げて帰りました。
 私が小池氏を押えて居る時、小池氏が暴れるので二つ三つくらわしたことは事実あったようです。
 うちへ帰って、相変らず焚出しをして居りますと、東京府から査察員とかいう人が来て、非常にわれわれの行為を感謝し、いづれ東京府知事から感謝状が来るように致しますとのことでした。
 今日は働いてくれた人を労う為に、大いに祝盃を上げて休みました。
 その間いろいろと面白い話がありますが余り永くなりますから後日にまた何か書くときに御話するとして、それから二三日たちました。
ききて まるで義民伝みたいですね。
芳賀 夜、疲れたので、野宿ばかりではと考え北品川の芸妓屋町に(今の京浜北品川駅の付近)建かけ〈タテカケ〉の家で畳も入って居ない家を借りまして、畳と蒲団を持込まして、そこに寝ることにしました。まだ蚊帳〈カヤ〉を吊って居ました。相変らず、子分共と酒を呑んで寝たのが夜中の一時頃でした、そこで一同に寝て居たのは十二三人であったと思います。
 だれかおこすものがあります。私が一番先に眼を醒ましますと、警察官が五六名と、兵隊さんが憲兵の腕章をつけて三少隊くらい小銃に着剣で警戒して居ります。
「どうか警察へ同行して下さい」とのことです。
 已むを得ず仕度をしました。手錠はかけられませんが、沢山の兵隊につき添われて町中を徒歩で警察まで行きました。それは大正十二年九月十九日だと思って居ります。
ききて 随分ものものしいので、さすがに驚いたでしょうね。
芳賀 警察ではなんの取調べはありませんでしたが、品川の二日五日市〈フツカイツカイチ〉、広町(その当時は貧家が多かつた)辺の私の配給を受けた人達が五六百人警察へ事情を聞きに押かけました。その故か何の取調べもなく次の朝検事局へ送られ、すぐに市ケ谷の未決監に収容されました。罪名は強盗及び騒擾罪〈ソウジョウザイ〉です。
 その後全然取調べがありません。その年の暮れの二十九日に突然呼出されまして免訴になったから釈放するというのです。強盗、騒擾罪は無理ということは解って居りましたが、帰されるとは思いませんでした。ところが町民の有志が毎日五人十人と警察へ助命運動に来たり、事情を聞きに来るので多忙を極めたとのことでしたが、直接の原因は、町会の収入役小池友吉氏の告訴によって、私がやられたので、当時の品川署長が福原芳という人で非常に正義感の強い人でしたから今の警察官のような自分の手柄の為に、検挙するようなことはやらない人でしたね。それから品川三業組合長の浅井幸三郎という人は元自由党以来の人で非常に心配してくれまして小池氏を説伏せること三十回に及んだ為小池氏は根敗けしたと、後に小池氏から聞かされました。即ち小池氏の告訴取下げが直接釈放となったたのが原因です。それは暴行と強迫はたしか申告罪であったと思いますから。
ききて そうしますと、昔のそういう弱いものを助けるような、広くいうといわゆる侠客は先生のお若いころにはあったわけなんですね。
芳賀 あったんですよ。

 文中に、「三業組合」という言葉が出てくる。今ではあまり聞かない言葉だが、これは、三業、すなわち、料理屋、待合茶屋、芸者屋という三つの業者による同業組合のことである。

今日のクイズ 2013・1・25

◎上記のコラムに、品川は「当時は未だ区政ではなく町政でした」とあります。当時の「品川町」の位置づけについて、次の1~3から正しいものをひとつ選んでください。【正解は明日】

1 東京府東京市荏原町
2 東京府荏原郡品川町
3 東京都大井郡品川町

【昨日のクイズの正解】 1 関東大震災当時は、まだ「一円タクシー」は登場していなかった。■「一円タクシー」は、1924年に大阪ではじまり、1926年に東京にもあらわれた。その後、「円タク」は、タクシーの呼称となった。ここで芳賀は、「円タク」をタクシーの呼称として使っているのである(過去に遡ってしまってはいるが)。

今日の名言 2013・1・25

◎まるで義民伝みたいですね

 芳賀利輔の「炊き出し」の話を聞いた「ききて」の感想。『暴力団』(飯高書房、1956)の122ページに出てくる。上記コラム参照。

コメント
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