礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

机の上の扇子に「君辱臣死」の四文字が

2021-08-28 02:07:23 | コラムと名言

◎机の上の扇子に「君辱臣死」の四文字が

 河辺虎四郎『市ヶ谷台から市ヶ谷台へ』(時事通信社、一九六二)から、第五章「大東亜戦争」の第六節「マニラへの使節」を紹介している。本日は、その五回目。

 午後一時半頃われわれは伊江島に無事着陸した。着陸ぶりは敵側将兵の目の前で、みっともなくない手ぎわであった。
 この飛行場は私がはじめて見るので、日本時代との比較はできぬが、滑走路の舗装状況や土地の掘開状況などを見ると、敵側の占領後に大いに手を入れたことがよくわかり、戦争間われわれの最も手痛い強敵であった動力化土工器材の偉勲をマザマザ見せつけられた。
 われわれの乗機がピストに誘導せられると、物見高く黒白の兵隊ども、戦争がすんでいかにも嬉しいというような顔付きで、大勢集まって盛んに写真機を向けている。覚悟をして来たこととはいいながら、不快極まりない。
 われわれの乗機は、約十人ばかりの軍人がキチンと整列している前に誘導され、そこで一同機体から出た。整列者の最左翼にいた一人の白人と思われぬ(フィリピン系か)、われわれの前に来て、まずい日本語で、〝誰が長か〟とたずねた。私は右手を挙げて、〝私が長だ〟というと、彼は手合図でついて来いというかっこうをした。数十メートルを歩くと、DCⅣ式機がある。タラップまで案内され、またも、手合図でそれに乗れとの意が通ぜられた。
 四発の堂々たる大型機、機内にゆったりした座席三十二、通路も広い。せせこましい軍用機内に窮屈な姿勢で、「これが大体空中飛行」というものと観念づけられていた私――日本の空軍将官には、〝すばらしいものを奴さん等〈ラ〉使っていやがる〟と、羨望やら反感やら自侮感やらわからぬ感じがひらめいた。しかも機内の奇麗なこと、各座席には新品と思われる水中救命具一式が整然とおいてある。数名の兵が機内にあってわれわれのサービスをする。あたかも空輸会社の飛行機に観光旅客として乗り込んだような感じだ。こうした待遇ぶりは、敵国の軍使にも丁寧な取り扱いをする文明国の態度でもあろうが、一面また余裕綽々〈シャクシャク〉たる大戦勝国の威風を誇示するものとも考えざるを得なかった。
 午後二時過ぎ、この大型機は悠々と離陸した。離陸前に、要求されて着装した救命衣を、場周飛行の終わるとともに、取りはずした。当番兵は間もなくサンドウィッチとレモンジュースとをわれわれに配給した。今朝七時頃木更津で朝食をしたそのままの腹中であっただけに、非常な食欲で食い終わった。
 伊江島以降もまた天気がよく、高度は目測四千メートルぐらいであろうか。
 午後五時四十五分(私の時計――東京時間)マニラのニコラス・フィールド飛行場に着陸した。この飛行場は、かつて私が、航空本部の総務部長として、南方戦場を巡視した際、わが部隊の駐留している勝利の雰囲気の中に実視し、改築施工などのことについて論じあったこともあったが、今、この国家の完全な敗戦にもとづく新しい任務をもって、敵の占有下に着陸する運命に際会した。その前後の時間間隔三年と四ヵ月。
 飛行機を出て、タラップを降りようとすると、写真機の集中射を蒙った。タラップを離れるとともにそこに立っていた一人の大佐が、日本語でハッキリと、〝お迎えに来ました〟という。この言葉によって、私には一種の親和感がおこり、その刹那まで体内に充ち満ちていた重苦しい気持ちが瞬間的にほぐれて、殆んど無意識的に握手の手をさしのべた。彼もまたこれに応ずるように、右手をのばしたが、ヒョッと思いなおしたかのように、その動作をやめた。それで私もハッと気がつき、「握手はまだいけないんだ」と感づき、また、直前の重苦しい気持ちに戻り、その大佐の案内について、数十歩行くと一台の自動車があった。その入口の側に一人の将官が立っていて、私に対し手の合図で乗車せよとの意を通じた。私の左側にこの将官がすわり、運転手の助手席にさきの大佐が腰をかけた。
 車が動き出してから、大佐の通訳で将官はいう、〝日本側の一行は六名ぐらいだと思ってあるホテルに準備したが、十六名と知ってから急にホテルを変更した。上等ではないが十六名に応ずる部屋は準備できた〟云々、あたかも遠来の客にものいう態度であった。
 ホテルに行けば、八時三十分から会同するから、それまで休憩し、その間沐浴食事などを終わってくれとのことであった。
 マニラの夏の夕べのこと、はなはだむし暑い。私はシャワーを浴びて出て来ると、室内の机の上に日本の扇――もうだいぶ使われたものであったが――が一本おいてあった。一行の誰かの好意で持って来てくれたものと内心感謝しながら、これを使おうと開いたところ、名筆とは思い得ないが、毛筆の墨書で、君辱臣死という四文字が書かれてあった。
 瞬間的に私は烈しい緊張感を覚えた。一行の中にも誰か私と同じ感を抱いて来たものがあって、ここで私にあらためて覚悟を促したのであるまいかと思った。誰がこれをここにもって来てくれたのか、ことさらに私は詮議することをやめ、心ひそかに感謝して、その扇子で風をいれた。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2021・8・28(なぜか10位に土肥原賢二)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする